武藏野

山田美妙

武藏野むさしの　　　上

此この武藏野むさしのは時代物語じだいものがたりゆゑ、まだ例れいは無ないが、その中なかの人物じんぶつの言葉ことばをば一種いつしゆの體ていで書かいた。此この風ふうの言葉ことばは慶長けいちやう頃ごろの俗語ぞくごに足利あしかが頃ごろの俗語ぞくごとを交まぜぜたものゆゑ大概たいがい其その時代じだいには相應そうおうして居ゐるだらう。

1

あゝ今いまの東京とうけい、むかしの武藏野むさしの。今いまは錐きりも立たてられぬ程ほどの賑にぎはしさ、昔むかしは關せきも立たてられぬほどの廣ひろさ。今いま仲なかの町ちやうで遊客うかれをに睨付にらみつけられる烏からすも昔むかしは海邊うみばた四五丁しごちやうの漁師れうし町まちでわづかに活計くらしを立たてゝ居ゐた。今いま柳やなぎ橋はしで美人びじんに拜おがまれる月つきも昔むかしは「入いるべき山やまもなし」、極ごくの素寒貧すかんぴんであッた。實じつに今いまは住すむ百萬ひやくまんの蒼あお生ひと草ぐさ，實じつに昔むかしは生はえて居ゐた億おく萬まんの生草なまくさ。北きたは荒川あらかはから南みなみは玉川たまがはまで、嘘うそも無ない一面いちめんの青あを舞臺ぶたいで、草くさの樂屋がくやに虫むしの下方したかた，尾を花ばなの招引まねぎにつれられて寄より來くる客きやくは狐きつねか、鹿しかか、又または兎うさぎか、野の馬うまばかり。比この樣やうな處ところにも世よの亂みだれとて是非ぜひもなく、此頃このころ軍いくさがあッたと見みえ、其處此處そここゝには腐くされた、見みるも情無なさけない死骸しがいが數多かずおほく散ちッて居ゐるが、戰國せんごくの常習ならひ、それを葬はうむッてやる和尚おしやうもなく、たゞ處々ところどころにばかり、退陣たいじんの時ときにでも積つまれたかと見みえる死骸しがいの塚つかが出來できて居ゐて、それには僅わづかに草くさや土つちや又または敝やぶれて血ちだらけになッて居ゐる陣じん幕まくなどが掛かかッて居ゐる。其その外ほかはすべて雨あまざらしで鳥とりや獸けものに食くはれるのだらう、手てや足あしが千切ちぎれて居ゐたり、また記標しるしに取とられたか、首くびさへも無ないのが多おほい。本當ほんたうに是これ等らの人々ひとびとにもなつかしい親おやもあらう、可愛かあいらしい妻子つまこもあらう、親したしい交まじはりの友とももあらう、身みを任まかせた主君しゆくんもあらう、それであッて此このありさま ，刃やいばの串くしにつんざかれ、矢玉やだまの雨あめに碎くだかれて異ゐ域いきの鬼おにとなッてしまッた口惜くちをしさはどれ程ほどだらうか。死しんでも誰だれにも祭まつられず……故郷こきやうでは影かげ膳ぜんをすゑて待まッて居ゐる人ひともあらうに……「ふる郷さとに今宵こよいばかりの命いのちとも知しらでや人ひとの我われをまつらむ」……露つゆの底そこの松まつ蟲むしもろとも空むなしく怨うらみに咽むせんで居ゐる。それならそれが生いきて居ゐた内うちは榮華えいぐわをして居ゐたか。なかなか左樣さうばかりでも無ない世よが戰國せんごくだものを。武士ぶしは例外れいぐわいだが。只たゞの百姓ひやくしやうや商人あきうどなど鋤鍬すきくはや帳面ちやうめんの外ほかはあまり手てに取とッた事ことも無ないものが「サァ軍いくさだ」と驅かり集あつめられては親おや兄弟きやうだいには涙なみだの水みづ杯さかづきで暇いとま乞ごひ。「しかたが無ない。これ 、悴せがれ。死人しにんの首くびでも取とッて胡麻化ごまくわして功名こうめうしろ」と腰こしに弓ゆみを張はる親父おやぢが水みづ鼻はなを垂たらして軍ぐん略りやくを皆傳かいでんすれば、「あぶなかッたら人ひとの後うしろに隱かくれてなるたけ早はやく逃にげるがいゝよ」と兜かぶとの緒をを緊しめてくれる母親はゝおやが涙なみだを噛かみ交まぜて忠告ちうこくする。ても耳みゝの底そこに殘のこるやうに懷なつかしい聲こゑ、目めの奧おくに止とどまるほどに■したしい顏かほをば「左樣さやうならば」の一言ひとことで聞きき捨すて、見捨みすて、さて陣鉦ぢんがねや太鼓たいこに急せき立たてられて修羅しゆらの街ちまたへ出掛でかければ、山奧やまおくの青あを苔ごけが褥しとねとなッたり、河岸かしの小こ砂利じやりが襖ふすまとなッたり、その内うちに……敵てきが……そら、太鼓たいこが……右左みぎひだりに大將たいしやうの下知げぢが……そこで命いのちが無なくなッて、跡あとは野原のはらでこの有ありさまだ。死しぬ時ときにはさぞ■もがいたらう，さぞ死しぬまいと齒はをくひしばッたらう。血ちは流ながれて草くさの色いろを變かへて居ゐる。魂たましひも亦また身體からだから居ゐ處どころを變かへて居ゐる。切きり裂さかれた疵きず口ぐちからは怨うらめしさうに臟腑ざうふが這はひ出だして、其その上うへには敵てきの餘よ類るゐか 、金こがねづくり 、薄うす金がねの鎧よろひをつけた蠅はへ將軍しやうぐんが陣取じんどッて居ゐる。はや乾かはいた眼めの玉たまの池いけの中なかには蛆うじ大將たいしやうが勢せい揃ぞろへ。勢いきほひよく吹ふくのは野分のわけの横風よこかぜ……變則へんそくの匂にほひ嚢ぶくろ……血腥ちなまぐさい。

2

はや下甫ななつさがりだらう、日ひは函はこ根ねの山端やまのはに近寄ちかよッて儀式ぎしきどほり茜色あかねいろの光線くわうせんを吐はき始はじめると末すゑ野のは些すこしづ ゝ薄樺うすかばの隈くまを加くはへて、遠山とほやまも、毒どくでも飮のんだか段々だんだんと紫むらさきになり、原はらの果はてには夕暮ゆふぐれの蒸發じやうはつ氣きが切しきりに逃とほ水みづをこしらへて居ゐる。頃ころは秋あき。其處此處そここゝ我儘わがまゝに生はえて居ゐた木きも既すでに緑みどりの上衣うはぎを剥はがれて、寒さむいか、風かぜに慄ふるへて居ゐると、旅たび歸がへりの椋鳥むくどりは慰なぐさめ顏がほにも澄すまし切きッて囀さへづッて居ゐる。處ところへ大層たいそう急足いそぎあしで西にしの方はうから歩行あるいて來くるのはわづか二人ふたりの武者むしやで、いづれも旅行りよかうの體ていだ。

3

一人ひとりは五十ごじふ前後ぜんごだらう、鬼髯おにひげが徒黨とたうを組くんで左右さいうへ立たち別わかれ、眼めの玉たまが金かな壺つぼの内うちぐるわに楯たて籠こもり、眉まゆが八はち文もん字じに陣ぢんを取とり、唇くちびるが大おほ土堤どてを厚あつく築きづいた體てい、それに身長みのたけが櫓やぐらの眞似まねして、筋骨すぢぼねが暴あれ馬うまから利足りそくを取とッて居ゐる鹽梅あんばい、どうしても時世じせいに恰好かツかうの人物じんぶつ、自然淘汰しぜんとほたの網あみの目めをば第一だいいちに脱ぬけて生いき殘のこる逸物いちもつと見みえた。その打扮いでたちはどんなだか。身みに着ついたのは淺あさ紺こんに濃茶こいちやの入はいッた具足ぐそくで威おどしもよほど古ふるびて見みえるが、ところどころに殘のこッて居ゐる血痕ちのあとが持主もちぬしの軍いくさ馴なれたのを證據しやうこ立だてゝ居ゐる。兜かぶとは無なくて亂らん髮ぱつが藁わらで括くくられ、大た刀ち疵きずが幾許いくらもある臘ろ色いろの業物わざものが腰こしへ反返そりかへッて居ゐる。手て甲かうは見馴みなれぬ手て甲かうだが、實じつは濃じやう菊ぎくが剥はがれて居ゐるのだ。此この體ていで考かんがへればどうしても此この男をとこは軍事ぐんじに馴なれた人ひとに違ちがひ無ない。

4

今一人いまひとりは十八じふはッ九くの若わか武者むしやと見みえたけれど 、鋼鐵はがねの厚兜あつかぶとが大概たいがい顏かほを匿かくして居ゐるので十分じふぶんにはわからない。しかし色いろの淺黒あさぐろいのと口くちに力身りきみのある處ところでざッと推おして見みれば是これも屹きッとした面體めんていの者ものと思おもはれる 。身長みのたけは酷ひどく大おほきくも無ないのに、具足ぐそくが非常ひじやうな太胴ふとどうゆゑ、何なんとなく身みの横幅よこはゞが釣合つりあひわるく太ふとく見みえる。具足ぐそくの威おどしは濃こい藍あゐで 、魚目うなめは如何いかにも堅かたさうだし、そして胴どうの上縁うはべりは離はなれ山路やまみちで■單あつさり圍かこまれ、その中なかには根ね笹ざゝのくづしが打うたれてある。腰こしの物ものは大小だいせうともに中々なかなか見事みごとな製作つくりで、鍔つばには、誰だれの作さくか、活々いきいきとした蜂はちが二に疋ひきほど毛け彫ぼりになッて居ゐる。古ふるいながら具足ぐそくも大刀たちもこのとほり上等じやうとうな處ところで見みると此この人ひとも雜兵ざふひやうでは無ないだらう。

5

此頃このごろのならひとて此この二人ふたりが歩行あるく内うちにも四邊あたりへ心こゝろを配くばる樣子やうすは中々なかなか泰平たいへいの世よに生うまれた人ひとに想像さうざうされない程ほどであッて、茅萱ちがやの音おとや狐きつねの聲こゑに耳みゝを側そばたてるのは愚おろかなこと、すこしでも人ひとが踏ふんだやうな痕あとの見みえる草くさの間あひだなどをば輕々かろがろしく歩行あるかない。生いきた兎うさぎが飛とび出だせば伏勢ふせぜいでも有あるかと刀かたなに手てが掛かかり、死しんだ兎うさぎが途みちにあれば敵てきの謀計はかりごとでもあるかと腕うでがとりしばられる。其その頃ころはまだ純粹じゆんすゐの武藏野むさしので、奧州あうしう街道かいだうは僅わづかに隅田川すみだがわの邊へんを沿そふてあッたので、中々なかなか通常つうじやうの者もので只今ただいまの九段くだんあたりの内地ないちへ足あしを踏ふみ込こんだ人ひとは無なかッたが、その些すこし前まへの戰爭せんさうの時ときには此この高たか處みへも陣ぢんが張はられたと見みえて、今いま此この二人ふたりが其その邊へんへ來き掛かかッて見回みまわすと千切ちぎれた幕まくや兵粮ひやうらうの包つつみが死骸しがいと共ともに遠近あちこちに飛散とびちッて居ゐる。この體ていに旅人たびびとも首くびを傾かたむけて見みて居ゐたが、やがて年としを取とッた方はうが徐しづかに幕まくを取とり上あげて紋もん處どころをよく見みると是これは實じつに間ま違ちがひ無なく足利あしかがの物ものなので思おもはずも雀躍こをどりした、
「見みなされ。是これは足利あしかがの定ぢやう紋もんぢや。はて心地こゝちよいわ」。と言いはれて若わかいのも點頭うなづいて、
「左樣さうぢや 。酷むごい有樣ありさまでおじやるわ。あの先年せんねんの大おほ合戰かつせんの跡あとでおじやらうが、跡あとを取とり收おさめる人ひとも無なくて……」。
「女々めゝしいこと。何なんでおじやる。思おもひ出だしても二方ふたかた（新田につた義宗よしむねと義興よしおき）の御おん手て並なみ、さぞな高氏たかうぢづらも身み戰ぶるいをしたらうぞ。あの石濱いしはまで追おひ詰つめられた時ときいたう見苦みぐるしくあッてぢや」。
「ほゝ御お主のし、其その時ときの軍いくさに出でなされたか。耳みゝよりな……語かたりなされよ。」
「かたり申まをさうぞ。たゞし物語ものがたりに紛まぎれて遲おくれては面目めんもくなからう 。翌日あす頃ごろは何いづれも決さだめて鎌倉かまくらへいでましなさらうに ……後おくれては……」。
「それも左樣さうぢや，左樣さうでおじやる。さらば物語ものがたりは後のちに爲なされよ。兎とに角かくこの敗はい軍ぐんの體ていを見みればいとゞ心こゝろも引ひき立たつわ。」
「引ひき立たつわ、引ひき立たつわ、糸いとの樣ように引ひき立たつわ 。和お主のしも是これから見參げんざんして毎度まいど手柄てがらをあらはしなされよ」。
「是これからは亦また新田にッたの力ちからで宮みや方がたも勢いきほひを増ますでおじやろ。楠くすのきや北畠きたばたけが絶たえたは惜おしいが、また二方ふたかたが世よに秀すぐれておじやるから……」。
「嬉うれしいぞや。早はやう高たか氏うぢづらの首くびを斬きりかけて世よを元弘げんかうの昔むかしに復かへしたや」。
「それは言いはんでもの事こと。如何いかばかりぞ其その時ときの嬉うれしさは」。

6

「是これでわかッたこの二人ふたりは新田にツた方がただと。そして先年せんねん尊氏たかうぢが石濱いしはまへ追おひ詰つめられたとも言いひ、また今日けふは早はやく鎌倉かまくらへ是等これら二人ふたりが向むかッて行ゆくと言いふので見みると、二人ふたりとも間違まちがひ無なく新田にツた義興よしおきの隊ての者ものだらう。應答わうたうの内うちにはいづれも武者むしや氣質かたぎの凜々りゝしい處ところが見みえて居ゐたが 、比くらべ合あはせて見みるとどほしても若わかいのは年としを取とッたのよりまだ軍いくさにも馴なれないので血ち腥なまぐさ氣げが薄うすいやうだ。

7

それから二人ふたりは今いまの牛うしヶ淵ふちあたりから半藏はんざうの壕ほりあたりを南みなみに向むかッて歩あるいて行いツたが、其その頃ころはまだ、此この邊へんは一面いちめんの高臺たかだいで、はるかに野原のはらを見通みとほせる處ところから二人ふたりの話はなしも大抵たいてい四方よもの景色けしきから起おこッて居ゐる。年としを取とッた武者むしやは北東きたひがしに見みえるかたそぎを指ゆびさして若わかいのに向むかひ、
「誠まことに廣ひろいではおじやらぬか 。何處いづくを見みても原はらばかりぢや。和お主のしなどはまだ知しりなさるまいが、それ那處あすこのかたそぎ、喃なうあれが名なに聞きこゆる明神みやうじんぢや。その、また、北東きたひがしには濱成はまなりたちの觀世音くわんぜおんがあるが、此處こゝからは草くさで見みえぬわ」。
「浮評うはさに聞きこえる御社みやしろはあの事ことでおじやるか。見みれば太いたう小ちひさなものぢや」。
「あの傍そばぢや、己おれが、誰たれやらん逞たくましき、敵てきの大將たいしやうの手てに衝入つきいッて騎馬きばを三人さんにん打うち取とッたのは。その大將たいしやうめ、はるか對方むかふに栗毛くりげの逸物いちもつに騎のッて扣ひかへてあつたが、己おれの働はたらきを心こゝろにくゝ思おもひつらう、『あの武士さむらひ、打うち取とれと金かな切きり聲こゑ立たてゝをッた」。
「はゝゝゝ、嘸さぞ御感ぎよくわんに入いりなされたらう、軍いくさが終おわッて。身みに疵きずをば負おひなされたか」。
「四しヶ所しよ負おひたがいづれも薄手うすでであッた。迚とてもあの樣やうな亂らん軍ぐんの中なかでは無む疵きずであらう者ものはおじやらぬ。勿論もちろん原はらで戰たたかふのぢやから、敵てきも味方みかたも其その時ときは大抵たいてい騎馬きばであッた。が味方みかたの手綱たづなには大おほ殿との（義貞よしさだ）が仰おふせられたまゝ金かな鏈ぐさりが縫ぬひ込こまれてあッたので手綱たづなを敵てきに切離きりはなされる掛念けねんは無なかッた。其その時ときの二にの大將たいしやう（義興よしおき）の打扮いでたちは目覺めざましい物ものでおじやッたぞ」。
「一いちの大將たいしやう（義宗よしむね）もおじやッたらう」。
「おじやッた。この方かたもおなじ樣やうな打扮いでたちではおじやッたが、具足ぐそくの威おどしが些ちと濃こかッたゆゑ、二にの大將たいしやうほど目立めだちなさらなかッた」。

8

9

其その内うちに日ひは名殘なごり無なくほとんど暮くれ掛かかッて來きて雲くもの色いろも薄暗うすぐらく、野末のずゑも段々だんだんと霞かすんで仕舞しまふ頃ころ、變へんな雲くもが富士ふじの裾すそへ腰こしを掛かけて來きた。原はらの廣ひろさ、天そらの大おほきさ、風かぜの強つよさ、草くさの高たかさ、いづれも恐おそろしい程ほどに苛いかめしくて、人家じんかは何處どこか些すこしも見みえず、時々ときどきははるか對方むかふの方はうを馳はせて行ゆく馬うまの影かげがちらつくばかり、夕暮ゆふぐれの淋さみしさは段々だんだんと腦のうを噛かんで來くる。「宿やどるところもおじやらぬ喃なう」。「今宵こよひは野宿のじゆくするばかりぢや」。「急いそがうぞ」。「急いそぎやれ」。是これだけの應答おうたうが幾度いくども試驗しけんを受うけた。
「馬うまが走はしるわ。捕とらへて騎のらうわ 。和お主のしは好このみなさらぬか」。
「それ面白おもしろや。騎のらうぞや。すはや這方こなたへ近ちかづくよ」。

10

二人ふたりは馬うまに騎のらうと思おもッて、近ちかづく群むれをよく視みれば是これは野の馬うまの簇むれでは無なくて、大變たいへんだ、敵てき、足利あしかがの騎馬きば武者むしやだ。
「はッし、ぬかッた、氣きが注つかなかッた。馬うまぢや……敵てきぢや……敵てきの馬うまぢや」。「敵てきは多勢たぜいぢや、世良せら田だどの」。「味方みかたは無勢ぶせいぢや、秩父ちちぶどの」。「さても……」「思おもはぬ……」敵てきはまぢかく近寄ちかよッた。
「動うごくな、落武者おちむしや。知しらぬか、新田にツた義興よしおきは昨日きのふ矢口やぐちで殺ころされてぢや」。
「なに、二にの君きみが」。
「今更いまさら知しッたか、覺悟かくごせよ」。

11

跡あとは降ふッた 、劍つるぎの雨あめが。草くさは貰もらッた、赤あか繪具えのぐを 。淋さみしさうに生出うまれでる新月しんげつの影かげ。くやしさうに吹ふく野のの夕風ゆふかぜ。

中ちう。

12

「山里やまざとは冬ふゆぞさみしさまさりける、人目ひとめも草くさもかれぬと思おもへば」。秋あきの山里やまざととてその通とほり、宵よひながら凄すごいほどに淋さびしい。衣服きものを剥はがれたので痩やせ肱ひじに瘤こぶを立たてゝ居ゐる柿かきの梢こずえには冷笑顏あざわらひがほの月つきが掛かかり、青あを白しろく冴さへ亙わたッた地面ぢめんには小こ枝えだの影かげが破隙われめを作つくる。はるかに狼おおかみが凄味すごみの遠吠とほぼえを打込うちこむと谷間たにまの山彦やまびこがすかさずそれを送返おくりかへし，望のぞむかぎりは狹霧さぎりが朦朧もうろうと立たち込こめてほんの特許とくきよに木下こした闇やみから照射ともしの影かげを惜をしさうに泄もらし、そして山氣さんきは山颪やまおろしの合方あひかたとなッて意地いぢわるく人ひとの肌はだを噛かんで居ゐる。さみしさ凄すごさは是こればかりでも無なくて、曲まがりくねッたさも惡徒あくとらしい古こ木ぼくの洞穴うろには梟ふくろがあの怖こはらしい兩眼りやうがんで月つきを睨にらみながら宿鳥ねとりを引裂ひきさいて生血なまちをぽたぽた　……

13

崖下がけしたにある一構ひとかまへの第宅やしきは郷士がうしの住處すみかと見みえ、よほど古ふるびては居ゐるが、骨太ほねふとく粧飾かざり少すくなく、夕顏ゆふがほの干物ひものを衣服きものとした小柴こしば垣がきがその周圍まはりを取とり卷まいて居ゐる。西にし向むきの一室ひとま、その前まへは植込うゑこみで、色々いろいろな木きがきまりなく、勝手かつてに茂しげッて居ゐるが、その一室ひとまは此處こゝの家族かぞくが常つねに居ゐる室まだらう、今いまも其處そこには二人ふたりの婦人ふじんが……

14

けれど先まず第一だいいちに人ひとの眼めに注とまるのは夜目よめにも鮮明あざやかに若わかやいで見みえる一人ひとりで、言いはずと知しれた妙齡としごろの處女をとめ。燈火ともしびは下等かとうの密蝋みつらうで作つくられた一里いちり一寸いつすんの松明たいまつの小ちひさいのだから四邊あたりどころか、燈火ともしびを中心ちうしんとして半徑はんけいが二に尺しやくほどへだゝッた處ところには一切いつさい闇やみが行ゆき亙わたッて居ゐるが、しかし容貌かほだちは水際みづぎはだッて居ゐるだけに十分じふぶん若わかい人ひとと見みえる。年頃としごろはたしかに知しれないが眼め鼻はなや口くちの權衡つりあひがまだよくしまッて居ゐない處ところで考かんがへれば酷ひどく長たけても居ゐないだらう。その癖くせに坐丈すわりぜいは中々なかなかあッて、そして（少女をとめの手弱たよわに似にず）腕うで首くびが大層たいそう太ふとく、その上うへに人ひとを見みる眼光めざしが……眼めは脹目縁はれまぶちを持もッて居ゐながら……、難なんを言いへば、凄すごい……でもない……やさしくない。たゞ肉にくが肥こえて腮あごにやはらかい段だんを立たたせ、眉まゆが美事みごとで自然しぜんに顏かほを引ひき立たたせたのでやゝ見み處どころが有あるやうに見みえる。その些すこし前まへまでは白菊しらぎくを摺すり箔はくにした上衣うはぎを着きて居ゐたが、今いまはそれを脱ぬいでたゞ蒲がまの薄うす綿わたが透すいて見みえる葛くずの衣服きものばかりで居ゐる。

15

之これと對合むかひあッて居ゐるのは四十しじふ前後ぜんごの老女らうぢよで、是これも着物きものは葛くずだが柿かき染そめの古ふるぼけたので、何どうしたのか砥粉とのこに塗まみれて居ゐる。顏かほ形かたち、それは老若らうにやくの違ちがひこそはあるが、ほとほと　前まへの婦人ふじんと瓜うり二ふたつで……ちと輕けい卒そつな判斷はんだんだが、だから此この二人ふたりは多分たぶん母子おやこだらう。

16

二人ふたりとも何なにやら浮うかぬ顏色かほいろで今迄いままでの談話はなしが途切とぎれたやうな體ていであッたが、少焉しばらくして老女らうぢよは屹きツと思付おもひついた體ていで傍そばの匕首あひくちを手てに取上とりあげ、「忍藻おしも、和女おことの物もの思おもひも道理ことわりぢやが……此この母はゝとていたう心こゝろには掛かかるが……さりとて、こや其その樣やうに、忍藻おしも太息といき吐つくやうでは、太と息いきのみ吐ついて居ゐるやうでは武士ものゝふ……實まことよ、世良せら田だ三郎さぶらうの刀禰とねの内君うちぎみには……聞きけよ、此この母はゝの言葉ことばを，見みよ、この母はゝの衣きぬを。和女おことはよも忘わすれは爲せまい 、和女おことには實まことの親おや、己おれには實まことの夫をつとのあの民部みんぶの刀禰とねが這回こたび二にの君きみの軍いくさに加くははッて 、天晴あつぱれ世よを元弘げんかうの昔むかしに復かへす忠義ちゆうぎの中うちに入いらうとて、世良せら田だの刀禰とねもろとも門出かどでした時とき、己おれは、こや忍藻おしも、己おれは何なにして何言なにいふたぞ。己おれが手てづから本ほん磨とぎに磨とぎ上あげた南部なんぶ鐵てつの矢根やのねを五十ごじふ筋すじ、各自おのおのへ廿にじふ五ご筋すじ、喃なう門出かどでの祝いわひと差出さしだして、忍藻おしも聞きけよ−−『二方ふたかたの中うちの誰方どなたでも前まへ櫓やぐらで敵てきを引受ひきうけなさるならこの矢根やのねに鼻はな油あぶら引ひいて、兜かぶとの金具かなぐの目欲めぼしいを附居つけをるを打止うちとめなされよ。また殿しんがりで敵てきに向むかひなさるなら、鹿毛かげか、葦あし毛げか、月つき毛げか、栗毛くりげか、馬うまの太ふとく逞たくましきに騎のつた大將たいしやうを打取うちとりなされよ。婦人おなごの甲斐かひなさ、それよ忠義ちうぎの志こゝろざしばかりでおじやるわ」。と此この眼まなこから張切はりきれうづる涙なみだを押おさへて……おゝ己おれは今いま泣ないては居ゐぬぞ、忍藻おしも……己おれも武士ものゝふの妻つまあだに夫をつとを勵はげまし、聟むこを急せいたぞ。そを和女おこと、忍藻おしもも見みておじやッたらうぞ喃なう。武士ものゝふの妻つまのこゝろばえは斯か程ほど無なうてはならぬわ。さればこそ今日きやうまでも休やすまず、夫をつとと聟むことは家いへには居をらぬが、己おれが矢根やのねを日々ひゞ磨とぎ澄すまして、おなじ忠義ちうぎの刀禰とねたちに與あたふるのぢや。かう衣きぬは砥粉とのこに塗まみれても中々なかなかにうれしいぞィ、然さすれば」。
「まことよ。仰おほせは道理ことはりにおじやる 。妾わらはとてなど……」。
「心こゝろから左さなら此この母はゝもうれしいわ。見みよ、喃なう、この匕首あひくちを。門出かどでの時とき、世良せら田だの刀禰とねが和女おことに此こを殘のこして再會さいくわいの記念かたみと爲なされたらうよ。それを見みたらよしない、女々めゝしい心こゝろは、刀禰とねに對たいして出だされまい。和女おこととて一亙ひとわたりは武藝ぶげいをも習ならふたのに、近ちかくは伊賀局いがのつぼねなんどを龜鑑かがみとなされよ。人ひとの噂うわさには色々いろいろの詐僞いつわりもまじはるものぢや。輕々かるかるしく信うければ後のちに悔くゆることもあらうぞ」。
言切いひきつて母はゝは返へん辭じを待皃まちがほに忍藻おしもの顏かほを見詰みつめるので忍藻おしもも仕方しかたなささうに、挨拶あいさつしたが、それも僅わづかに一言ひとことだ。
「さも然さうず」。
母はゝも覺束おぼつかない挨拶あいさつだと思おもふやうな顏かほ付つきをして居ゐたが流石さすがに猶なほ強しひてとも言難いひかね、やがてやゝ傾かたぶいた月つきを見みて、
「夜よも更ふけた。さらば己おれは是これから看經かんきんせうぞ。和女おことは思おもひのまにまに寐いねよ」。

17

忍藻おしもがうなづいて禮れいを爲したので母はゝもそれから座ざを立たつて縁側えんがは傳づたひに奧おくの一間ひとまへやうやう行いッた。跡あとに忍藻おしもはたゞ一人ひとり起たッて行ゆく母はゝの後うしろ影かげを眺ながめて居ゐたが、しばらくして、こらへこらへた溜息ためいきの堰せきが一度いちどに切きれた。

18

話はなしの間あひだだが一寸ちよツと茲こゝで忍藻おしもの性質せいしつや身上みのうへが稍やゝ詳細つまびらかに述のべられなくてはならない。實じつに忍藻おしもはこの老女らうぢよの實じツ子しで、父親ちゝおやは秩父ちゝぶ民部みんぶとて前回ぜんくわい武藏野むさしのを旅行りよかうして居ゐた旅人たびびとの中うちの年としを取とつた方はうだ。そして旅人たびびとの若わかい方はうはすなはち世良せら田だ三郎さぶらうで、母親はゝおやの話はなしでも大抵たいていわかるが、忍藻おしもにはすなはち夫をツとだ。

19

此この三郎さぶらうの父親ちゝおやは新田にツた義貞よしさだの馬うまの口くち取とりで藤島ふぢしまの合戰かツせんの時とき主君しゆくんとともに戰死せんしをして仕舞しまひ、跡あとには其その時とき二歳ふたつになる孤子みなしごの三郎さぶらうが殘のこつて居ゐたので民部みんぶもそれを見みて不愍ふびんに思おもひ、引取ひきとつて育そだてる内うちに二年にねんの後のち忍藻おしもが生うまれた。處ところが三郎さぶらうは成長せいちやうするに從したがつて武術ぶじゆつにも長たけて來きて、中々なかなか見み處どころのある若者わかものとなつたので養父母やうふぼも大おほきに悦よろこび、そこでそれを終つひに娘むすめの聟むこにした。

20

21

それで若夫婦わかふうふは中なかよく暮くらして居ゐたところが、不圖ふと聞きけば新田にツた義興よしおきが足利あしかがから呼よばれて鎌倉かまくらへ入いるとの噂うはさがあるので血氣けツき盛さかりの三郎さぶらうは家いへへ引籠ひきこもつて軍いくさの話はなしを素聞すぎゝにして居ゐられず、舅しうとの民部みんぶも南朝なんてうへは心こゝろを傾かたむけて居ゐることゆゑ、難なんなく相談さうだんが整とゝのつてそれから二人ふたりは一途いツしよに義興よしおきの手てに加くははらうとて出立しゆつたつし、竟つひに武藏野むさしので不思議ふしぎな危難きなんに遇あつたのだ。その危難きなんにあつた事ことが精密せいみつではないが、薄々うすうすは忍藻おしもにも聞きこえたので、さァそれが忍藻おしもの心配しんぱいの種たねになり、母親はゝおやをつかまへて鬱出ふさぎだすので其處そこで前まへのとほり母親はゝおやもそれを諭さとして勵はげまして居ゐた。

22