狂言の神

       太宰 治


なんじら断食するとき、かの偽善者ぎぜんしゃのごとく悲しき面容おももちをすな。

                            (マタイ六章十六。)


1

今はき、畏友いゆう笠井一かさいはじめについて書きしるす。

2

笠井一。戸籍こせき名、手沼謙蔵けんぞう。明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生れた。亡父は貴族院議員、手沼源右衛門げんえもん。母はたか。謙蔵は、その六男たり。同町小学校を経て、大正十二年青森県立青森中学校に入学。昭和二年同校四学年修了しゅうりょう。同年、弘前ひろさき高等学校文科に入学。昭和五年同校卒業。同年、東京帝大仏文科に入学。若き兵士たり。はずかしくて死にそうだ。眼を閉じるとさまざまの、毛の生えた怪獣かいじゅうが見える。なあんてね。笑いながら厳粛げんしゅくのことを語る。と。 「笠井一かさいはじめ」にはじまり、「厳粛のことを語る。と。」にいたるこの数行の文章は、日本紙に一字一字、ていねいに毛筆でもって書きしたためられ、かれの書斎しょさい硯箱すずりばこのしたにかくされていたものである。案ずるに、かれはこの数行の文章をかれ自身の履歴書の下書として書きはじめ、一、二行を書いているうちに、はや、かれの生涯しょうがい悪癖あくへき含羞がんしゅう火煙かえんが、浅間山のそれのように突如とつじょ、天をもがさむ勢にて噴出ふんしゅつし、ために、「なあんてね」の韜晦とうかいの一語がひょいと顔を出さなければならぬ事態に立ちいたり、かれ日頃ひごろ自慢じまん竜頭蛇尾りゅうとうだびの形にゆがめて置いて筆を投げた、というようなふうである。私は、かれのぼっしたる直後に、この数行の文章に接し、はっと凝視ぎょうしし、再読、三読、さらに持ち直して見つめたのだが、どうにも眼がくもって、ついには、歔欷きょきの波うねり、一字をも読むあたわず、四つに折りたたんで、ふところへ、仕舞いんだものであるが、内心、塩でもまれて焼き焦がされる思いであった。

3

残念、むねんの情であった。若き兵士たり、それから数行の文章の奥底おくそこひそんで在る不安、乃至ないしは、極度なる羞恥しゅうち感、自意識の過重、或る一階級への義心の片鱗へんりん、これらは、すべて、銭湯のペンキ絵くらいに、徹頭徹尾てっとうてつび、月並のものである。私は、これより数段、たくみに言い表わされたる、これら諸感情にいての絶叫ぜっきょうもしくは、しわがれたつぶやきを、阪東ばんどう妻三郎の映画のタイトルの中に、いくつでも、いくつでも、発見できるつもりで居る。ことにも、おのが貴族の血統を、何くわぬ顔して一こと書き加えていたという事実にいては、全くもって、女子小人の虚飾きょしょく。さもしい真似まねをして呉れたものである。けれども、その夜あんなに私をくやしがらせて、ついに声たてて泣かせてしまったものは、これら乱雑安易の文字ではなかった。私はこの落書めいた一ひらの文反故ふみほごにより、かれの、死ぬるきわまで一定職に就こう、就こうと五体にあせしてあせっていたという動かせぬ、げんたる証拠しょうこに触れてしまったからである。二、三の評論家にうその神様、道化どうけの達人と、あるいはまともの尊敬を以て、あるいは軽いたわむれの心を以て呼ばれていた、作家、笠井一かさいはじめの絶筆は、なんと、履歴書りれきしょの下書であった。私の眼にくるいはない。かれの生涯しょうがいの念願は、「人らしい人になりたい」という一事であった。馬鹿ばかな男ではないか。一点にごらぬ清らかの生活を営み、友にも厚き好学の青年、創作に於いては秀抜しゅうばつの技量を有し、その日その日の暮しに困らぬほどの財産さえあったのに、サラリイマンを尊び、あこがれ、ついにはおそれて、おのが知れる限りのサラリイマンに、阿諛あゆ追従ついしょう、見るにしのびざるものがあったのである。朝夕の電車には、サラリイマンがぎっしりと乗りんでいるので、すまないやら、はずかしいやら、こわいやらにて眼のさきがまっくろになってしまって居づらくなり、つぎの駅で、すぐさま下車する、ゲエテにさも似た見ごとの顔を紙のように白ちゃけさせて、おどおど私に語って呉れたが、それから間もなく死んでしまった。ふうがわりの作家、笠井一の縊死いしは、やよいなかば、三面記事の片隅かたすみいていた。色様様いろさまざまの推察が巻き起ったのだけれども、そのことごとくが、はずれていた。誰も知らない。みやこ新聞社の就職試験に落第したから、死んだのである。

4

落第と、はっきり、きまった。かれら夫婦ひと月ぶんの生活費、その前夜に田舎いなかの長兄が送ってよこした九十円の小切手を、けさ早く持ち出し、白昼、ほろいに酔って銀座を歩いていた。老いつかれたる帝国大学生、袖口そでぐちぼろぼろ、すねほどに細長きズボン、ねずみいろのスプリングを羽織って、不思議や、若き日のボオドレエルの肖像しょうぞううり二つ。破帽はぼうをあみだにかぶり直して歌舞伎座かぶきざ、一幕見席の入口に吸いこまれた。

5

舞台では菊五郎きくごろうの権八が、したたるほどのみどり色の紋付もんつきを着て、赤い脚絆きゃはん、はたはたと手を打ち鳴らし、「きじも泣かずばたれまいに」とつぶやいた。嗚咽おえつが出て出て、つづけて見ている勇気がなかった。開演中お静かにお願い申します。千も二千も色様様の人が居るのに、歌舞伎座は、森閑しんかんとしていた。そっと階段をおり、外へ出た。ちまたにはがついていた。浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、およめにもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米しんまい、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気をつけてやった。その食堂には、大工や土方人足などがお客であって、角帽かくぼうかぶった大学生はまったくめずらしかった様子で、この店だけは、いつ来ても大丈夫だいじょうぶ、六人の女中みんなが、あれこれとかまってれた。人からあなどりを受け、ペしゃんこにみにじられ、ほうり出されたときには、書物を売り、きまって三円なにがしのお金をつくり、浅草の人ごみのなかへまじりむ。その店のちょうし一本十三銭のお酒にかなりい、六人の女中さんときれいに遊んだ。その六人の女中のうち、ひとり目立って貧しげな女の子に、声高く夫婦約束をしてやって、なおそのうえ、女の微笑びしょうするようないつわりごとを三つも四つも、あらわでなくちかってやったものだから、女の子、しだいに大学生を力とたのんだ。それから奇跡きせきがあらわれた。女の子、愛されているという確信を得たその夜から、めきめき器量をあげてしまった。三年まえの春から夏まで、百日もたぬうちに、女の、かみのかたちからして立派になり、思いなしか鼻さえ少したかくなった。ひたいあごも両の手も、ほんのり色白くなったようで、お化粧けしょううまくなったのかも知れないが、大学生をくるわせてはずかしからぬ堂々の貫禄かんろくをそなえて来たのだ。お金の有る夜は、いくらでも、いくらでも、その女のひとにだまされて、お金を無くする。そうして、女のひとにだまされるということは、よろこばしいものだとつくづく思った。女は、大学生からもらったお金は一銭もわが身につけず、ほうばいの五人の女中にわけてやり、ばたばたとすね団扇うちわで追いはらって浅草まつりが近づいたころには、その食堂のかんばん娘になっていた。神のせいではない。人の力がヴィナスをつくった。女の子は、せわしくなるにつれて恩人の大学生からしだいにはなれ、はなれた、とたんに大学生の姿も見えずなった。大学生には困難の年月がはじまりかけていたのである。

6

その夜、歌舞伎座かぶきざから、遁走とんそうして、まる一年ぶりのひさごやでお酒を呑みビールを呑みお酒を呑み、またビールを呑み、二十個ほどの五十銭銀貨を湯水の如くに消費した。三年まえに、ここではっきりと約束しました。ぼくは、出世をいたしました。よい子だから、けさの新聞を持っておいで。ほら、ね。ぼくの写真が出ています。これはね、ぼくの小説本の広告ですよ。写真、べそかいてる? そうかなあ。微笑したところなんだがなあ。約束、わすれた? あ、ちょいと、ちょいと。これは、新聞さがして持って来て呉れたお礼ですよ。まったく気がるに、またも二、三円を乱費して、ふと姉を思い、あらっぽい嗚咽おえつが、ぐしゃっと鼻にからんで来て、三十前後の新内しんない流しをつかまえ、かれにお酒をすすめたが、かれ、客の若さに油断して、ウイスキイがいいとぜいたく言った。おや、これは、しっけい、しっけい。若いお客は、気まえよく、あざむかれてやってウイスキイを一杯いっぱいのませ、さらにそのうえ、何か食べたいものはないかと聞くのである。新内しんないいよいよ気をゆるし、頬杖ほおづえついて、茶わんむしがいいなとこたえ、黒眼鏡めがねおくの眼が、ちろちろ薄笑うすわらいして、いまはすこぶる得意げであった。さて、新内さん。あなたというお人は、根からの芸人ではあるまい。なにかしら自信ありげの態度じゃないか。いずれは、ゆいしょ正しき煙管屋きせるや若旦那わかだんな。三代つづいた鰹節かつおぶし問屋の末っ子。ちがいますか? くだんの新内、薄化粧うすげしょうの小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、とささやいた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電灯のうち七つ消されて、心細くなったころ、鼻赤き五十をしたくらいの商人が、まじめくさってはいって来て、女中みんなが、おや、兄さん、と一緒いっしょさけんでこしかせた。立ちあがって、ちょっとかれに近づき、失礼いたします。久保田先生ではございませんか。私は、ことし帝大の文科を卒業いたします者で、少しは原稿げんこうも売れてまいりましたが、未だほとんど無名でございます。これから、よろしく、教えて下さい。直立不動の姿勢でもってそうお願いしてしまったので、商人、いいえ人違ひとちがいですと鼻のさきで軽くてのひらる機会を失い、よし、ここは一番、そのくぼたとやらの先生に化けてやろうと、悪事の腹をえたようである。

7

――ははは。ま。けたまえ。

8

――よっ。

9

――のみながら。

10

――はっ。

11

――ひとつ。

12

――はっ。という工合ぐあいに、兵士の如くかたをいからせ、すすめられた椅子いすに腰をおろして、このようなところで先生においするとは実もって意外である。先生は毎晩ここにおいでになるのでしょうか。私は、先夜、先生の千人風呂ぶろという作品を拝誦はいしょうさせていただきましたが、やはり興奮こうふんいたしまして、失礼ながらお手紙さしあげたはずでございますが。

13

――あれは君、はずかしいものだよ。

14

――しつれいいたしました。私の記憶きおくちがいでございました。千人風呂は葛西かさい善蔵氏の作品でございました。

15

――まったくもって。

16

わけのわからぬ問答に問答をかさねて、そのうちに、久保田氏は、精神とか、ジャンルとか現象とかのこむずかしい言葉を言い出し、若い作家の読書力減退についてのお説教がはじまり、これは、まさしく久保田万太郎なのかもしれないなどと思ったらいも一時にさめはて、どうにも、つまらなくなって来て、蹌踉そうろうと立ちあがり、先生、それではごめん下さい。これから旅に出るのです。ええ、このお金がなくなってしまうところまで、と言いつつ内ポケットから二三枚の十円紙幣しへいをのぞかせて、見せてやって、外へ出た。

17

あああ。今夜はじつに愉快ゆかいであった。大川へはいろうか。線路へ飛びもうか。薬品を用いようか。新内しんないと商人と、ふたりの生活人に自信を与えた善根によっても、地獄じごくちるうれいはない。しずかな往生ができそうである。けれども、わが身が円タク拾って荻窪おぎくぼの自宅へ易々やすやすとかえれるような状態に在るうちは、心もにぶって、なかなか死ねまい。とにかく東京から一歩でも、半歩でもなんでも外へ出る。何卒なにとぞして、今夜のうちに、とりかえしのつかないところまで行ってしまって置かなければ。よこはまほんもく二円はどうだ。いやならやめろ。二円おんの字、承知のすけ。ぶんぶん言って疾進しっしんしてゆく、自動車の奥隅おくすみで、あっ、あっと声を放って泣いていた。今は亡き、畏友いゆう笠井一かさいはじめもへったくれもなし。ことごとく、私、太宰治ひとりの身のうえである。いまにいたって、よけいの道具だてはせぬことだ。私は、あした死ぬるのである。はじめに意図して置いたところだけは、それでも、言って知らせてあげよう。私は、日本の或る老大家の文体をそっくりそのまま借りて来て、私、太宰治を語らせてやろうとくわだてた。自己喪失症そうしつしょうとやらの私には、他人の口を借りなければ、われにいて、一言一句も語れなかった。たちらば大樹のかげ、たとえば鴎外おうがい、森林太郎、かれの年少の友、笠井一なる夭折ようせつの作家の人となりを語り、そうして、その縊死いしのあとさきに就いて書きしるす。その老大家の手記こそは、この「狂言きょうげんの神」という一編の小説に仕上るしくみになっていたのに、ああ、もはやどうでもよくなった。文章に一種異様の調子が出て来て、私はこのまま順風を一ぱいにはらんで疾駆しっくする。これぞ、まことのロマン調。すすまむかな。あす知れぬいのち。自動車は、本牧の、とあるホテルのまえにとまった。ナポレオンに似たひとだな、と思っていたら、やがてその女のひとの寝室に案内されまくらもとを見ると、ナポレオンの写真がちゃんとかざられていた。誰しもそう思うのだなと、やっとうれしく、あたたかくなって来た。

18

その夜、ナポレオンは、私の知らない遊びかたを教えて呉れた。

19

あくる朝は、雨であった。窓をひらけば、ホテルの裏庭。みどりの草が一杯いっぱいに生えて、牧場に似ていた。草はらのむこうには、赤濁りに濁った海が、低い曇天どんてんしつぶされ、白い波がしらも無しに、ゆらりゆらり、重いからだをゆすぶっていて、窓のした、草はらのうえに捨てられてある少し破れた白足袋たびは、雨に打たれ、女の青いしまのはんてんを羽織って立っている私は、きりわきの下を刺されくすぐられ刺されるほどに、たまらない思いであった。ハクランカイをごらんなさればよろしいに、と南国なまりのナポレオン君が、ゆうべにかわらぬ閑雅かんがの口調でそうすすめて、にぎやかの万国旗ばんこくきが、さっと脳裡のうりうかんだが、ばか、大阪へ行く、京都へも行く、奈良へも行く、新緑の吉野へも行く、神戸へ行く、ナイヤガラ、と言いかけて、ははははと豪傑ごうけつ笑いの真似まねをして見せた。しっけい。さようなら、あら、雨。はい、おかさ。私は好かれているようであった。その傘を、五円で買います。みんながどっと声をたてて笑いくずれた。ああ、ここで遊んでいたい。遊んでいたい。額がくるめく。なみだえる。けれども私は、辛抱しんぼうした。お金がないのである。けさ、トイレットにて、真剣しんけんにしらべてみたら、十円紙幣しへいが二枚に五円紙幣が一枚、それから小銭が二、三円。一夜で六、七十円も使ったことになるが、どこでどう使ったのか、かいもく見当つかず、これだけの命なのだ。まずしい気持ちで死にたくはなかった。二、三十円を無雑作にズボンのポケットヘねじ込んであるがままにして置いて死ぬのだ。倹約けんやくしなければいけない、と生れてはじめてそう思った。花の絵日傘をさして停車場へいそいだのである。停車場の待合室に傘を捨て、駅の案内所で、江の島へ行くには? と聞いたのであるが、聞いてしまってから、ああ、やっぱり、死ぬるところは江の島ときめていたのだな、と素直に首肯うなずき、少し静かな心地になって、駅員の教えて呉れたとおりの汽車に乗った。

20

ながれ去る山山。街道かいどう。木橋。いちいち見おぼえがあったのだ。それでは七年まえのあのときにも、やはりこの汽車に乗ったのだな、七年まえには、若き兵士であったそうな。ああ。はずかしくて死にそうだ。或る月のない夜に、私ひとりがげたのである。とり残された五人の仲間は、すべて命を失った。私は大地主の子である。地主に例外は無い。等しく君の仇敵きゅうてきである。裏切者としての厳酷げんこくなる刑罰けいばつを待っていた。ちころされる日を待っていたのである。けれども私はあわて者。ころされる日を待ち切れず、われからすすんで命をとうとくわだてた。衰亡すいぼうのクラスにふさわしき破廉恥はれんち頽廃たいはいの法をえらんだ。ひとりでも多くのものに審判しんぱんさせ嘲笑ちょうしょうさせ悪罵あくばさせたい心からであった。有夫の婦人と情死を図ったのである。私、二十二歳。女、十九歳。師走しわす、酷寒の夜半、女はコオトを着たまま、私もマントをがずに、入水じゅすいした。女は、死んだ。告白する。私は世の中でこの人間だけを、この小柄こがらの女性だけを尊敬している。私は、ろうへいれられた。自殺幇助罪ほうじょざいという不思議の罪名であった。そのときの、入水の場所が、江の島であった。(さきに述べた誘因のためにのみ情死を図ったのではなしに、そのほかのくさぐさの事情がいりくんでいたことをお知らせしたくて、私は、以下、その夜の追憶ついおくを三枚にまとめて書きしるしたのであるが、しのびがたき困難に逢着ほうちゃくし、いまはそっくり削除さくじょした。読者、不要の穿鑿せんさくをせず、またの日の物語に期待して居られるがよい)私は、煮えくりかえる追憶からさめて、江の島へ下車した。

21

風のつよい日で、百人ほどの兵士が江の島へ通ずる橋のたもとに、むらがって座り、ひとしく弁当をたべていた。こんなにたくさんの人のまえで海へ身をおどらせたならば、ただいたずらに泳ぎ自慢じまんの二三の兵士に名をあげさせるくらいの結果を得るだけのことであろう。私は、れている灰色の海をちらと見ただけで、あきらめた。橋のたもとの望富かくという葦簾よしずを張りめぐらせる食堂にはいり、ビイルを一本そう言った。ちろちろと舌でなめるが如く、はりあいのない呑みかたをしながら、乱風のおく黄塵こうじんけむる江の島を、まさにうらめしげに、ながめていたようである。背を丸くし、頬杖ほおづえついて、三十分くらい、じっとしていた。このまま座って死んでゆきたいと、つくづく思った。新聞の一つ一つの活字が、あんなによごれてきたなく思われたことがなかった。ねずみいろのスプリング。細長い帝国大学生。背中を丸くして、ぼんやり頬杖をつく習癖しゅうへきがある。自殺しようと家出をした。そのような記事がいま眼のまえにあらわれ出ても、私はまゆひとつうごかすまい。むごいことには、私、おどろく力を失ってしまっていた。私にいての記事はなかったけれども、東郷さんのお孫むすめが、わたくしひとりで働いて生活したいと言うて行方ゆくえしれずになった事実が、下品にゆがめられて報告されていた。兵士たちが望富閣の食堂へぞろぞろとはいって来て、あまり勢いよくはいって来たので私のテエブルをころがした。コップもビイルのびんも、こわれなかったけれど、たしかに未だ半分以上も壜に残っていたビイルが白いあわを立てつつこぼれてしまった。二、三の女中は、そのもの音を聞き、その光景を背のびして見ていながら、当りまえの様な顔をして、なんにもものを言わなかった。トオキイの音が、ふっと消えて、サイレントに変った瞬間しゅんかんみたいに、しんとなって、天鵞絨ビロードのうえをねこが歩いているような不思議な心地にさせられた。狂気きょうきの前兆のようにも思われ、気持ちがけわしくなったので、それでも、わざとゆっくりと立ちあがり、お勘定かんじょうしてもらって外へ出た。たちまち烈風れっぷう。スプリングのすそがぱっとめくりあげられ、一握いちあく小砂利こじゃりが頬めがけてたたきつけられぱちぱちぜた。ぐっと眼をつぶって、今夜死ぬるとわれにささやき、みんながみんな遠くへ去っていって、世界に私がひとりだけ居るような気持ちで、ながいこと道路のまんなかに立ちつくした。眼をあいたときには、まったく意志を失い、幽霊ゆうれいのように歩いて、いそへ出た。真くろい雲が充満じゅうまんし、空は暗くて低かった。見渡みわたすかぎり、人のかげがなかった。くさりかけた漁船がひとつ、砂浜に投げ捨てられ、ひっくりかえって、まっくろい腹を見せてあるほかには、犬ころ一匹いなかった。私は、ズボンのポケットに両手をつっこみ、同じ地点をいつまでもうろうろ歩きまわり、眼のまえの海の形容詞を油汗あぶらあせながして捜査そうさしていた。ああ、作家をよしたい。もがきあがいてさがしあてた言葉は、「江の島の海は、殺風景であった」私はぐるっと海へ背をむけた。ここの海は浅く、飛びこんだところで、膝小僧ひざこぞうをぬらすくらいのものであろう。私は、しくじりたくなかった。よしんばしくじっても、そのあと、そ知らぬふりのできるような賢明けんめいの方法をえらばなければ。未遂みすいで人に見とがめられ、縄目なわめ恥辱ちじょくを受けたくなかった。それからどれほど歩いたのか。百種にあまる色さまざまの計画が両国の花火のようにぱっとひらいては消え、ひらいては消え、これときまらぬままに、ふらふら鎌倉行の電車に乗った。今夜、死ぬのだ。それまでの数時間を、私は幸福に使いたかった。ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱あんうつでもない、荒涼こうりょうでもない、孤独こどくの極でもない、知慧ちえの果でもない、狂乱きょうらんでもない、阿呆あほう感でもない、号泣ごうきゅうでもない、悶悶もんもんでもない、厳粛げんしゅくでもない、恐怖きょうふでもない、刑罰けいばつでもない、憤怒ふんぬでもない、諦観ていかんでもない、秋涼でもない、平和でもない、後悔こうかいでもない、沈思ちんしでもない、打算でもない、愛でもない、救いでもない、言葉でもってそんなに派手に誇示こじできる感情の看板は、ひとつも持ち合せていなかった。私は、深刻でなかった。電車のすみで一賎民せんみんのごとく寒さにふるえて眼玉をきょろきょろうごかしていただけのことであったのである。途中とちゅう、青松園という療養りょうよう院のまえをとおった。七年まえの師走しわす、月のあかい一夜、女は死に、私は、この病院に収容された。ひとつきほど、ここで遊んで、からだの回復をはかったのであるが、そのひとつき間の生活は、ほのかにではあったけれども、私に生きているよろこびを知らせて呉れた。それからの七年間、私にとっては五十年、いや、十種類の生涯しょうがいのようにも思われたほど、さまざまの困難が起り、そのときそのときの私の辛抱しんぼうもまったくむだのようであって、私にはあたりまえの生活ができず、ふたたび死ぬる目的を以て、こんどはひとりでやって来た。療養院にも七年の風雨が見舞っていて、純白のペンキのられていた離宮りきゅうのような鉄の門はねずみいろに変色し、七年間、私の眼にいよいよ鮮明にしみついていた屋根のかわらの燃えるような青さも、まだらに白く禿げて、ところどころを黒い日本瓦で修繕しゅうぜんされ、きたならしく、よそよそしく、まったく他人の顔であった。七年間、ほかの人から見たならば、私の微笑びしょうは、私の姿態は、この建築物よりいっそうよごれて見えるだろう。おや? 不思議のこともあるものだ。あの岩がなくなっているのである。ねえ、この岩が、お母さんのような気がしない? あたたかくて、やわらかくて、この岩、好きだな、女のひとはそう言ってでまわして、私も同感であったあのひらたい岩がなくなった。飛びこむ直前までそのうえで遊びたわむれていたあの岩がなくなった。こんなはずはない。どちらかが夢だ。がったん、電車は、ひとつ大きくゆれて見知らぬ部落の村へはいった。微笑ほほえましきことには、私はその日、健康でさえあったのだ。かすかに空腹を感じたのである。どこでもいい、にぎやかなところへ下車させて下さい、と車掌しゃしょうさんにたのんで、ほどなく、それではここで御降りなさいと教えられ、あたふたと降りたところは長谷はせであった。雨がほおらして呉れておお清浄せいじょうになったと思えて、うれしかった。成熟した女学生がふたり、かさがなくて停車場から出られず困惑こんわくの様子で、それでもくつくつ笑いながら、一坪ひとつぼほどの待合室の片隅かたすみできっちり品よくき合っていた。もしかさが一本、そのときの私にあったならば、私は死なずにすんだのかも知れない。おぼれる者のわら一すじ。深く、けわしく、よろめいた。ちかう。あなたのためには身をにして努める。生きてゆくから、しからないで下さい。けれどもそれだけのことであった。語らざれば、うれい無きに似たりとか。その二人の女のうち笹眉ささまゆをひそめて笑う小柄のひとに、千万の思いをこめて見つめる私のひとみの色が、了解りょうかいできずに終ったようだ。ひらっと、できるだけ軽快に身をひるがえして雨の中へおどり出た。つばめのようにはいかなかった。あやうくすべってころぶところであった。ふりかえりたいな。よせ! すぐ真向いの飲食店へさっさとはいった。薄暗うすぐらい食堂のかべには、すてきに大きい床屋とこや鏡がはめこまれていて、私の顔は黒眼がち、人なつかしげに、にこにこしていた。意外にも福福しい顔であったのだ。一刻も早くいしれたく思って、牛鍋ぎゅうなべを食い散らしながら、ビイルとお酒とをかわるがわるに呑みまぜた。君、茶化してしまえないものがあったのである。呑んでも呑んでも酔えなかった。信じ給え。鏡の中のわが顔に、この世ならず深く柔和にゅうわ憂色ゆうしょくがただよい、それゆえに高雅こうが、車夫馬丁ばていを常客とする悪臭あくしゅうふんぷんの安食堂で、ひとり牛鍋のねぎをつついている男の顔は、笑ってはいけない、キリストそのままであったという。ひるごろ私は、作家、深田久弥氏のもとをたずねた。かれの、はっきりすぐれたる或る一編の小説に依り、私はかれと話し合いたく願っていた。相州そうしゅう鎌倉二階堂。住所も、忘れてはいなかった。三度、ながい手紙をさしあげて、その都度、あかるい御返事いただいた。私がその作家を好きであるのと丁度おなじくらいに、その作家もまた私を好きなのだ、といつのまにか、ひとりできめてしまっていた。のこり少い時間である。仕合せのことに用いなければいけない。私は、一秒の猶予ゆうよもなしに、態度をきめた。そのときの私には、深田氏訪問以上の仕合せを考案しているいとまがなかった。雨はあがり、雲は矢のように疾駆しっくし、ところどころ雲の切れま、洗われて薄い水いろの蒼空あおぞらが顔を見せて、風は未だにかなりつよく、無法者、街々を走ってあるいていたが、私も負けずに風にさからってどんどん大股おおまたであるいてやった。ずかしいほどの少年になってしまった。千里の馬には千里のかて。たわむれにつぶやいて、たばこ屋に立ち寄り、キャメルという高価の外国煙草たばこを二個も買い、不良少年のふりをして、こっそり吸っては、あわててもみ消す。こしのまがった小さい巡査じゅんさが、両手をうしろに組んで街道かいどうのまんなかをぶらりぶらり、風にかれて歩いていた。私は二階堂への路順みちじゅんをたずねた。私は慧眼けいがん。この老巡査は、はたして忘れ得ぬ人たちの中のひとりであった。私の手を引かんばかり、はにかむような咄吃とつきつの口調でりかえし繰りかえし教えて呉れた。なに、二階堂はすぐそのさきに見えているのだ。老憊ろうはいの一生活人へ、まこと敬虔けいけんの心でお礼を申し述べ、教えられたとおりのみちをあやまたずに三曲りして、四曲りした角に、なんなく深田久弥のつつましき門札を見つけた。かねて思いはかっていたよりも十倍くらいきちんとしたお宅だったので、これは、これは、とひとりごとを言いながら、内心うれしく、微笑びしょうとめてもとまらなかった。石の段段をのぼり、字義どおりに門をたたいて、出て来た女中に大声で私の名前を知らせてやった。うれしや、主人は、ご在宅である。右手のこうで額のあせをそっとぬぐうた。女中に案内されて客間にとおされ、わざと秀才の学生らしく下手しもてにきちんと座って、芝生しばふきつめられたお庭をながめ、筆一本でも、これくらいの生活ができるのだ、とずいぶん気強く思ったものだ。こよい死ぬる者にとってはふさわしからぬ安堵あんど溜息ためいきがほっと出て、かるく狼狽ろうばいしていたとき、蓬髪花顔ほうはつかがんのこの家のあるじが写真のままの顔して出て来られて、はじめての挨拶あいさつをかわしたのであったが、私には、はじめての人のようにも思われず、おととしの春にふと私から遠ざかっていった友人の久保君も、三四年まえのたしか今ごろの季節に、きのう深田久弥にって来たと言い、日本人の作家には全く類がないくらいの、文学でないホオム・ライフを持っていて、あまり温順なので、こちらが腹の中で深田久弥の間抜野郎まぬけやろうつぶやいて笑っているようなひどくいけない錯覚さっかくがひらひらちらついて困惑こんわくするほど、それほどたまらなく善良の人がらなのだよ、と私に教えて呉れたことがあったけれど、いま私も、こうして対座して、ゆくりなく久保君の身のうえと、それから、「深田久弥の間抜野郎」を思い出し、悖礼はいれい瘠狗せきく千石船せんごくぶねに乗った心地で、ずいぶん油断をしてしまった。いまさら、なにも、論戦しなければならぬ必要もなし、すべての言葉がめんどうくさくて、ながいこと二人、庭を眺めてばかりいた。私は形而下けいじか的にも四肢しし充分じゅうぶんにのばして、そうして、今のこの私の豊沃ほうよくを、いったい、誰に教えてあげようか、保田與重郎やすだよじゅうろう氏はなみださえうかべて、なんどもなんども首肯うなずいて呉れるだろう。保田のそのうしろ姿を思えば、こんどは私が泣きたくなって、

22

――だんだん小説がむずかしくなって来て困ります。

23

――そう。……でも。

24

口ごもって居られた。不服のようであった。ヴィルヘルム・マイスタアは、むずかしく考えて書いた小説ではなかった、と私はわれに優しく言い聞かせ、なるほど、なるほどと了解りょうかいして、そうして、しずかな、あたたかな思いをした。私は、ふと象戯しょうぎをしたく思って、どうでしょうとさそったら、深田久弥も、にこにこ笑いだして、気がるく応じた。日本で一ばん気品が高くて、ゆとりある合戦をしようと思った。はじめは私が勝って、つぎには私が短気を起したものだから、負けた。私のほうが、すこし強いように思われた。深田久弥は、日本に於いては、全くはじめての、「精神の女性」をつくった一等の作家である。この人と、それから井伏鱒二いぶせますじ氏を、もっと大事にしなければ。

25

――一対一ということにして。

26

私は象戯しょうぎこまを箱へしまいながら、

27

――他日、勝負をつけましょう。

28

これが深田氏の、太宰についてのたった一つの残念な思い出話になるのだ。「一対一。そのうち勝負をつけましょう、と言い、私もそれをたのしみにしていたのに。」

29

ここをおとなうみちみち私は、深田氏を散歩にさそい出して、一緒いっしょにお酒をたくさん呑もう悪い望や、そのほかにも二つ三つ、メフィストのささやきを準備して来たはずであったのに、このような物静かな生活に接しては、われのあらい息づかいさえはばかられ、一ひらの桜の花びらを、てのひらせているようなこそばゆさで、充分じゅうぶんばした筈の四肢ししさえいまは萎縮いしゅくして来て、しだいしだいに息苦しく、そのうちにぽきんと音たててしょげてしまった。なんにも言えず飼いらされた牝豹めひょうのように、そのままそっと、辞し去った。お庭の満開のももの花が私を見送っていて、思わずふりかえったが、私は花を見て居るのではなかった。その満開の一枝に寒くぶらんとぶらさがっている縄きれを見つめていた。あのなわをポケットに仕舞って行こうか。門のそとの石段のうえに立って、はるか地平線を凝視ぎょうしし、遠あかねの美しさが五臓六腑ごぞうろっぷにしみわたって、あのときは、つくづくわびしく、せつなかった。ひきかえして深田久弥にぶちまけ、二人で泣こうか。ばか。うすきたない。間一髪かんいっぱつのところで、こらえた。この編上あみあげのくつひもを二本つなぎ合せる。短かすぎるようならば、ズボン下の紐が二尺。きめてしまって、私は、大泥棒おおどろぼうのように、どんどん歩いた。黄昏たそがれちまた、風を切って歩いた。路傍ろぼうのほの白き日蓮上人にちれんしょうにん辻説法跡つじせっぽうあとつかが、ひゅっと私の視野に飛びみ、時われに利あらずという思いもつかぬあらい言葉が、口をついて出て、おや? と軽くおどろき、季節に敗けたから死ぬるのか、まさか、そうではあるまいな? と立ちどまって、詰問きつもんした。いな、とのこたえを得て、こんどはのろのろ歩きはじめた。死んでしまったほうが安楽であるという確信を得たならば、ためらわずに、死ね! なんのとがもないのに、わがいのちをって見せるよりほかには意志表示の仕方を知らぬ怜悧れいりなるがゆえに、慈愛ふかきがゆえに、一掬いっきくの清水ほど弱い、これら一むれの青年を、ふびんに思うよ。死ぬるがいいとすすめることは、断じて悪魔あくまのささやきでないと、立証し得るうごかぬ哲理てつりの一体系をさえ用意していた。そうして、その夜の私にとって、縊死いしは、健康の処生術に酷似こくじしていた。綿密めんみつの損得勘定かんじょうの結果であった。私は、たけく生きとおさんがために、死ぬるのだ。いまさら問答は無用であろう。死ぬることへ、まっすぐに一すじ、明快、完璧かんぺき鋳型いがたができていて、私は、かされたなまりのように、鋳型へさっと流れめば、それでよかった。何故なにゆえ縊死いしの形式を選出したのか。スタヴロギンの真似まねではなかった。いや、ひょっとすると、そうかも知れない。自殺の虫の感染は、黒死病の三倍くらいに確実で、その波紋はもんのひろがりは、王宮のスキャンダルのささやきよりも十倍くらい速かった。なわ石鹸せっけんりつけるほどに、細心に安楽の往生を図ることについては、私も至極しごく賛成であって、おいの医学生の言にっても、縊死は、この五年間の日本に於いて八十七パアセント大丈夫だいじょうぶであって、しかもそのうえ、ほとんど無苦痛なそうではないか。いちどは薬品で失敗した。いちどは入水じゅすいして失敗した。日本のスタヴロギン君には、縊死という手段を選出するのに、永いこと部屋をぐるぐる歩きまわってあれこれと思いわずらう必要がなかったのである。宿屋へとまって、からだを洗い、宿の、ま新らしい浴衣ゆかたを着て、きれいに死にたく思ったけれども、私のからだが、その建築物に取りかえしのつかぬ大きい傷を与え、つつましい一家族の、おそらくは五、六人のひとを悲惨ひさん境遇きょうぐう蹴落けおとすのだということに思いいたり、私は鎌倉駅まえの花やかな街道かいどうの入口まで来て、くるりと回れ右して、たったいま、とおって来たばかりの小暗おぐらみちをのそのそ歩いた。駅の付近のバアのラジオは私を追いかけるようにして、いまは八時に五分まえである、台湾はいま夕立ち、日本ヨイトコの実況じっきょう放送はこれでお仕舞いである、と教えた。おそくまでまごついて居れば、すぐにも不審ふしんを起されるくらいに、人どおりの無い路であった。善は急げ、というユウモラスな言葉が胸にうかんで、それから、だしぬけに二、三の肉親の身の上が思い出され、私は道のつづきのように路傍ろぼうの雑木林へはいっていった。ゆるい勾配こうばいの、小高いおかになっていて、風は、いまだにおさまらず、さっさつと雑木の枝を鳴らして、少なからず寒く思った。夜のけるとともに、私のあやしまれる可能性もいよいよ多くなって来たわけである。人がこわくてこわくて、私は林のさらにおく深くへすすんでいった。いってもいっても、からだがきまらず、そのうちに、私のすぐ鼻のさき、一じょうほどの赤土のがけがのっそり立った。見あげると、その崖のうえには、やしろでもあるのか、私の背丈せたけくらいの小さい鳥居が立っていて、常磐木ときわぎが、こんもりとしげり、その奥ゆかしさが私をまねいて、私は、すすきや野いばらをきわけ、崖のうえにゆける路をさがしたけれども、なかなか、それらしきものは見当らず、ついには、崖の赤土につめを立て立てい登り、月の輪の無いくま、月の輪の無い熊、と二度くりかえしてつぶやいた。やっとのことで崖の上までたどりつき、脚下きゃっかの様を眺めたら、まばらに散在している鎌倉の街の家々のが、手に取るように見えたのだ。熊は、うろうろ場所を捜した。薬品に依って頭脳を麻痺まひさせているわけでもなし、また、お酒に勢いを借りているわけでもない。ズボンのポケットには二十円余のお金がある。私は一糸みだれぬ整うた意志でもって死ぬるのだ。見るがよい。私の知性は、死ぬる一秒まえまでくもらぬ。けれどもひそかに、かたちのことを気にしていたのだ。清潔な憂悶ゆうもんかげがほしかった。私のうでくらいの太さの枝にゆらり、一瞬いっしゅんふじの花、やっぱりだめだと望を捨てた。憂悶どころか、阿呆あほうづら。しかもうわさと事ちがって、あまりの痛苦に、私は、思わず、ああっ、と木霊こだまするほどさけんでしまった。楽じゃないなあ、そうつぶやいてみて、そのおのれの声が好きで好きで、それから、ふっとたまらなくなってなみだを流した。死ぬる直前の心には様様の花の像が走馬灯のようにくるくるまわって、にぎやかなもののよしであるが、けれども私は、さっぱりだめであった。私は釣り上げられたいもりの様にむなしく手足を泳がせた。かたちの間抜まぬけにしんから閉口して居ると、私の中のちゃちな作家までが顔を出して、「人間のもっとも悲痛の表情は涙でもなければ白髪はくはつでもなし、まして、眉間みけんしわではない。最も苦悩くのうの大いなる場合、人は、だまって微笑ほほえんでいるものである。」虫の息。三十分ごとに有るか無しかの一呼吸をしているように思われた。の泣き声。けれども痛苦はいよいよはげしく、頭脳はかえってえわたり、気の遠くなるような前兆はそよともなかった。こうしてのど軟骨なんこつのつぶれるときをそれこそ手をつかねて待っていなければいけないのだ。ああ、なんという、気のきかない死にかたを選んだものか。ドストエーフスキイには縊死いしの苦しさがわからなかった。私は、はっきり眼を開いて、気の遠くなるのをひたすら待った。しかも私は、そのときの己れの顔を知っていたのだ。はっきりと、この眼に見えるのであった。顔一めんが暗紫色あんししょく、口の両すみから真白いあわいている。この顔とそっくりそのままのふくれた河豚ふぐづらを、中学時代の柔道じゅうどうの試合で見たことがあるのだ。そんなに泡の出るほどふんばらずとも、と当時たいへん滑稽こっけいに感じていた、その柔道の選手を想起したとたんに私は、ひどくわが身に侮辱ぶじょくおぼえ、いかりにわななき、やめ! 私は腕をのばして遮二無二しゃにむに枝につかまった。思わず、けだもののような咆哮ほうこうが腹の底から噴出ふんしゅつした。一本の外国煙草たばこがひと一人の命と立派に同じ価格でもって交換こうかんされたという物語。私の場合、まさにそれであった。なわを取去り、その場にうちしたまま、左様さよう、一時間くらい死人のようにぐったりしていた。ありの動くほどにも動けなかった。そのときポケットの中の高価の煙草を思い出し、やたらむしょうにうれしくなって、はじかれたように、むっくり起きた。ふるえる手先で煙草のふうをきって一本を口にくわえた。私のすぐうしろ、さらさらとたしかに人の気配がした。私はちっともこわがらず、しばらくは、ただ煙草にふけり、それからゆっくりうしろをりかえって見たのであるが、小さい鳥居が月光を浴びて象牙ぞうげのように白くうかんでいるだけで、ほかには、小鳥の影ひとつなかった。ああ、わかった。いまのあのけはいは、おそらく、死神のげて行った足音にちがいない。死神さまにはお気の毒であったが、それにしても、煙草というものは、おいしいものだなあ。大家にならずともよし、傑作けっさくを書かずともよし、好きな煙草たばこを寝しなに一本、仕事のあとに一服。そのようなはずかしくもあまい甘い小市民の生活が、何をかくそう、私にもむりなくできそうな気がして来て、ぞく的なるものの純粋じゅんすい度、という緑青ろくしょう畑の妖雲論者よううんろんしゃにとってはすこぶるふさわしからぬ題目について思いめぐらし、眼は深田久弥のお宅のを、あれか、これか、とのんきにさがし求めていた。

30

ああ、思いもかけず、このお仕合せの結末。私はすかさず、筆をく。読者もまた、はればれと微笑ほほえんで、それでも一応は用心して、こっそり小声でつぶやくことには、

31

――なあんだ。




使用したテキストファイル
使用権フリー作品集シリーズ
太宰治全作品集 1
  制作・販売:マイクロ テクノロジー株式会社
変更箇所
  ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
  行間処理:行間180%
  段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
        :段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
        :段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年2月