八犬伝物語

  土田杏村訳

日本児童文庫   八犬伝物語
                     土田杏村訳

 はしがき

八犬伝はつけんでん』のほんくはしい名前なまへは、『南総里見なんそうさとみ八犬伝はつけんでん』とまをします。徳川時代とくがはじだい末頃すゑごろきてゐた滝沢馬琴たきざはばきんのかいた有名ゆうめい小説しようせつです。馬琴ばきんはそのほかにも沢山たくさん小説しようせつきましたが、この八犬伝はつけんでんがまづもつと有名ゆうめいだといつてよろしいでせう。馬琴ばきん四十八歳しじゆうはつさいはるにその第一冊目だいゝつさつめし、それからずつとふでをつゞけて七十五才しちじゆうごさいときにおしまひのほんしました。そのあひだ二十八年にじゆうはちねんかゝつてをりますが、これだけなが年月ねんげつ苦心くしんによつて出来上できあがつた小説しようせつめづらしいでせう。だん/\おしまひにちかづくころ馬琴ばきん眼病がんびようがひどくなり、つひにはまつたくの盲目もうもくになつて、自分じぶんをかくことも出来できなくなりましたから、くちでいひむすこよめ筆記ひつきさせて、まだ小説しようせつをつゞけてゐました。全体ぜんたい百六冊ひやくろくさつあり、たいへんのおほきさです。おそらくわたしのこの物語ものがたり十倍なんじゆうばいかあるでせう。そのおほきな小説しようせつはなしを、この一冊いつさつちゞめてかいてみました。
                  土田杏村



目次もくじ

八房やつふさ手柄てがら………………………………………三
伏姫ふせひめ……………………………………………一五
番作ばんさく蟇六ひきろく…………………………………二二
村雨丸むらさめまる銘刀めいとう…………………………二七
円塚山まるづかやま寂寞道人じやくまくどうじん………三四
芳流閣上ほうりゆうかくじようもの………………四六
胡那屋こなや客人きやくじん………………………………五六
小文吾こぶんご難儀なんぎ…………………………………六六
親兵衛しんべえ神隠かみかくし……………………………八〇
庚申塚こうしんづか四犬士けんし…………………………八八
かたな浪人ろうにん…………………………九九
犬山道節いぬやまどうせつ復讐ふくしゆう……………一〇八
へだてたてき………………………………一一三
音音おとね茅屋あばらや…………………………………一二五
嵐山あらしやま名笛めいてき……………………………一三七
馬加大記まくはりだいき…………………………………………一四六
対牛楼たいぎゆうろう女田楽をんなでんがく…………一五三
庚申山こうしんざんにすむ魔物まもの……………………一六七
大角だいかく山猫退治やまねこたいじ…………………一七九
指月院しげついんこも人々ひと/゛\………一九○
相模小僧さがみこぞう勇戦ゆうせん……………………一九五
大樟樹おほくすのき空洞うろ……………………………二〇六
伏姫ふせひめやしなはれた神童しんどう………二一八
白川山しらかはやま虎退治とらたいじ…………………二二七
里見家さとみけ八犬士はつけんし………………………二四一


八犬伝物語
扉裏
装  幀・恩地孝四郎
口絵挿絵・水島爾保布

1

     八房やつふさ手柄てがら

2

太平洋たいへいようながてゐる安房あはくにのとある海岸かいがん、そこへ落人おちうどをのせてよつて一艘いつそう小舟こぶねがある。

3

つてゐる主従しゆじゆう三人さんにん主人しゆじん里見義実さとみよしざねはそのころまだ又太郎またたろう御曹司ごぞうしとよばれてゐたが、ちゝ里見季基さとみすゑもとは、結城氏朝ゆうきうぢともともにそのしゆ鎌倉管領かまくらかんりよう足利持氏あしかゞもちうぢのこしていた子供こども春王はるおう安王やすおうほうじて結城城ゆうきじようこもり、いさぎよいいくさをして、しろちるとき戦死せんしをしたのだ。又太郎義実またたろうよしざねちゝのかたいいひつけで、戦死せんしすることをやめ、日頃ひごろつかへて老臣ろうしん杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもと堀内蔵人貞行ほりうちくらんどさだゆきだけをしたがへて、かこみをりぬけ、ふねつけ、こゝ安房あはくにのがれてたのだ。

4

そのころ安房あはくにには、三人さんにんゐた領主りようしゆ安西氏あんさいうぢ麻呂氏まろうぢ神余氏じんようぢのうち、神余氏じんようぢはその家来けらいのためにほろぼされて、安西景連あんさいかげつら館山たてやましろに、麻呂信時まろのぶとき平館ひらだてしろ領主りようしゆとなつてゐた。里見義実さとみよしざねは、ひとまづ安西景連あんさいかげつらたよつてかうとおもつた。景連かげつらちからつよいが、道理どうりのわからない領主りようしゆである。欲張よくば一方いつぽう麻呂信時まろのぶとき相談さうだんし、よい加減かげん義実よしざねをあしらつて、
「この三日みつかあひだこひつてるものならば、たすけいくさをしよう」
などといふ。安房あはくにかはには、何故なにゆゑこひがすんでゐないのだ。

5

義実よしざねはそれでもりの道具どうぐつて、かはのほとりでりをしてゐる。ふとると、乞食こじきのようななりをしたきたなをとこが、うたをうたひながらふら/\とこちらへやつてた。うたをきけばどうやら自分じぶんのことをいつてゐるようだ。乞食こじき義実よしざねかさのぞんで、
殿とのなにらうとおぼすか」
ふ。
「や、こひをおりでござるか。こひは、安房あはくにかはにすむことが出来できぬとえますわい。いかに里見さとみ御曹司ごぞうしでも、安房あはくにへまゐつては、せるしろたぬとおなじことでございませうぞ」
面白おもしろそうにわらふ。その言葉ことば義実よしざね主従しゆじゆうおどろいて、油断ゆだんせず乞食こじきほうかへすと、乞食こじききゆうにうしろへがり、つちうへ平伏へいふくして、
しからばやはり里見さとみ御曹司ごぞうしでございましたか。かくまをわたくしは、神余光弘じんよみつひろ家来けらい金椀八郎孝吉かなまりはちろうたかよしまをすものでござります」
といふ。さて金椀かなまりののべるはなしは、ぎのようなものであつた。

6

神余光弘じんよみつひろ滝田たきだしろみ、安西あんさい麻呂まろならんで安房あは領主りようしゆであつたが、わるい家来けらい山下定包やましたさだかねおももちひた。定包さだかねは、主人しゆじん光弘みつひろのおそばにつかへてゐるわるいをんな玉梓たまづさ相談そうだんをし、主人しゆじんころしろうばはうとたくらんでゐた。その定包さだかねのわるいたくらみをり、定包さだかねころさうとおもつてゐるほか家来けらい百姓ひやくしようもある。あるとき定包さだかね光弘みつひろにすゝめて鷹狩たかがりにたが、途中とちゆう自分じぶんうま主人しゆじんにすゝめる。うまをめあてに定包さだかねころそうとおもつてゐた忠義ちゆうぎ百姓達ひやくしようたちは、間違まちがへて主人しゆじん光弘みつひろころしてしまつた。定包さだかねはそれをよいことにし、主人しゆじんしろうばつて、自分じぶん滝田たきだ領主りようしゆになり、玉梓たまづさ奥方おくがたにしたのである。

7

金椀かなまりは、そのころされた神余じんよ家来けらいである。金椀かなまり義実よしざねにすゝめて定包さだかねめ、主人しゆじんあだをむくいたいとおもふのである。滝田たきだちかくにはむかし主人しゆじん神余じんよしたつてゐる百姓達ひやくしようたちもあるから、金椀かなまりはいろ/\とはかりごとてゝ、その百姓達ひやくしようたちをあつめる。義実よしざね大将たいしようとなつて、きゆう滝田たきだしろわかれである東条とうじようしろせ、一晩ひとばんのうちにつた。さてぎに定包さだかねこもつてゐる滝田たきだしろせ、これも相当そうとうほねつて、おとしてしまつた。

8

定包さだかね自分じぶん家来けらい裏切うらぎりせられくびられたけれども、奥方おくがた玉梓たまづさりにせられた。玉梓たまづさ金椀かなまりたのんでいのちひをした。
「もとよりわたしつみはございませうが、をんなわたしころしてなんのやくにちませうぞ。ゆるされさへすれば、わたし故郷こきようへかへらうとおもひます」
たのんだけれど、主人しゆじん神余じんよほろぼされたのも、もとはといへばこのをんなはかりごとからであつたとすれば、金椀かなまり玉梓たまづさたすけるになれない。義実よしざねに「ぜひぜひ」とまをげて、玉梓たまづさころすことにした。玉梓たまづさは、
「これほどたのんでもきかれないものならば、ころしてもよ。いづれうらみはらしませう」
と。ものすごい義実よしざね金椀かなまりをにらみながら、うつくしいくびたれた。

9

義実よしざねは、今度こんどのいくさで手柄てがらのあつたものにそれ/゛\、褒美ほうびらさうとする。なんとしても金椀かなまり手柄てがら第一だいいちである。そのうへ金椀かなまり神余じんよ家来けらいといふものゝ、もと/\神余じんよ一族いちぞくでもある。このひとたれよりもあつい褒賞ほうしようあたへようとすると、なにおもつたか金椀かなまりはその褒賞ほうしようけようとしない。いや、それどころか、ふいに腰刀こしがたなをぬいて自分じぶんはらへつきてた。

10

義実よしざね家来けらいおどろいて金椀かなまりのまはりへかけつけ、切腹せつぷくをとゞめようとすると、
「いやこれにはふかいわけがござる。定包さだかねるつもりで、かへつて間違まちがつて主人しゆじん神余じんよころしたものは、この金椀かなまりむかし家来達けらいたちでござつた。そのつみつぐなふためには、この金椀かなまりはこれで切腹せつぷくしなければなりませぬ」
といつて、かたなをなほもふかてるのである。そのとき義実よしざねは、となりの部屋へやから家来けらい一人ひとり子供こどもをつれてさせた。

11

この子供こども金椀かなまりであつた。金椀かなまり自分じぶんいへつかへてゐた一作いつさくといふ仲間ちゆうげんいへをたより、その一作いつさくむすめ夫婦ふうふになつてんでゐたときれたのが、この子供こどもであつた。その金椀かなまりは、主人しゆじんあだをむくいるために方々ほう/゛\をかけまはつてゐたので、一作いつさくいへかへることもない。いま金椀かなまり義実よしざねたすけで定包さだかねほろぼしたことが一作いつさくいへへもきこえたので、そのをつれてたづねてたのだ。
義実よしざね金椀かなまりむかひ、
金椀かなまり、そちの手柄てがらはそのまゝにゆづり、このおほきくなつたとき東条とうじようしろゆづらうとおもふぞ。このには金椀大輔孝徳かなまりだいすけたかのりといふ義実よしざねがつけようとおもふ。そちは安心あんしんしてぬがよい」
といふ。金椀かなまりいきらうとするとき義実よしざねはさきに玉梓たまづさぬときにいつた言葉ことばおもあはせてゐた。

12

滝田たきだしろ義実よしざねほろぼされてもなく、麻呂まろしろ平館ひらだて安西あんさいほろぼされ、いまでは安房あはには滝田たきだ里見義実さとみよしざねと、館山たてやま安西景連あんさいかげつらとだけが領主りようしゆとしてあるようになつた。

13

しばらくいくさもなく、義実よしざね上総椎津かづさしひつ領主りようしゆ息女そくじよ奥方おくがたとしてむかへ、長女ちようじよ伏姫ふせひめみ、ぎのとしをとこ二郎太郎じろたろうんだ。二郎太郎じろたろうは、のち安房守義成あはのかみよしなりとよばれるひとである。

14

伏姫ふせひめうまれてもなく、よるひるいてゐてむづかしいであつた。もう三歳さんさいになるけれど、ものをいはない。そのころ安房あは州崎すざき明神みようじんといふやしろがあつて、そのうしろにえん行者ぎようじや石窟いはやがあつた。義実よしざね奥方おくがたはこの石窟いはや家来けらい参詣さんけいにやつて、伏姫ふせひめ立派りつぱ成人せいじんすることをおねがひしてゐたが、ある伏姫ふせひめ参詣さんけい途中とちゆうで、八十はちじゆうぐらゐの老人ろうじんひ、その老人ろうじんより水晶すいしよう数珠じゆずもらつた。
「このうまれながらに不幸ふこうがつきまとつてゐるから、この数珠じゆずらせよう。この不幸ふこうであるが、その、この数珠じゆずたすけで、里見さとみいへにまた幸福こうふくるであらう」
老人ろうじんはいつてる。えん行者ぎようじやが、この老人ろうじん姿すがたりて出現しゆつげんしたのであらうか。数珠じゆずつのおほきなたまには、ひとひとじんれいちゆうしんこうていといふ立派りつぱなわけのある言葉ことばの、ひとひとつの文字もんじきざまれてゐた。それよりのち伏姫ふせひめ立派りつぱ成人せいじんして、もう十一二歳じゆういちにさいになつたときには、日本につぽん支那しなのむづかしい書物しよもつなどをさへむようになつた。

15

そのころのことである。長狭郡ながさごほり富山とみやまといふやまふもと技平わざへいといふ百姓ひやくしようがゐて、そのいへいぬをす仔犬こいぬんだ。たゞ一匹いつぴきだけうまれた仔犬こいぬであるから、からだもおほきくほねもたくましい。七日なぬかばかりたつたおほかみがはひつてて、その母犬はゝいぬころした。さて技平わざへい野良のら為事しごとるので、ものあたへることなども不便ふべんがちであるけれど、いぬゑた様子ようすもなくすく/\とおほきくなつてく。これはたゞごとではないと、よくてゐると、よる滝田たきだほうから鬼火おにびのようなものがんでて、さてそのあとでとしのいつたたぬき仔犬こいぬのところへはひつて仔犬こいぬちゝをやつてゐるのだ。仔犬こいぬはこのたぬきはゝにして、おほきくそだつてたのである。

16

このことがあたりの評判ひようばんになつてゐた。里見さとみ老臣ろうしん堀内貞行ほりうちさだゆきは、東条とうじようしろまもつてゐて、滝田たきだしろへまゐる途中とちゆうこのはなしき、めづらしいことだとおもひ、義実よしざねまをげた。義実よしざねは、「さうしたつよいぬならば、伏姫ふせひめばんをさせるになによりよからう」と、技平わざへいにそのいぬ献上けんじようさせて、八房やつふさといふをつけ、寵愛ちようあいした。牡丹ぼたんはな毛色けいろうつくしかつた。伏姫ふせひめひるとなくよるとなく、その八房やつふさをそばにいて寵愛ちようあいし、八房やつふさ友達ともだちになりあそびながらおほきくなつてつたのである。

17

館山たてやま城主じようしゆ安西景連あんさいかげつら領地りようちでは、あるとし不作ふさく百姓達ひやくしようたちくるしんだ。里見義実さとみよしざね情深なさけぶか領主りようしゆであつたから、安西あんさい百姓達ひやくしようたちくるしんでゐるのをどくおもひ、こめ五千俵ごせんびよう安西あんさいしてやつた。ところがぎのとしには、安西あんさい領地りようちでは豊作ほうさくであるけれども、里見さとみ領地りようちではたいへんの不作ふさくである。義実よしざね別段べつだんしたこめ催促さいそくするつもりはないけれど、安西あんさい今度こんど多少たしようこめしてくれないものでもないとおもひ、まだ二十歳にじつさいになつたばかりの金椀孝徳かなまりたかのり使者ししやとして、安西あんさいしろへやり、そのことをたのんでると、安西あんさいはこのをりに里見さとみほろぼし安房あは一国いつこく領地りようちにしようといふわるかんがへをてゝ、金椀孝徳かなまりたかのりをそのまゝ俘虜とりこにし、二千余騎にせんよき軍勢ぐんぜいあつめてふいに滝田たきだしろせた。

18

金椀かなまり俘虜とりこになるようなをとこでもないから、安西あんさいしろやぶつてそとのがた。一方いつぽう滝田たきだしろでは、安西あんさいにふいにめられてしろふせ準備じゆんびもなく、第一だいゝち不作ふさくのために兵糧ひようろう支度したく出来できてゐないから、城兵じようへいはたべるものが十分じゆうぶんでなくて、このまゝではしろおとされるよりほかいたかたがない。里見義実さとみよしざねも、もうこのうへ安西あんさい軍勢ぐんぜいなかつてて、にしようと決心けつしんした。

19

よろひをつけた義実よしざねがもうにと覚悟かくごをしたでふとまへると、愛犬あいけん八房やつふさが、これも心配しんぱいそうにそこにうづくまつてゐる。
「この八房やつふさてきくびるものならば、一同いちどうどんなにかよろこばしくおもはうに。いぬながらも、手柄てがら第一だいゝちとして、のぞみのものをあたへようぞ」
冗談じようだんながらにいぬあたまをなでると、いぬ元気げんきそうにあたまをあげ、いまにも敵陣てきじんへかけしそうである。
八房やつふさはなにがのぞみであるぞ。魚肉ぎよにくか。領地りようちか。息女そくじよ伏姫ふせひめかな」
冗談じようだんながらにいぬあたまをなでると、伏姫ふせひめといふときいぬうれしそうにつてゐる。
「さうか。八房やつふさ伏姫ふせひめ婿むこになりたいとまをすか。敵将てきしよう景連かげつらくびつてるものならば、八房やつふさでも伏姫ふせひめ婿むこにしてつかはさう」
義実よしざねがいへば、八房やつふさ一層いつそう元気げんきそうにつてゐる。

20

その義実よしざねは、士卒しそつをあつめ、今宵限こよひかぎりのわかれに、さけもないみづだけの酒盛さかもりをひらいてゐると、ふいにものすごいいきゝ飛んでたものがある。
「や、や、殿との八房やつふさ景連かげつらくびつてましたぞ」
と、おどろきながらあげた家来けらいこゑに、義実よしざねをこらしてれば、いかにも八房やつふさくちにはまみれになつた敵将てきしようくびがくはへられてゐる。そのとき敵陣てきじんほうでもきゆう騒々そう/゛\しくなつて、大将たいしよううしなつた安西あんさいぐんのうろたへるこゑきこえる。義実よしざね軍勢ぐんぜいひきゐてつてで、大将たいしようのない安西あんさいぐん縦横じゆうおうて、大勝利だいしようりめた。


21

    伏姫ふせひめ

22

安西あんさいほろんでれば、安房あは一国いつこく里見さとみのものである。里見さとみいへは、これから万々歳ばん/\ざいといつてもよい。ところがその里見さとみいへにもひとつの難儀なんぎおこつてゐる。今度こんどのいくさに第一だいゝち手柄てがらてたものは、なんといつても八房やつふさであるが、義実よしざね八房やつふさにいつた約束やくそくをどうするであらうか。義実よしざねは、手柄てがらてたいぬ大事だいじおもひ、犬養いぬかひ役人やくにんまでつけて可愛かあいがるけれども、八房やつふさはそれではすこしもうれしそうなかほをしない。機嫌きげんをわるくして、家来けらいたちのにをへないあばれかたをするようになつた。ある家来けらいたちが八房やつふさてゝゐると、八房やつふさはおこつたいきほひで伏姫ふせひめ部屋へやはしみ、ひめたもとあしをからみつかせて、おそろしいうなごゑてゝゐる。義実よしざねもたまりかねてやりし、いぬころさうとすると、ひめはそれをしとゞめ、
「たとひ冗談じようだんにもせよ約束やくそくをしたうへは、それをまもらねば、このうへいくさのをすることも出来できないでございませう。わたしはもうかうした不運ふうんうまれついたものとおもひあきらめ、いぬいつしよにやまのがれませう。父上ちゝうへ母上はゝうへおもひあきらめてくださるように」
ねがつた。義実よしざねはさすがにかへ言葉ことばもない。伏姫ふせひめ人々ひと/゛\かなしみのをあとにして、八房やつふさしたがひ、しづかにしろでる。しろもうしろにえなくなると、八房やつふさ自分じぶんひめをのせ、とりよりもはやはしつて、富山とみやま奥深おくふかけていつた。

23

義実よしざね夫婦ふうふこゝろには、ひめうしなつたこのかなしさがいつまでもきてゐる。富山とみやまおくへは、きこり猟師りようしにもることをかたきんじてしまつた。その富山とみやまには、ひとわたることの出来できないといふ山川やまかはがあつて、そのむかうには、きこり猟師りようしもこれまではひつたことのない秘密ひみつ場所ばしよがある。伏姫ふせひめはそこの石窟いはや場所ばしよさだめ、あけくれおきようをよんでゐた。たゞ大事だいじおもふは、くびにかけた水晶すいしよう数珠じゆずである。八房やつふさもそのおきようくものゝように、行儀ぎようぎよくひめそばすわつてゐた。かうして一年いちねん月日つきひがたつた。ひめ近頃ちかごろ病気びようきになつてゐた。このうへおやにもはず、八房やつふさとも山川やまかはげてなうと決心けつしんしてゐるのである。

24

義実よしざね奥方おくがたおなころ病気びようきになつてゐた。このうへ伏姫ふせひめ一目ひとめつてにたいものとかなしんでゐた。義実よしざねゆめ伏姫ふせひめのようすやそこへかよ山路やまじた。おなときに、東条とうじようしろにゐた堀内貞行ほりうちさだゆきも、殿とのしたがつて富山とみやまゆめた。義実よしざねいまはひそかに伏姫ふせひめたづねてこゝろになつた。富山とみやまふもと大山寺おほやまでら参詣さんけいするといふことにして、貞行さだゆきだけをしたがへ、ひそかに富山とみやまおくつた。

25

はなしまへへかへる。館山たてやま安西あんさいこめりにつた金椀大輔孝徳かなまりだいすけたかのりは、敵城てきじようからあやふくのがたものゝ、安西あんさいじんやぶつて里見さとみしろかへることもならず、すごしてゐるうちに、安西あんさいほろぼされてしまつた。金椀かなまりはおめ/\と里見さとみしろかへることもならず、一作いつさく親戚しんせき百姓ひやくしようたよつて、そこにかくれてゐた。しろかへるについては、お土産みやげなにひと手柄てがらてなければならない。そのときいたのが伏姫ふせひめはなしである。大輔だいすけ鉄砲てつぽうにして、富山とみやま奥深おくふかしのつた。ひとわたれないといふ山川やまかはも、おもひのほかにたやすくわたれた。るとそこには伏姫ふせひめなにものいてゐて、そばにさびしくいぬ八房やつふさがうづくまつてゐる。大輔だいすけ鉄砲てつぽうのねらひをさだめた。
「どーん」

26

やまきりうごかして一発いつぱつ鉄砲てつぽうおとがした。そのけむりのなかから大輔だいすけ飛鳥ひちようのようにかけてて、なほも鉄砲てつぽう五六十ごろくじゆう八房やつふさちたゝいた。八房やつふさあはれにも脚下あしもとんでゐた。さて伏姫ふせひめはと見返みかへつたときに、大輔だいすけおもはずこゑてなければならなかつた。伏姫ふせひめまでが、さきの弾丸たまあまりにたれてえてゐるのだ。大輔だいすけはいろ/\と介抱かいほうしてるけれど、きかへらない。このうへ自分じぶんはらかききつて殿とのへのおびをしようと、かたな脇腹わきばらてようとしたときに、ふいにがしびれてかたなおとした。何人なにびとかのが、かたなひぢかすつたのだ。
大輔だいすけしばらくて。すべてはてゐた」
といつて木陰こかげからたのは、貞行さだゆきしたがへた殿との義実よしざねである。大輔だいすけおもはずそのまへ平伏へいふくした。
大輔だいすけひめ覚悟かくごでゐたことは、こゝにいてあるものでわかるぞ。それにしても可愛かわいそうなのはひめだ」
とおつしやつて、水晶すいしよう数珠じゆずいたゞき、伏姫ふせひめ介抱かいほうするに、伏姫ふせひめわづかいきかへした。伏姫ふせひめはそのくるしいいきなかから、覚悟かくごをしたこと、死後しごはこのまゝ富山とみやまめてもらひたいことなどを遺言ゆいごんして、まもがたなき、はらへぐざとてると、不思議ふしぎにもその瘡口きずぐちからしろけむりのようなものがちのぼつて、ひめくびにかけてゐた数珠じゆずりつゝみ空中くうちゆうへのぼつたとに、数珠じゆずいとはきれ、ちひさなたま地上ちじようちてたけれども、おほきなやつつのたまだけはそのまゝほしのようなひかりをはなつて、いづこへかつてしまつた。義実よしざね主従しゆじゆうはまことに不思議ふしぎこゝろで、それを見送みおくつてゐた。

27

ひめいきえたときに、大輔だいすけはまたもかたなつてはらてようとする。義実よしざねは、
「そのはならぬ。このがそちののきまりをつけよう」
と、かたなりうしろへまはつて、大輔だいすけくびつかとれば、地上ちじようちたものは大輔だいすけかみであつた。

28

義実よしざねははじめ伏姫ふせひめ大輔だいすけつまにするかんがへであつた。いまはその大輔だいすけ伏姫ふせひめのあとをとむらはせようといふのである。かみをきつた大輔だいすけは、殿との慈愛じあい感謝かんしやしつゝ、その丶大法師ちゆだいほうしあらためた。いぬといふ二字にじけたである。丶大法師ちゆだいほうしは、つたやつつのたまをさがしにかけることゝなつた。

29

伏姫ふせひめはその石窟いはやはうむられた。八房やつふさもその近傍きんぼうはうむられた。義実よしざねやまくだ途中とちゆうで、奥方おくがたもまたやまひとこんだといふことをしらせる、いそぎの使つかひにあはなければならなかつた。

30

    番作ばんさく墓六ひきろく

31

結城ゆうきしろちたとき鎌倉管領かまくらかんりよう足利持氏あしかゞもちうぢのこしていた二人ふたり春王はるおう安王やすおうとらへられて、京都きようと将軍しようぐんへおくられた。

32

持氏もちうぢ近習きんじゆに、大塚匠作おほつかしようさく三戍みつもりといふ武士ぶしがゐた。結城ゆうきしろたゝかひではもちろんいさましくてきふせいでゐたけれども、主人しゆじんとしてほうずる春王はるおう安王やすおう捕虜とりこになつたいまは、京都きようとおくられる途中とちゆうでなんとかしてこの二人ふたりうばらうとかんがへた。今年ことし十六じゆうろくになつた番作ばんさく一戍かずもりびよせ、
ちゝはもはや老年ろうねんであるから、いかなる危険きけんをもをかして若君達わかぎみのあとをはうとおもふ。このかたな村雨むらさめといつて、足利家あしかゞつたはつた大事だいじかたなであるが、いま自分じぶんにあるからそちにあづける。主君しゆくんのあとをさがしもとめて、このかたなたてまつり、持氏卿もちうぢきようのあとをてるように。そちのはゝあね亀篠かめざさは、武蔵むさし大塚おほつかひのいへにあづけていたから心配しんぱいはない。この遺言ゆいごんけつしてわすれるな」
といつて春王はるおうたちのあとをつていつた。宿々しゆく/\うばらうとおもふけれども、ばんをしてゐるものにもいさゝかのすきもない。そのうちに京都きようと将軍家しようぐんけから使者ししやて、春王はるおう安王やすおう美濃みのくにくびたれ、くびだけ京都きようとおくられることになつた。いま匠作しようさく苦心くしんもむだとなつた。

33

春王はるおう安王やすおうくびおとされるのを匠作しようさくは、大音だいおんをあげてそのみ、くびつたをとこくびおとした。それをてき武士ぶしたちは、みな匠作しようさくかこんで四方しほうよりりかけ、匠作しようさくあはれにそこでにしてしまつた。そのときまた見物けんぶつなかから、大音だいおんをあげてんでたものがある。それは匠作しようさく番作ばんさくであつた。番作ばんさく春王はるおう安王やすおうくびほかちゝ匠作しようさくくびをもうばひかへして、てきはげしいやいばしたくゞり、大勢おほぜいのがれてつた。

34

番作ばんさく山寺やまでらとまつて、そこで坊主ぼうず姿すがたをした盗賊とうぞくころし、盗賊とうぞくとらへられてゐたをんなたすけた。このをんなちゝは、自分じぶんちゝ匠作しようさくともしたしい友達ともだちであつた。番作ばんさくはそのをんな結婚けつこんし、それから方々ほう/゛\流浪るろうしてあるいた。大塚おほつか名乗なのつててきられることをおそれ、大塚おほつかおほてんつて犬塚いぬづかび、諸方しよほうかくんでゐた。

35

管領かんりよう持氏もちうぢには、春王はるおう安王やすおうほかになほ一人ひとり子供こどものこつてゐた。信濃しなのくにのがれてゐたのを長尾判官昌賢ながをはんがんまさかたいて、諸将しよしよう相談そうだんし、さがしして鎌倉かまくらむかり、関東八州かんとうはつしゆうあるじあふぎ、成氏卿しげうぢきようまをした。そのまた鎌倉かまくらみだれて合戦かつせんはじまり、成氏しげうぢ下総しもふさ滸我こがのが滸我御所こがごしよまをした。滸我御所こがごしよは、むかしちゝ持氏もちうぢについてゐた家来けらいたちをあつせられてゐる。

36

大塚おほつかには、大塚匠作おほつかしようさく亀篠かめざさ匠作しようさくつまいつしよにかくれてゐた。亀篠かめざさ番作ばんさくあねである。けれども番作ばんさくとはちがひ、こゝろきたないをんなであつた。はゝんだのちに、その近傍きんぼうにゐたごろつきのようなをとこ蟇六ひきろく結婚けつこんし、蟇六ひきろく大塚おほつかせい名乗なのつて自分じぶん大塚蟇六おほつかひきろくんでゐた。滸我御所こがごしよむかし家来けらいさがしてゐることをいて、うつたへてた。成氏しげうぢはこんなごろつきをおももちひるわけにはいかないが、ちゝ匠作しようさく手柄てがらおもひ、村長そんちようにしてかたなをさすことをゆるし、ひろ土地とち褒美ほうびあたへた。蟇六ひきろくうち立派りつぱにしひとをたくさんに使つかひ、威張いばつてみたけれども、感心かんしん出来できない夫婦ふうふであるから、たれ一人ひとり爪弾つまはじきしないものはない。

37

諸方しよほう流浪るろうしてゐた忠臣ちゆうしん番作ばんさくは、貧乏びんぼううへ病気びようきとなり、大塚おほつかかへつてた。ればあね亀篠かめざさ蟇六ひきろくなどいふをとこ婿むこむか大塚おほつかせい名乗なのつてゐる。けれども今更いまさらうつたへて褒美ほうびもらかんがへもない。あたりのひと番作ばんさくどくがつて、蟇六ひきろくむかひのいへいてゐるのをさいはひ、そこにまはせてくれた。番作ばんさくはあたりの子供こども手習てならひなどをしへて、そこで月日つきひおくつてゐた。

38

番作夫婦ばんさくふうふたきかは弁才天べんざいてんにおまゐりをして、立派りつぱをとこんだ。けれどもそのまへ何人なんにんをとこなせたあとであつたから、そのをんな着物きものせ、名前なまへ信乃しのとつけて、すべてをんなのようにしてそだげた。またこのおまゐりに途中とちゆうで、可愛かわいらしいいぬみちてられてゐるのをひろつてかへつたが、これも立派りつぱいぬそだつてくから、それに与四郎よしろうといふ名前なまへをつけ、信乃しのいつしよに可愛かあいがつてそだてた。

39

蟇六ひきろくうちでも子供こどもうまれない。仕方しかたがなく、綺麗きれいをんなもらつてそだげた。いぬ幾匹いくひきつてるけれど、みな与四郎よしろうみふせられ、ころされたり片輪かたわになつたりしたので、このうへねこそだてようとおもひ、牡猫をねこ一匹いつぴきもらつて、これに紀二郎きじろうといふをつけ可愛かわいがつてそだてた。番作ばんさく信乃しのはやはりをんな着物きもの、すべてをんなのようにしてそだてられた。けれどもすることがどこまでもいさましく、つよいぬ与四郎よしろうにまたがつてあそんでいる。母親はゝおやはや病気びようきんで、父親ちゝおや二人暮ふたりぐらしになつてゐた。信乃しの成人せいじんして、はや十一歳じゆういつさいになつた。


40

    村雨丸むらさめまる銘刀めいとう

41

番作ばんさく近傍きんぼうに、糠助ぬかすけといふ百姓ひやくしようんでゐる。ある蟇六ひきろくいへ紀二郎猫きじろうねこが、その糠助ぬかすけいへ屋根やねうへ友猫ともねこ喧嘩けんかをしてゐて、ころ/\としたころちると、そこには与四郎犬よしろういぬがゐて紀二郎猫きじろうねこびつき、に紀二郎猫きじろうねこみたふした。さあたいへんだ。日頃ひごろからなかわる番作ばんさく蟇六ひきろくいへであるところへ、こんなことがおこつてれば、蟇六ひきろく下男げなんたちをやつてやかましく番作ばんさくをせめてるのはいふまでもない。糠助ぬかすけなかつていろ/\ほねるがどうにもならない。信乃しの糠助ぬかすけ相談そうだんをして、与四郎犬よしろういぬ蟇六ひきろくいへもんのところヘつれてき、こらしめにぼうちたゝくと、与四郎犬よしろういぬはにげして自分じぶんうちへもかへらず、かへつて蟇六ひきろくいへほうはしんだ。蟇六ひきろくうち下男げなんたちは、「これさいはひ」とぼうやりし、さん/゛\に与四郎犬よしろういぬちのめしきさした。与四郎犬よしろういぬまみれになつて、よろよろとうちかへつてた。

42

すると蟇六ひきろくいへから下男げなんて、「与四郎犬よしろういぬ蟇六ひきろくいへの奥座敷おくざしきみ、大事だいじなお役所やくしよ書類しよるいみちらしたから、そのおびには村雨むらさめ銘刀めいとうを管領家かんりようけ献上けんじようせよ」といふのである。番作ばんさくは、かうまで両家りようけなかわるくなつては信乃しの生長せいちようすゑ心配しんぱいになるとおもひ、自分じぶん犠牲ぎせいになるで、はらかたなをつきてた。信乃しのおどろいてちゝびかゝりかたなをもぎらうとすると、番作ばんさくは、
「この村雨丸むらさめまる銘刀めいとうは、おまへ成人せいじんしたのち滸我御所こがごしよ献上けんじようせよ。このかたなはなせば、切尖きつさきからつゆがしたゝり、てきればるほどそのみづがほとばしつてこぶしうへつてる。それゆゑ村雨むらさめがついたのだ。おまへはこれから犬塚信乃戌孝いぬづかしのもりたかとなのるがよい。ちゝねば叔父をぢ蟇六ひきろく村雨むらさめしいし、かつまたおまへ養育よういくせねばむら人達ひとたち承知しようちすまいから、蟇六ひきろく仕方しかたなくおまへ養育よういくすることだらう。そのことは心配しんぱいおよぶまい」
といつて、勇士ゆうし最期さいごちから村雨むらさめ銘刀めいとうはらふかくつきて、いきえた。信乃しのもそのあとをつて切腹せつぷくしようとおもつたが、ふとしたると与四郎犬よしろういぬ重傷じゆうしようれずくるしいうなごゑてゝゐる。
「おまへもおともをさせてやるぞ」
といひながら、村雨むらさめ銘刀めいとう与四郎犬よしろういぬくびおとせば、さつとほとばしる血潮ちしほなかから何物なにものひかるものがした。左手ひだりてけとめてるに、『こう』といふをほりつけた、立派りつぱひとつの白玉しらたまである。信乃しのは、むかしはゝからいたはなしおもした。はゝ弁才天べんざいてん参詣さんけいする途中とちゆうでこの与四郎犬よしろういぬひろつたのだが、そのかへみちでうつゝに神女しんじよからひとつのたまさづけられるとた。あやまつてりはづし、たまいぬのあたりへころちて、それを見失みうしなつてしまつたが、さてはそのときこのいぬたまんでゐたとえる。「それにしてもいまはこのたま不用ふようだ」と、白玉しらたまにはてると、たまはそのまゝはねかへつて自分じぶんふところへはひつた。さてはや切腹せつぷくしようとはだぎかけるに、ひだりうでにいつのにか牡丹ぼたんはなかたちをした黒痣くろあざ出来できてゐたのは、不思議ふしぎなことだ。

43

そこへどや/\と、蟇六夫婦ひきろくふうふ糠助ぬかすけがはひつてた。信乃しの切腹せつぷく出来できない。蟇六ひきろくは、をひ信乃しの面倒めんどうをこれからてやらなければならない。蟇六ひきろくをとこたないし、もらむすめ浜路はまぢおほきくなつたら信乃しの夫婦ふうふにし、いへ村長そんちようやくゆづらうなどとあたりのひとにはふれして、番作ばんさくつくつてゐたなどを自分じぶんのものにんだ。蟇六ひきろくいへ信乃しのよりすこ年上としうへ額蔵がくぞうといふ下男げなんがゐたのを信乃しのいへへつけてやつて、信乃しの面倒めんどう、かたがた信乃しののすることをさぐらせることにした。いぬにはすみうめそばはうむられた。

44

額蔵がくぞう正直しようじきをとこである。信乃しのさぐやくにはえらばれたけれども、内心ないしんでは信乃しの同情どうじようしてゐるのだ。ある信乃しのにすゝめて行水ぎようずいをさせてゐると、信乃しのひだりうでにある黒痣くろあざつかつた。
みようなものですな。わたしにもおな黒痣くろあざがありますよ」
背中せなかけるのをると、いかにもおな牡丹ぼたんはなかたちをした黒痣くろあざがある。さて着物きものようとすれば、ふところから白玉しらたまがころがりる。
「それもみようなものですな。わたしにもおなたまがあります」
と、額蔵がくぞうふところからたまるに、いかにもまつたおな白玉しらたまであつて、それには『』といふ一字いちじがほりつけられてゐる。これは額蔵がくぞうはゝ下男げなんにいひつけて、胞衣えなめようとしきゐしたつたときつけたたまだといふ。

45

それから信乃しの額蔵がくぞうとはだいなかよしになり、兄弟きようだい約束やくそくをした。額蔵がくぞうちゝ犬川衛士則任いぬかはゑじのりたふといひ、伊豆北条いずほうじよう立派りつぱ役人やくにんであつた。そのきみをいさめて切腹せつぷくし、はゝ七歳しちさいになつた子供こども荘之助そうのすけをつれて、安房あは里見さとみ家中かちゆうひとがあるのをたよつて途中とちゆう路銀ろぎんられ風雪ふうせつになやまされ、この村長そんちよういへ一夜いちや宿やどもとめてゆるされず、はゝはそのままんでつた。そのとき村長そんちよう蟇六ひきろく荘之助そうのすけ一生いつしよう下男げなんにするつもりでつてそだてたのが、この額蔵がくぞうであつたのだ。額蔵がくぞうは、信乃しの兄弟きようだいになつたから、犬川荘助義任いぬかはそうすけよしたふ名前なまへあらためた。

46

けれど表向おもてむきは、やはり額蔵がくぞう信乃しのなかのわるい様子ようすをしてゐる。そのうち幾年いくねんかたつて、百姓ひやくしよう糠助ぬかすけ病気びようきになつた。信乃しのだけはいつも親切しんせつ介抱かいほうをしてやつてゐる。糠助ぬかすけ病気びようきがひどくなり、もうなうとするときなみだうかべて、
「これはあなたにだけおねがひする遺言ゆゐごんです」
といつて、ぎのようなはなしをした。糠助ぬかすけ以前いぜん安房あは州崎すざきんでゐた百姓ひやくしようであるが、親一人おやひとり子一人こひとり貧乏世帯びんぼうしよたいくるしさのあまり殺生せつしようきんぜられてゐるはまあみつてとらへられ死罪しざいにきまつたところを大赦たいしやつみげんぜられ、追放ついほうせられることになつた。子供こどもいて下総しもふさ行徳ぎようとくまでたが、このうへあるいてみち餓死がしをするよりはかはんでなうと、はし欄干らんかんあしをかけたとき通行つうこうひとにとめられた。そのひと成氏殿しげうぢどのつかへてゐる小役人こやくにんであるが、たないからそのまゝ糠助ぬかすけもらつてかうといふ。おやとはかうしてわかれたのである。が、そののちわがは、どうしてそだつてゐるであらうか。この目印めじるしは、みぎ頬先ほゝさき牡丹ぼたんはなかたちをした黒痣くろあざのあることだ。それにこのうまれたのちいはひにたひ料理りようりすると、さかなはらからひかつたたまて、それには『しん』といふがほりつけられてあつたから、そのたままもぶくろなかをさめてある。このさがし、ちゝ糠助ぬかすけのことをしらせてもらひたいものだ。──

47

信乃しのいて おどろいた。この糠助ぬかすけもまた、自分達じぶんたち同志どうしひと相違そういない。糠助ぬかすけはくらい行燈あんどんしたいきをひきとつた。

48

根本ねもといぬめたうめおほきくなつて、八房やつふさうめみのらせた。蟇六ひきろくむすめ浜路はまぢおほきくなつた。浜路はまぢちゝ練馬家ねりまけつかえてゐる立派りつぱ武士ぶしであつたけれど、家庭かていにこみつたわけがあり、おやらさず蟇六ひきろくにやつたのだ。その練馬家ねりまけはこのころ戦争せんそう滅亡めつぼうしたので、浜路はまぢは「多分たぶんまことのちゝ戦死せんししたことであらう」とかなしんでゐる。信乃しの立派りつぱ青年せいねんになつたが、浜路はまぢやしなおやのいふとほり、このひとをつとおもさだめてゐた。

49

    円塚山まるづかやま寂寞道人じやくまくどうじん

50

糠助ぬかすけんでとなつたところへは、浪人ろうにん網乾左母二郎あぼしさもじろうといふをとこがはひつた。鎌倉殿かまくらどの第一だいいち近習きんじゆであつたのが浪人ろうにんとなつたので、まだわか殿とのりであつたから、こののちまたされて立身りつしんするひとである。子供こどもたちにきををしへるのは表向おもてむきで、それよりもうたをうたつたりくだらないはなしときしたりするのがきだから、きに亀篠かめざさつて、蟇六ひきろくうち出入でいりするようになつた。

51

左母二郎さもじろうは、浜路はまぢをおよめもらひたいとおもつてゐた。亀篠かめざさ蟇六ひきろくも、さうなれば自分じぶんたちも立身りつしん出来できるので、そのになつて左母二郎さもじろうをもてなした。ところがそのころまたこの役人やくにんかはり、簸上宮六ひかみきゆうろくといふひとて、このひと蟇六ひきろくいへへよばれたが、浜路はまぢをおよめもらひたいとおもつてゐた。左母二郎さもじろうはまだ浪人ろうにんだし、宮六きゆうろくげんにお役人やくにん威張いばつてゐるのだから、今度こんど蟇六夫婦ひきろくふうふ宮六きゆうろくほう浜路はまぢよめにやるになり、「これで立身りつしん手蔓てづる出来できた」とよろこんだ。宮六きゆうろくのところからは、軍木五倍二ぬるでごばいじといふ家来けらいて、権柄けんぺいかさ、「どうあつてもむすめもらはなければならぬ」といふ。蟇六ひきろくねがつたりかなつたりだが、なほ不承知ふしようちのようなかほをしてゐると、「もう今日けふ結納ゆひのうつてもらふつもりだ」といふ。蟇六ひきろくは「やむをない」といふような迷惑顔めいわくがほ承知しようちして、さつそくもらつた結納ゆひのうは、土蔵どぞうへかくした。

52

さてこの結婚けつこんには、信乃しのし、村雨むらさめ銘刀めいとうをまきげなければならぬが、これには左母二郎さもじろう使つかはうとかんがへた。ふいに左母二郎さもじろうをたづねた亀篠かめざさは、
浜路はまぢもらつていたゞくについては、かうしてもらひたい」
といつて相談そうだんするところは、明晩みようばん信乃しの川狩かはがりにさそし、蟇六ひきろくかはちた様子ようすをすれば信乃しのおなじくかはむであらうから、そのひまに蟇六ひきろくかたな信乃しの村雨むらさめ銘刀めいとうとをすりへていてもらひたいといふのだ。

53

相談そうだん出来できた。蟇六ひきろく信乃しのにすゝめて村雨丸むらさめまる滸我御所こがごしよ献上けんじようするために、旅立たびだちさせることになつた。そのまへ蟇六ひきろく信乃しの左母二郎さもじろう川狩かはがりをすることになつた。蟇六ひきろく楫取かこ土太郎どたろうなどいふわるやつやとうてく。さてかは真中まんなかふねて、つきものぼらず、あたりは真暗まつくらになつてゐるときに、蟇六ひきろくあみつようなふりをしてかはんだ。信乃しの土太郎どたろうとが、それをすくひにおなじくかはんだ。蟇六ひきろく土太郎どたろうとは信乃しのおぼれさすつもりで、あしつぱり、ふちほうへひきずりまうとするけれど、大力だいりき水練すいれん信乃しのには、そんなことはなんでもない。土太郎どたろう一町いつちようばかりしも蹴流けなが蟇六ひきろくよこづかみにして、安々やす/\きしへおよぎついた。

54

ふねのこつた左母二郎さもじろうは、信乃しの村雨むらさめ銘刀めいとういてたが、こんな銘刀めいとう蟇六ひきろくにやるのはしいので、自分じぶん腰刀こしがたなにしてしまひ、蟇六ひきろくかたなさやなかへは自分じぶんかたな中味なかみを、信乃しのかたなさやなかへは蟇六ひきろくかたな中味なかみれ、さも村雨むらさめらしく、かはみづすこしづつりかけていた。

55

信乃しのは、かたな中味なかみへられてゐるとは気付きづかない。蟇六ひきろくは、うちかへつてかたないてると、みづしづくがばら/\とるので、いかにも村雨むらさめ銘刀めいとうだとよろこんでゐる。信乃しのは、朝早あさはやつて、滸我御所こがごしよかつた。蟇六ひきろくはそれに額蔵がくぞうをつけてやり、途中とちゆうでばつさりたすようにいひつけた。

56

あとでは、いよ/\浜路はまぢ宮六きゆうろくとの結婚けつこんいはひがはじまる。浜路はまぢはそのはなしおやからかされて、寝耳ねみゝみづおどろいたが、浜路はまぢがどうしても承知しようちしないと、蟇六ひきろくはお役人やくにん宮六きゆうろくまをひらきが出来できないから切腹せつぷくするなどといつてさわてる。浜路はまぢは、いまはもう覚悟かくごで、うはべだけ承知しようちした。蟇六ひきろくうちでは、いはひで大騒おほさわぎである。浜路はまぢは、最後さいごのお化粧けしようをしてゐる。

57

このはなしれきいておこつたのは、左母二郎さもじろうである。「おのれかなら復讐ふくしゆうしてやらう」とかんがへはするものゝ、んでみんなをころしてしまふだけの勇気ゆうきない。
「いつそ、浜路はまぢをぬすみつてやらう」
と、その蟇六ひきろくいへかきのくづれから、左母二郎さもじろうはこつそりとにはしのんだ。

58

築山つきやまのうしろに人影ひとかげがある。それは覚悟かくごをした浜路はまぢであつた。左母二郎さもじろうはうしろから、こつそりつかまへて浜路はまぢがふせぐをおさへ、にはまつからかきうへりうつつて、うまうまと浜路はまぢをぬすみした。

59

これからいはひがはじまらうといふときになつて、浜路はまぢのゐないことにづいた蟇六ひきろくいへは、はちきくづしたようなさわぎになる。んで土太郎どたろうたのんで、左母二郎さもじろうのあとをおつかけさせた。
いまこゝへみちで、見知みしりの加太郎かたろう井太郎ゐたろうが、駕籠賃かごちんのことでなにかいつてゐたが、ぢやああれが左母二郎さもじろうとおじようさんだ。礫川こいしかは本郷坂ほんごうざかけば大丈夫だいじようぶ
と、つぶてのようにんでつた。

60

はなしかはつて、こゝに寂寞道人じやくまくどうじん肩柳けんりゆうといふ不思議ふしぎじゆつをする行者ぎようじやがゐた。まきんでをつけ、そのうへわたるに、あしかない。ひとのことをうらなひ、病気びようき祈祷きとうをするが、そのきゝめがあるといふので愚民ぐみんなかしんじられてゐる。このひとひだりかたさきに一塊ひとかたまりのこぶがあるので、様子ようすは、からだがなゝめまがつたようだ。今日けふ日没にちぼつときに、豊島としま本郷ほんごうのあたり円塚山まるづかやまふもと火定かじようるとふれした。小屋こやて、そのしたおほきなあなり、このなかまきをつけて、肩柳けんりゆうはそのまゝこのあないのちをはらうといふのである。これを火定かじようといつてゐる。肩柳けんりゆうしんじてゐる人達ひとたちが、くものように円塚山まるづかやまあつまつて、肩柳けんりゆうにお賽銭さいせんをまいてゐる。肩柳けんりゆうはふれしたとほりのぎようをして、猛火もうかあななかみ、姿すがたしてつた。人々ひと/゛\肩柳けんりゆう立派りつぱぎようおどろめながら、それ/゛\家うちかへつてく。あとには火定かじようあなのこがちろり/\とえ、円塚山まるづかやまはさびしいよるになつた。

61

そこへ小提灯こちようちん旅駕籠たびかごひとてとまつた。
旦那だんな御約束おやくそく場所ばしよですよ。駕籠賃かごちんいちゞきませうか」
「ばかをいへ。板橋いたばしまでの約束やくそくだらう」
とすぐに喧嘩けんかになつたのは、左母二郎さもじろう駕籠かごかきの加太郎かたろう井太郎ゐたろうとである。駕籠かごかきもしようのわるいごろつきではあるものゝ、さすがに浪人ろうにん左母二郎さもじろうにあつてはかなはない。そのうへ左母二郎さもじろうつは業物わざもの村雨むらさめだ。前後ぜんごからかゝつて二人ふたりのものをりまくつて、くびおとした。そのときまたうしろからちにかゝつてをとこは、いふまでもなく土太郎どたろうだ。左母二郎さもじろう最前さいぜんすこ薄傷うすでをおひ、つか気味ぎみになつてゐるから、まれそうになつてくので、かたないてげる様子ようすをし、土太郎どたろうのすきをいしをなげると、ぱつちりひたひつかつた。そのひるむひまにすさまじくむと、土太郎どたろうは「あつ」といふまゝあふのけざまにたふされた。

62

駕籠かごなか浜路はまぢは、もうげてくこともならない。左母二郎さもじろうは、
「さあ、これからあるくのだ。このおれつてるかたなは、正真正銘しようしんしようめい村雨むらさめで、いまひとつた業物わざものだが、信乃しのつてつたのは贋刀にせがたなだから、さだめし今頃いまごろしばくびにでもなつてるだらう」
といひながら、浜路はまぢ駕籠かごからすと、浜路はまぢはさすがにおどろきながらも、「その村雨むらさめとやらをせてもらひたい」とたのむ。わたかたな右手みぎてり、かへしてるような様子ようすをしながら、
をつとのかたき」
さけんで、ふいに左母二郎さもじろうりかけた。左母二郎さもじろう短刀たんとういて、それをふせぐ。いかに浜路はまぢちからしても、をんなかなしさ浪人ろうにんちからおよぶわけはない。たちま太刀だちになつてちゝしたふかまれた。左母二郎さもじろう村雨むらさめかへし、だん/\よわつて浜路はまぢをにく/\しそうにながめてゐる。浜路はまぢをつと信乃しのがどうなつたかもわからず、かなしくそこにんで運命うんめいを、くるしいいきしたからかたつてゐる。

63

そのときである。ふいに何処どこからともなく手裏剣しゆりけんんでるのと、左母二郎さもじろうのようにたふれるのといつしよであつた。火定かじようあなのあたりへけむりのようにして一人ひとりをとこ姿すがたあらはれた。ればさきほど火定かじようつたはずの寂寞道人じやくまくどうじんだが、さきほどの行者ぎようじや姿すがたとはつてかはり、南蛮鉄なんばんてつ鎖帷子くさりかたびらかため、うへには唐織からおりの着物きもの朱鞘しゆざや太刀たちよこたへて、悠々ゆう/\左母二郎さもじろうほうへやつて姿すがたは、善人ぜんにん悪人あくにんわからないが、一癖ひとくせありそうな面魂つらだましひだ。

64

左母二郎さもじろうから村雨むらさめかたなうばり、火定かじようやいばかへしてながめながら、
いたにもまさつた立派りつぱかたなだ。これがにはひつたからには、かたきをつもやがてのこと」
感心かんしんしてゐる。村雨むらさめこしみ、さて浜路はまぢほうせて、もういきえようとしてゐる浜路はまぢたすおこす。浜路はまぢはぱつちりをあけて、肩柳けんりゆうかほた。
のこらずはなしはそこでいた。かくいふ自分じぶん犬山入道道策いぬやまにゆうどうどうさく一子いつし犬山道節忠与いぬやまどうせつたゞともであるが、そちはちゝはなしいてゐた母違はゝちがひのいもうとである。うちにこみつたわけがあり、そちはひとにやられたが、父入道ちゝにゆうどう池袋いけぶくろたゝかひで練馬家ねりまけ滅亡めつぼうとともににした。そのちゝかたきらうと、自分じぶんうちつたはる火遁かとんじゆつもちひ、愚民ぐみんどもをあつめて火定かじようるとあざむき、賽銭さいせんるも軍用金ぐんようきんにあてるため、またこの村雨むらさめ銘刀めいとううへは、これをもつててきて」
といふをいて、浜路はまぢおどろく。肩柳けんりゆう姿すがたをかくすのは、犬山いぬやまいへつたはつた火遁かとんじゆつといふものであつたのだ。浜路はまぢはこのぎはに、まことのあに道節どうせつつたのは不思議ふしぎだが、信乃しの難儀なんぎすくふには、あにたのんでこのかたな信乃しのわたしてもらふよりほかはない。
兄上あにうへいもうと最期さいごたのみには、これより滸我こがき、村雨丸むらさめまるをつと信乃しのわたしてはくださらぬか」
「いやそれはならぬ。このがかたきをつまでは、この銘刀めいとう手放てばなすわけにくまい。かたきをてばようのないかたな犬塚信乃いぬつかしのとやらにめぐりあつたときかならずそれを手渡てわたすであらう」

65

いもうと必死ひつしねがひも、さすがにいまかれなかつた。浜路はまぢあはれにいきたえた。

66

道節どうせついもうと不便ふびんおもひながらも、いきたえたうへいたかたもなく、村雨むらさめこしんで、そこをらうとすると、
曲者くせものて!」
とうしろからんで木陰こかげひとがある。

67

    芳流閣上ほうりゆうかくもの

68

信乃しの額蔵がくぞうとは滸我こがむかつた。額蔵がくぞうはみち/\蟇六ひきろくわる相談そうだん信乃しのにはなし、自分じぶん信乃しのころやくにつけてよこしたことや、浜路はまぢ危険きけんであることやをかたつて、今後こんご相談そうだんをした。それにしても心配しんぱいなのは、蟇六ひきろくいへのこされた浜路はまぢうへであるゆゑ、額蔵がくぞう途中とちゆうからいへきかへすことになつた。

69

額蔵がくぞう円塚山まるづかやまふもとへかゝつたときは、よるももう大分だいぶんけてゐた。むかうに火影ひかげえてあたりには死骸しがいいくつもころがり、浜路はまぢにまみれてたふれ、なほ村雨むらさめ銘刀めいとうつてらうとする浪人ろうにんがある。

70

道節どうせつんだのは、いふまでもなく額蔵がくぞうすなは犬川荘助義任いぬかはそうすけよしたふであつたのだ。

71

額蔵がくぞう道節どうせつかたなこじりをしつかりつて二三歩にさんぽきもどすと、おどろきながらにかへつた道節どうせつは、額蔵がくぞうはらつてかたなかうとする。そこへよこざまにみついて、えい/\こゑんだが、さすがは勇士ゆうし勇士ゆうしち、どちらのちからがまさつてゐるともえない。どうしたことか額蔵がくぞう大事だいじにするまもぶくろ長紐ながひも道節どうせつかたな下緒さげをにからみつき、りほどかうとすればするほどまきついて、長紐ながひもれ、まもぶくろ道節どうせつこしにぶらがつた。のゆるんだすきに道節どうせつかたなけば、
心得こゝろえた」
額蔵がくぞうおなじくかたないて、たがひあは太刀風たちかぜはげしく、そらにはつきえてた。道節どうせつつよんでかたなひだりながし、
「やつ」
一声いつせい道節どうせつ肩先かたさきめば、鎖雌子くさりかたびらとほして、かたな道節どうせつかたこぶうへりつけた。黒血くろちがさつとほとばしるのにまじつて、なにものかいなごのようにし、額蔵がくぞう胸先むなさきへぶつかつてたのを、額蔵がくぞうはすばやくひだりにぎりとめ、なほもはげしくむすんだ。

72

道節どうせつかたなながながししながら、うしろへ退しりぞき、こゑて、
「やい、て。いふことがある。そちの武芸ぶげいはなはだよい。自分じぶんには復讐ふくしゆう大望たいもうあれば、こゝで小敵しようてきけつすることは出来できない。しばらくけ」
といふ。額蔵がくぞうは、をいからして、
いのちしくば、村雨むらさめ宝刀ほうとう手渡てわたせ。かくいふわれは、犬塚信乃いぬつかしの無二むに親友しんゆう犬川荘助義任いぬかはそうすけよしたふであるぞ。なんぢいた。犬山道節忠与いぬやまどうせつたゞとも宝刀ほうとうかへせ」
といへば、道節どうせつ大声おほごゑしてわらひ、
いもうとねがひをさへかない犬山道節いぬやまどうせつ。かたきをつまでは、なんぢかたならすまいぞ」
「いや、すぐに手渡てわたせ」
と、額蔵がくぞうはなほもかたなしつけて道節どうせつにせまるを、道節どうせつみぎひだりはらひながら、次第しだい火坑かこうのあたりへちかづいて、ぱつとんだとおもへば、火坑かこうなかよりけむりがあがり、道節どうせつ姿すがたえてしまつた。

73

額蔵がくぞうは、おもしてれば自分じぶん大事だいじな『』のたままもぶくろいつしよにられてゐる。それにしても道節どうせつ瘡口きずぐちよりしたものはなんであらうかと、ひだりひらき、つきひかりにすかしてれば、やはりひとつのたまである。それには『ちゆう』のがほられてゐる。
「さてはこれものちにわれ/\の同志どうしとなる勇士ゆうし一人ひとりであるとえる」
額蔵がくぞうはつぶやきながら、そのたまふところへをさめ、浜路はまぢとむらひ、大塚おほつかいへをさしてあしはやめた。

74

蟇六ひきろくいへにも騒動そうどうがあつた。浜路はまぢ家出いへでをしたあと、宮六きゆうろく五倍二ごばいじ結婚けつこんいはひにやつてた。蟇六ひきろくはいろ/\とつくろふが、うろたへてゐるからしくじりだらけだ。いま仕方しかたなくまことのことを白状はくじようし、いつはりのないしるしには、村雨丸むらさめまる宝刀ほうとうをも献上けんじようしようといふ。宮六きゆうろくかたないてたが、かはみづかわいてみづしづくなどはもうない。
「こんななまつくらが村雨丸むらさめまるか」
かたなまはして、はしらにぶつけると、かたな鍋蔓なべつるのようにへしまがつた。さけにはつてゐる。最前さいぜんからはらちどほしだ。宮六きゆうろくかたないて蟇六ひきろくのうしろからりつけると、亀篠かめざさたれもかれもそれをとめようとしてみついてる。宮六きゆうろく五倍二ごばいじとは、かたなにあたるものを無茶苦茶むちやくちやたふし、縁側えんがはしたげかくれた下男一人げなんひとりのこして蟇六ひきろくうちすつかりのひとたふした。あたりはうみになつてゐる。

75

額蔵がくぞうはそこへかへつてた。宮六きゆうろくびとめ、かたなつてあはせたが、宮六きゆうろくせられた。五倍二ごばいじ重傷おもでげてつた。ぎのになつて役人やくにんたちが調しらべにたが、役人やくにん宮六きゆうろく相役あひやくたちであるから、額蔵がくぞうのいふところをかうとしない。額蔵がくぞう蟇六ひきろく一家いつかころし、それをとめようとした役人やくにん宮六きゆうろくをまでつたことに役人やくにんはきめた。額蔵がくぞうなはたれお役所やくしよてられてつた。もなくくびになることであらう。

76

はなしかはつて、こちらは滸我こがつた信乃しのである。御所ごしよ執権しつけんをしてゐる横堀史在村よこぼりふびとありむらやしきうかゞひ、村雨献上むらさめけんじようのことをまをげると、すぐにおゆるしがた。さてもなく、成氏卿しげうぢきようがぢき/\にお目通めどほりをゆるし、銘刀めいとうろうといふたつしである。

77

宿やどさがつてゐた信乃しのは、献上けんじようするかたなちりぬぐはうと、いてるにしづくれない。これはとおどろかたな見返みかへせば、村雨むらさめはいつのにか真赤まつか贋物にせものりかへられてゐた。信乃しのおどろいて在村ありむらやしきまゐり、そのことをまをげようとするもなく、もう使つかひがまゐつてゐて、信乃しの成氏しげうぢまへ案内あんないするのだ。

78

成氏しげうぢ上段じようだん御簾みすなかすわり、執権しつけん在村ありむら一段いちだんひくくすわつて、家来けらい左右さゆう居流ゐながれる。

79

在村ありむら信乃しのむかひ、
結城ゆうきしろにてにの旧臣きゆうしん大塚匠作三戌おほつかしようさくみつもりまご犬塚信乃いぬつかしの亡父ぼうふ番作ばんさく遺言ゆゐごんまもり、当家とうけ宝刀ほうとう村雨むらさめ献上けんじようするだん奇特きとくおもふぞ」
こゑをかける。信乃しのあたまげ、
「いやそのかたなは」
といつて、にせかたなとすりへられてゐるはなし正直しようじきまをげると、在村ありむらいかつて、
村雨むらさめ銘刀めいとううしなつたといふはいつはりで、まことはなんぢてき間諜かんちようであらう。とく/\れ」
人々ひと/゛\下知げちをする。こゑしたからおほくの兵卒へいそつ信乃しのかこんでりにしようとするが、信乃しのもこゝでいのちうしなつてはならないだ。んで人々ひと/゛\を、みぎひだりになげばし、飛鳥ひちようのようにんでると、白刃しらはがまはりからもなくせまつてる。信乃しのたゝみをはねげ、それをたてにしてふせいでゐたが、さきにすゝんだ一人ひとりかたなうばつて身構みがまへた。三人さんにん
五人ごにんたふし、一方いつぽうみちひらいて、広庭ひろにはをどで、なほも軒端のきばまつつたうて屋根やねうへのぼると、やりかたなつて人々ひと/゛\はうしろへせまつてる。信乃しのまへすゝ人々ひと/゛\をはげしくせるに、ひと雪崩なだれをつくつて屋根やねからころちる。信乃しの一人ひとりりまくられ、死骸しがいはあちらにもこちらにもたふれてゐる。

80

信乃しの浅傷あさでをおうたから、屋根やねより屋根やねびうつゝて、だん/\そとのがれてくと、そこに物見ものみおもへる三階建さんがいだての大建おほだものがある。芳流閣ほうりゆうかくといふがくがかゝつてゐる。信乃しのはやつとその屋根やねうへまでよぢのぼり、のがれるみちさがしてるに、芳流閣ほうりゆうかく真下ましたには、たゞひろ/゛\とした大利根おほとねかはながれてゐるだけだ。信乃しのももうのがれて屋根やねたない。したでは成氏しげうぢにはにおり、床几しようぎてさせ、信乃しのあふながら、
「あれを射落いおとせ」
下知げちをするけれど、くもをしのぐ芳流閣ほうりゆうかく屋根やねまではつよとゞかない。

81

このとき在村ありむらはふつと犬飼見八いぬかひけんぱちのことをかんがへた。犬飼見八信道いぬかひけんぱちのぶみちは、二階松にかいまつ山城守やましろのかみ高弟こうていであり、なかにももの柔道じゆうどう得意とくいである。無双むそう勇士ゆうしではあるが在村ありむらににくまれ、無実むじつつみ入牢にゆうろうさせられてゐる。在村ありむら見八けんぱちして信乃しのとらへさせることをかんがへたのだ。信乃しのとらへても、信乃しのたれても、在村ありむらつていづれもねがつてゐることである。

82

見八けんぱちろうからされ、信乃しのおさへの下知げちけた。ざすてきはとれば、芳流閣ほうりゆうかく屋根やねたかく、血刀ちがたなつてつてゐる。見八けんぱち鎖帷子くさりかたびら着込きこみ、たゞ十手じつてつて、三層楼さんそうろう屋根やねうへたかくよぢのぼつた。すべるかはらあししたにして、信乃しの見八けんぱち、まことに無双むそう勇士ゆうし勇士ゆうしの、にらみあつた姿すがたいさましい。

83

たがひにすきをうかゞひ、かはらうへをあちらこちらとまはつてゐたが、信乃しのはよい足場あしばをつくり、見八けんぱちがけてつゞけざまにちおろす太刀たちのはげしさには、見八けんぱちぷたつになつたかとおもはれる。見八けんぱち眉間みけんをめがけてちおろしたかたなを、見八けんぱちはやく十手じつてとてめれば、信乃しのかたな鍔際つばぎはかられてつた。見八けんぱちはそのすきをて、得意とくい柔道じゆうどうみついてく。信乃しのもそのまゝ左手ひだりてきつけ、しつかりとうでつてはなさない。「えい/\」こゑしてつてゐるが、なんにせよ足場あしばあやふ屋根やねうへだ。いづれかゞかはらをふみすべらしたとに、ごろ/\と屋根やねうへをころがつて、二人ふたりんだまゝ、くも三層楼さんそうろう屋根やねから、いしおとしたように幾十丈いくじゆうじようした大刀根おほとねうへちてつた。
「あつ」
成氏しげうぢ兵卒へいそつたちがおどろいてゐるに、信乃しの見八けんぱちとは刀根川とねがは水底みづそこふかんだかとおもへば、「どさり」とおとがして、二人ふたりしたにつないであつた、一艘いつそう小舟こぶねうへちてたのだ。

84

さつと水煙みづけむりがあがり、ふねれたとおも拍子ひようしに、つないであるつなはほどけ、ふねるような早河はやかはまつたゞなかされた。兵卒へいそつたちがあわてさわいでゐるあひだに、小舟こぶねながされて、川下かはしもとほ姿すがたした。

85

    胡那屋こなや客人きやくじん

86

下総しもふさ行徳ぎようとく入江橋いりえばしはしづめに、古那屋こなやといふ旅籠屋はたごやがある。主人しゆじん文五兵衛ぶんごべえつまには一昨年いつさくねんなれ、子供こども二人ふたりある。長男ちようなん小文五こぶんごといひ、今年ことし二十歳はたちであるが、のたけ五尺九寸ごしやくきゆうすん肉隆にくたか骨逞ほねたくましくて、武芸ぶげいこのみ、剣術けんじゆつ柔道じゆうどう相撲すまふ得意とくいだ。いもうと十九じゆうく、お沼藺ぬゐといつて、市川いちかは船頭せんどう山林房八郎やまばやしふさはちろうへとつぎ、大八だいはちといふをとこんでゐる。今年ことしもうよつつになつた。文五兵衛ぶんごべえは、これといつてんでゐるわけでもないが、よくすくないから、ひまのあるをりにはつてりをするのがたのしみだ。

87

今日けふ六月ろくがつ二十一日にじゆういちにち牛頭天王ごずてんのう祭礼さいれいである。家毎いへごと酒宴しゆえんはじまつて騒々そう/゛\しいけれど、文五兵衛ぶんごべえはそれにもほうでない。旅籠屋はたごやのことだからひるべつしてひまであるし、よるまつりを昼寝ひるねしてつのも臆劫おつくうだ。しばらくでもりをしてたのしまうと、きしあしき、無心むしん竿ざをれてゐる。

88

そのときである。一艘いつそう小舟こぶねしほかれなみられて、河上かはかみからながれてた。次第しだいにこちらのきしながるのをれば、なかには二人ふたり武士ぶしたふんでゐる。「こんなふねをこゝらにけば、土地とち面倒めんどうにもなるだらう。さはらぬかみたゝりはない」と、竿さをなほし、そつとふねをつきながさうとして、つく/゛\るにおどろいた。
「やつ、犬飼見八いぬかひけんぱちさんぢやあねえか」

89

頬尖ほゝさき黒痣くろあざのあるのは、たしか犬飼見兵衛いぬかひけんべえ一子いつし見八信道けんぱちのぶみちである。このひとたすけなければならぬと、ふねつなぎとめ、そのうへうつつていろ/\介抱かいほうするが、きかへりそうもない。いへへかへりくすりつてようと拍子ひようしに、おもはずもう一人ひとり武士ぶしにつまづいて脇腹わきばらると、その武士ぶしは、
「うーん」
といつてかへつた。
「こゝはどこのうらでござるか。してあなたは」
頬尖ほゝさき黒痣くろあざのあるが目印めじるしで、かねて懇意こんい犬飼見八いぬかひけんぱちさんをたすけようとするあひだに、あなたがかへりなさつたか」
「やつ、頬尖ほゝさき黒痣くろあざとは。さてはこのかた犬飼見八殿いぬかひけんぱちどのでござつたか。わたし大塚村おほつかむら郷士ごうし犬塚信乃戌孝いぬつかしのもりたかまをすもの。滸河殿こがどのつかへる武士ぶしなかに、黒痣くろあざあるを目印めじるし自分じぶん子供こどもをさがしてもらひたいとたのまれたは、犬飼いぬかひどのゝまことの父親ちゝおや糠助ぬかすけどのでござつた」
糠助ぬかすけどのとやらはらないが、この見八けんぱちどのゝ父御てゝご見兵衛けんべえどのはかねての見知みしりごし。おもへばもう十八九年じゆうはつくねんむかしにもならうか。見兵衛けんべえどのは、あれあのむかうのはしのほとりで、ゑつかれた旅人たびびと子供こどももらひ、わたし宿やどへあづけにござつた。ちようどわが小文五こぶんごうまれたぎのとし、わがつまちゝにすがり、見八けんぱちどのも小文吾こぶんごいつしよに成人せいじんして、いま見八けんぱちどのは滸河こがどのにつかへる立派りつぱ武士ぶし
「それまでけば、糠助ぬかすけどのにもまをしわけがござらぬ。見八けんぱちどのをころしたからには、かうしてひわけ」
と、かたなをぬきはらへつきたてようとすると、
犬塚氏いぬづかうぢ、はやまりたまふな」
といつて、おこしたのは見八けんぱちである。
ゆめうつつのようにはなしきながら、見八けんぱちいまかようにかへまをした。さては貴殿きでんはわがまことのちゝ恩人おんじんでござつたか」
と、それから三人さんにんとも/゛\これまでのことをかたつた。不思議ふしぎたま黒痣くろあざのことをはなつたときに、文五兵衛ぶんごべえひざつて、
「それならわが小文吾こぶんごうまれながら同志どうし一人ひとりでござつたか」
と、いつてかたるところをくに、文五兵衛ぶんごべえむかし安房あはくに領主りようしゆ神余光弘じんよみつひろつかへてゐた近習きんじゆ那古七郎なこしちろうおとうとであつた。光弘みつひろ金椀かなまりむかし家来けらい杣木朴平そまきぼくへいなど
たれたとき七郎しちろう主君しゆくんのためにたゝか朴平ぼくへいたれた。さて神余じんよいへほろんだので、文五兵衛ぶんごべえ行徳ぎようとくちてて、那古なこせいさかさにし、古那屋こなやといふ旅籠屋はたごやひらいたのであつた。小文吾こぶんごちからつよく、その近傍きんぼう評判ひようばん悪者わるもの犬太いぬたといふをころしたので、世間せけんでは犬田小文吾いぬたこぶんごんでゐた。小文吾こぶんごがまだ赤子あかごころめのいはひの赤飯せきはんをたべようとわんなかはしてたときに、なにかころころところぶものがあるので、げてると『てい』ののあるうつくしいたまであつた。小文吾悌順こぶんごやすよりといふはそこからてゐる。また十五じゆうごとき相撲すまふつて、相手あひてばし自分じぶん臀餅しりもちをついた拍子ひようし牡丹ぼたんはなのような黒痣くろあざ出来できた。

90

小文吾こぶんごいもうと沼藺ぬゐのとついでゐるさき山林房八やまばやしふさはち小文吾こぶんごとのなかは、ふとしたことからわるくなつた。そのころ鎌倉かまくら念玉坊ねんぎよくぼう観得坊かんとくぼうといふ山伏やまぶしがあつて、武芸ぶげいこのみ、我慢がまんつよく、山伏やまぶしかしらになることをあらそつて、はては相撲すまふことをきめることになつた。念玉坊ねんぎよくぼう小文吾こぶんご観得坊かんとくぼう房八ふさはちたのみ、八幡はちまんやしろれの勝負しようぶをしたが、小文吾こぶんご房八ふさはちばし、念玉坊ねんぎよくぼうちになつたので、それからどうも二人ふたりなか面白おもしろくない。しかしちゝ文吾兵衛ぶんごべえ小文吾こぶんご喧嘩けんかいましめ、親孝行おやこう/\小文吾こぶんごゆび紙縒こよりむすんでおやのいひつけどほりこゝろにかたくちかつてゐる。

91

こゝに信乃しの見八けんぱち小文吾こぶんごおなたまつた同志どうしであることがわかつた。見八けんぱちは、その玉扁たまへんをつけて、今日けふから現八げんぱちあらためた。

92

あしががさ/\とれて、ぬつと姿すがたあらはしたものがある。おどろいて見返みかへれば、小文吾こぶんごであつた。
はなし最前さいぜんからのこらずいたが、かうしたところでふかはなしはあぶない。御両所ごりようしよはまづこの着換きがへとあらためられるがよい。父上ちゝうへはお客人きやくじん案内あんないして、ひと見咎みとがめられぬうち、一時いつときはやくうちへおかへください」
といつて、信乃しの現八げんぱちに、のついた着物きものをぬがせあたらしいのとかへさせる。小文吾こぶんごはそれを布呂敷ふろしきつゝみかくした。ちゝ信乃等しのら案内あんないしてる。あとは夕闇ゆふやみだ。小文吾こぶんごはこつそりふねをつきして、川下かはしもながれてくのを見送みおくりながら、あしけてらうとすると、おなじくあししげみのかげから姿すがたあらはして、小文吾こぶんごこしをつかまへたものがある。たがひ無言むごんつてゐたが、小文吾こぶんごりほどいた拍子ひようしすと、布呂敷ふろしきから血染ちぞめの着物きものがぬけちる。うしろのをとこはそれをあしにからませ、ひろげてふところにねぢんだ。やみ二人ふたり姿すがたうた。

93

古那屋こなやにはこのほどから念玉坊ねんぎよくぼう逗留とうりゆうしてゐたけれども、今日けふまつりを見物けんぶつき、よるかへらぬことになつてゐる。奥座敷おくざしきへは文五兵衛ぶんごべえをはじめ、信乃しの現八げんぱち小文吾こぶんごがあつまつて、したしいはなしときうつるのもらない。そのとき小文吾こぶんご子分こぶんて、小文吾こぶんご子分こぶん房八ふさはち子分こぶんとがおまつりで喧嘩けんかをしたとしらせにた。小文吾こぶんごはその始末しまつをつけにいつた。

94

さてぎのである。信乃しの現八げんぱちはいつになつてもない。文五兵衛ぶんごべえ心配しんぱいになつてくと、信乃しの昨日きのふ疵口きずぐちがいたみ、ひどいねつあたまもあがらないといふ。現八げんぱちがいろ/\と介抱かいほうしてゐる。これは疵口きずぐちかぜかれたところから、破傷風はしようふうおこしたものに相違そういない。那古七郎なこしちろういへにはむかしから破傷風はしようふうをなほす秘伝ひでんがあつて、それはわかをとこをんなおな分量ぶんりようづつあはせ、それで疵口きずぐちあらへばよいといふのだが、いまそんなエ夫くふうもない。現八げんぱち武蔵むさし志婆浦しばうら破傷風はしようふうのよいくすりのあるのをおもしたから、今夜こんやまでにつてるといつてかけていつた。

95

小文吾こぶんごはまだかへつてない。文五兵衛ぶんごべえひとり奥座敷おくざしき信乃しの介抱かいほうをしてゐると、役所やくしよから文五兵衛ぶんごべえ用事ようじだといつてた。信乃しののことを調しらべられるのに相違そういないとおもふけれど、仕方しかたがないから信乃しの気安きやすめをいつてていつた。

96

小文吾こぶんごまへばんいろ/\と喧嘩けんか後始末あとしまつをし、房八ふさはち子分こぶん手厚てあつ介抱かいほうしておくかへし、さていへかへらうとしてみちまでると、あとから房八ふさはちつかけてた。

97

房八ふさはちははじめから喧嘩けんかつてる。けれども小文吾こぶんご父親ちゝおやちかつてゐるので、手出てだしをしようとしない。房八ふさはちはさん/゛\悪口あつこうをいつた挙句あげく土足どそく小文吾こぶんごかたみつけて、
犬田いぬだ、これでもまだまぬぞ。今夜こんやくからつてをれ」
といひながら、そこへ来合きあはせた観得坊かんとくぼういつしよに、小気味こきみよげにつた。

98

小文吾こぶんご無念むねんおもふものゝ、「よくもちゝへのちかひをやぶらなかつた」と、つちをはらひながらがりかけると、ばら/\と人達ひとたちが、
犬田いぬだ御用ごようだ」
といつてなはちにかゝつた。れば父親ちゝおや文五兵衛ぶんごべえなはたれてゐる。役人やくにん小文吾こぶんごむかひ、昨夜さくや古那屋こなやへとまつた二人ふたり客人きやくじんは、信乃しの見八けんぱちだといふらせをしたものがあるから、これより家捜やさがしに途中とちゆう、そちも同罪どうざいによりなはつといふ。小文吾こぶんごはなんとかして誤魔化ごまかし、ちゝをもかへ工夫くふうをしようとおもひ、
なにしろ客商売きやくしようばいのことゆゑ、お客人きやくじんうへまで調しらべることは出来できませんでしたが、さうしたつよいお武家ぶけならば、これよりおさへにまゐつても、たゞ怪我人けがにんるばかり、それよりはこのわたしがその信乃しのとやらの寝首ねくびをかいてまゐりませう。この策略さくりやくはいかゞでござる」と話上手はなしじようずきつけると、役人やくにん感心かんしんして、
「それならば信乃しのくびはそちにまかせた。ちゝ文五兵衛ぶんごべえはそのときまでの人質ひとじちであるぞ」
といひながら、ちゝなはいてつた。

99

    小文吾こぶんご難儀なんぎ

100

小文吾こぶんごいへかへつたが、どうしてよいか途方とほうにくれた。そこへ念玉坊ねんぎよくぼうかへつてた。
はまでこんなおほきな法螺貝ほらがひつてた」などといつてせながら、小文吾こぶんご尺八しやくはちり、
今夜こんやはこれでもいてよるをすごさうか」といつて、法螺貝ほらがひもそこにわすれ、べつ座敷ざしきへはひつてつた。

101

小文吾こぶんご子分こぶん三人さんにんる。房八ふさはち土足どそくにかけられても手出てだしの出来できないような親分おやぶんは、もう親分おやぶんでも子分こぶんでもない」などといつて、小文吾こぶんご悪口あつこうをいひながらこぶしつてかかると、小文吾こぶんごはそれをばした。たゞ一人ひとりになつた小文吾こぶんごは、思案しあんにあまりいきばかりをついてゐる。

102

ふいにかどがあいて、おくつて駕籠かごなかからたのは、房八ふさはちはゝ妙真みようしんとお沼藺ぬゐ大八だいはち三人さんにんであつた。

103

妙真みようしんのいふところでは、房八ふさはち機嫌きげんはどんなにしてもなほらぬし、双方そうほう一層いつそうまづくなつたことだから、お沼藺ぬゐをひとまづつてもらひたいといふ。小文吾こぶんごは、今日けふ父親ちゝおやもゐないことだから」といつてたのむけれども、妙真みようしんれない。
「それなら離縁状りえんじようしてもらひませう」
離縁状りえんじようはとつくにこゝに」
といつて妙真みようしんのさしかみひらいてれば、信乃しの姿絵すがたえをかいたお役所やくしよ布令書ふれがきである。
「いかにも離縁状りえんじようはたしかにつた。いもうとのお沼藺ぬゐもたしかに」
「さあこの離縁状りえんじようがあるからには、房八ふさはちのすることにも道理どうりがございませう」
といつて、妙真みようしんつた。

104

沼藺ぬゐは、なにやかやの心配しんぱい病気びようきになつたようながする。父親ちゝおやかへつてるまでおくへはひつてやすんでゐようとすると、小文吾こぶんごはそのまへちふさがつてどなりつける。おくにはつけられてならない信乃しのてゐるのだ。お沼藺ぬゐは、わけをらず小文吾こぶんご不人情ふにんじよううらんでゐる。

105

そこへまたおもてががらつとあいて、はひつてたのは房八ふさはちである。長脇ながわきざしをぶちみ、部屋へや真中まんなかたかあぐらをかいてすわつて、しばらくは小文吾こぶんごをにらまへてゐる。
小文吾こぶんご、おまへをとこなら、今日けふ土足どそくにかけられたはぢをかへせ。お沼藺ぬゐをかへすからには、おれもかへすものはかへさうとおもふ」
といつて布呂敷包ふろしきづゝみのむすびがほどけ、なかからたのは前夜ぜんやおとした血染ちぞめ着物きものだ。
「ぢやあ前夜ぜんやをとこはおまへであつたか」
「さあ、その証拠しようこがこつちのにはひつたからには、よもやかくても出来できまいが。これからんでなはをかけようか」
あがつて、おくへのふすまをかける。まへにゐたお沼蘭ぬゐさきによつて、をつときもどさうとした。

106

小文吾こぶんごは、きり/\はらつていまにもかたなきたいが、まだ我慢がまんをしてゐると、
「おまへまでが邪魔じやまをするか」
といつて、お沼藺ぬゐつた房八ふさはちあしはあやまつて子供こども大八だいはち脇腹わきばらにあたる。大八だいはちは「あつ」ともいはずいきえた。お沼藺ぬゐはその横抱よこだきにしたまゝ、かたをふるはしてつた。

107

房八ふさはち邪魔じやまものがなくなつたので、またおくへのふすまをかける。小文吾こぶんごがそれをふせぐ。房八ふさはちこぶしをあげて小文吾こぶんごつと、小文吾こぶんごふせいだむすんだ紙縒こよりれた。
「もう我慢がまん紙縒こよりれた」
と、小文吾こぶんごかたなき、房八ふさはちいてあはせた。あたりはすつかりものすごい様子ようすになつた。小文吾こぶんご房八ふさはちとはよい相手あいてであるから、勝負しようぶ容易よういにきまらない。お沼藺ぬゐ一人ひとりは、もう半狂乱はんきようらんだ。あにをつととどつちに怪我けががあつてもならないと、かたなをぎり/\むすあはせてゐるしたへはひり、あつちこつちをりなだめようとしてゐるのが二人ふたり邪魔じやまになる。

108

房八ふさはちわづかのすきをて、ぱつと小文吾こぶんごりかけた。小文吾こぶんごがすかさずをかはしたしたには、お沼藺ぬゐのからだがあつた。お沼藺ぬゐちゝしたをはげしいいきほひでげられた。房八ふさはちがはつとしてかたななほすからだのみだれに、小文吾こぶんごかたなんで、房八ふさはちみぎ肩先かたさきをばらりとげられた。勝負しようぶはついたのだ。
犬田いぬだ、しばらくて。いふことがある」
いまになつてなんのいふことだ。卑怯ひきよう山林やまばやし
「いやて」
重傷おもでくるしさに、房八ふさはちはあえぎあえぎかたる。
犬田いぬだおれはかうなるのがのぞみだつたのだ。おれはおまへをおこらせて、おまへころされにたのだ」

109

房八ふさはちかたるところはかうであつた。房八ふさはち祖父そふはもと安房あは神余じんよ武士ぶし金椀かなまりつかへてゐた杣木朴平そまきぼくへいである。杣木そまき神余じんよいへほろぼすわるだくみをしてゐた定包さだかねつつもりで、間違まちがつて主君しゆくん神余じんよ那古七郎なこしちろうたした。朴平ぼくへいはそこでころされたが、朴平ぼくへいのがれて市川いちかは犬江屋いぬえや養子ようしになり、房八ふさはちんだ。犬江屋いぬえや房八ふさはちいへのほんとうの屋号やごうである。けれども房八ふさはちはその祖父そふ杣木そまきといふをわざとこはしてあはせ、山林やまばやしといふ名字みようじにし、自分じぶん名乗なのつてゐた。さて古那屋こなやむすめつまもらつたあとで、いろ/\古那屋こなや素性すじようつてるとおどろいた。古那屋こなやつては、房八ふさはちちゝあにかたきなのだ。だから房八ふさはちちゝつま妙真みようしん房八ふさはちかた遺言ゆゐごんして、こののちをりがあつたら古那屋こなやのために一命いちめいさゝげ、那古なこころしたことの罪滅つみほろぼしをしなければいけないといつていた。念玉坊ねんぎよくぼう観得坊かんとくぼうとのあらそひにも、房八ふさはちはもちろんちを小文吾こぶんごゆづつた。

110

さて今度こんど信乃しの現八げんぱち事件じけんである。房八ふさはちはからず川岸かはぎしで、信乃しの文五兵衛等ぶんごべえなどのはなすのをいたが、さて信乃しのらをがしてやるには、古那屋こなや旅籠屋はたごやだけにひと出入でいりがおほくかへつてやりにくい。これは自分じぶん一骨ひとほねらなければならぬとかんがへた。そのうち信乃しのらは古那屋こなやげたし、たれにも気取けどられぬようこつそり小文吾こぶんご相談そうだんをしようと、うしろから小文吾こぶんごつばつたのだが、小文吾こぶんご曲者くせものおもひ、むりにりほどいてつてしまつた。あとにちた血染ちぞめの着物きもの、こんなものがのこつてゐてはわるいと、房八ふさはちはこつそりいへつてかへつた。

111

さていろ/\とかんがへてたが、よい分別ぶんべつない。ふとおもしたのは、夕闇ゆふやみながらに信乃しのかほである。それがどこやら自分じぶんかほてゐる。滸我殿こがどののものも、信乃しのくはしくたわけではないし、自分じぶんくびつてけば、このふれしの信乃しの姿絵すがたえにあたり、それで信乃しののがれることが出来できよう。いまこそちゝ遺言ゆゐごんごとく、古那屋こなやのために一命いちめいときた。しかしいまそんなはなしんでも、小文吾こぶんご房八ふさはちくびつてくれるものでもないから、はゝともよく相談そうだんをし、昨日きのふからわざ/\小文吾こぶんご喧嘩けんかつて、出来できるだけ小文吾こぶんごをおこらせてき、自分じぶんつてかゝらせるようにした。お沼藺ぬゐをかへしたのも、そのためにはゝ相談そうだんづくのことである。
犬田いぬだ、この山林やまばやしこゝろんでくれぬか。さあ一刻いつこくはや山林やまばやしくびつてくれ」

112

沼藺ぬゐ重傷おもでながらもをつと本心ほんしんいて、今更いまさらながらよろこぶ。かへつたはずの妙真みようしんも、様子ようすかどけてはひり、たれかれくるしいこゝろなみだみしめた。
山林やまばやし犬死いぬじににはならないぞ。よろこんでくれ。きみんでくれても、犬塚殿いぬつかどの昨日きのふからの破傷風はしようふうちあがれないくるしい病気びようき、このまゝ死なれたらきみのせつかくのこゝろみづあわになるところだつたが、きみとお沼藺ぬゐながしてくれたこの血潮ちしほは、犬塚殿いぬつかどの病気びようきをもなほしてくれる」と、小文吾こぶんご那古なこいへつたはつた秘伝ひでんはなしをし、そこにころがつてゐた念玉坊ねんぎよくぼう法螺貝ほらがひつて、房八ふさはちとお沼藺ぬゐり、おくふすまをあけてかけまうとした。信乃しの最前さいぜんからのさわぎをおくいてゐたが、てもゐられないのでゐざりゐざり、ふすまのそばまでてゐた。これも房八ふさはちふかこゝろざし感謝かんしやなみだみしめてゐたのだ。ふすまをあけてんだ小文吾こぶんご信乃しのにぶつかつた拍子ひようしに、法螺貝ほらがひおとして、信乃しの着物きものがさつとむと、信乃しのりつめた元気げんきをなくしてばたりとたふれてしまつたが、小文吾こぶんご行燈あんどんつてそばり、信乃しの様子ようすうかがふと、信乃しのねむつたものゝ覚めたような工合ぐあひで、身体からだおこしかけた。信乃しの病気びようきえたのだ。
「このうへ一刻いつこくはやくびて。おそくなれば追手おつてがかゝる」
といふので、犬田いぬだはまはりの様子ようすまはり、房八ふさはちのうしろにかたなつてつた。

113

そのときである。あひだふすまをあけ、しづかにそこへたのは念玉坊ねんぎよくぼうであつた。観得坊かんとくぼうもうしろにつゞいてゐる。念玉坊ねんぎよくぼう黒染くろぞめのあさころも腰短こしみじか端折はしをり、脚絆きやはんをはき、左手ひだりてかさ右手みぎて錫杖しやくじようてゝゐる。それにしたが観得坊かんとくぼうは、朱鞘しゆざや大小だいしようをぶちんだ侍姿さむらひすがたとなりにはなにやらいたものをさゝげてゐた。その様子ようすはいかにも立派りつぱで、一座いちざ人々ひと/゛\おどろいた。
人々ひと/゛\しばらくて。かくいふは里見義実朝臣さとみよしざねあそん功臣こうしん金椀八郎孝吉かなまりはちらうたかよし一子いつし金椀大輔孝徳かなまりたいすけたかのりいま法師ほうしとなつて丶大坊ちゆだいぼうまをす。またこれなるはおなじく里見さとみ功臣こうしん蜑崎十郎照武あまざきじゆうろうてるたけ長男ちようなん蜑崎十一郎照文あまざきじゆういちろうてるぶみである。この丶大ちゆだいは、伏姫君ふせひめぎみのおくびにかけられた数珠じゆずたまじんれいちゆうしんこうていやつつがつたをさがしに、六十余国ろくじゆうよこく行脚あんぎやするけれども、まだそのたまひとつにもあはない。これなる照文てるぶみは、われらが竹馬ちくばともきみ実公よしざねこうおほせをうけたまはり、武勇ぶゆう人々ひと/゛\をあつめるため、関東八州かんとうはつしうしのあるくに、おもはず鎌倉かまくらでめぐりあひまをした」
といつて、丶大法師ちゆだいほうしかたるところでは、行徳ぎようとく小文吾こぶんご市川いちかは山林やまばやしといふちからつよひとのあることをき、その人々ひと/゛\武勇ぶゆうほどこゝろだてをさぐ調しらべるため、山伏やまぶしこしらへて行徳ぎようとくまゐり、念玉坊ねんぎよくぼう観得坊かんとくぼう名乗なのつて、一人ひとり小文吾こぶんご一人ひとり山林やまばやし様子ようすを、内々ない/\さぐつてゐたのである。昨日きのふはまよりかへ何気なにげなくいた奥座敷おくざしきはなしにより、よつつのたまれて。犬塚いぬつか犬川いぬかは犬飼いぬかひ犬田いぬだ四人よにん勇士ゆうしは、里見家さとみけふか関係かんけいのあることをつた。それから十一郎じゆういちろう宿やどつて万事ばんじ
あはせ、四人よにん勇士ゆうし里見家さとみけかゝへる相談そうだんをした。しかるに今夜こんやはからず丶大法師ちゆだいほうし山林やまばやしやお沼藺ぬゐとむらはなければならぬことになつたのも、不思議ふしぎなめぐりあはせである。十一郎じゆういちろうさゝげてけは、その里見公さとみこうかゝじようであつた。

114

丶大法師ちゆだいほうし妙真みようしんそばふせさせてある大八だいはち死骸しがいどくがつてて、
「この子供こどもんでときたつたにかゝはらず血色けつしよくかはらないには、なにかのわけもなければならない」
と、ひとごとをいひながら小膝こひざき、死骸しがいげ、みやくようとしてひだりるとんでゐたはずの大八だいはちは「わつ」とこゑをあげてきかへりひだりひらいた拍子ひようしに、てのひらからうつくしいたまがころがりた。おどろいてげてれば、『じん』のきざまれたうつくしいたまである。なほ不思議ふしぎなことにはちゝ房八ふさはちられた脇腹わきばらには、牡丹ぼたんはなかたちをした黒痣くろあざてゐたのである。この大八だいはちもまた信乃しの小文吾等こぶんごら同志どうしであつたのだ。一座いちざおどろく。房八ふさはち、お沼藺ぬゐいきしたから、わががその勇士ゆうし一人ひとりであることをよろこんだ。

115

大八だいはちまれながらにひだりてのひらにぎつてゐてはなさない。親達おやたちはこの片輪者かたわものおもつて、あきらめてゐた。むかしおもひかへすと、文五兵衛ぶんごべえ入江河いりえがはりようをしにつたあるばんみづなかなにひかつたものがえてゐる。それをあてにあみつけれども、ものもかゝらなければさかなもかゝらない。仕方しかたがないのでそのはかへり、ぎのあみしてゐると、あみなかなにひかるものがあつて、ころ/\ところがりちた。そのときまだふたつであつたお沼藺ぬゐぐにひよつて、このちてたものをくちれた。くのをむりにくちをあけさせ、いろいろ調しらべたがなにくだしたかわからない。それがいまおもあはせれば、この『じん』のたまであつたのだ。たまつてゐる勇士ゆうし八人はちにんなければならない。いま大八だいはちがそのたまつてゐたので、八犬士はちけんしうち犬塚いぬつか犬川いぬかは犬飼いぬかひ犬田いぬだ犬江いぬえ五人ごにんそろつたのだ。大八だいはちには丶大法師ちゆだいほうし名附なづおやとなり、をつけて犬江親兵衛仁いぬえしんべえまさしばせることになつた。

116

十一郎じゆういちろうは、かねてより山林やまばやし里見家さとみけかゝへるかんがへであつたから、つてゐるかゝじよう房八ふさはちいたゞかせた。んで房八ふさはちには、それとまさしかゝへとがなによりの勇気ゆうきづけになる。
兄貴あにき兄貴あにき介錯かいしやくたのむ」
房八ふさはち小文吾こぶんご催促さいそくするので、小文吾こぶんごはらわたのちぎれる心地こゝちがするが、こゝろおににして房八ふさはちのうしろにまはり、「やつ」と一声いつせい最期さいごくびおとした。人々ひと/゛\はたゞ念仏ねんぶつとなへてゐる。

117

現八げんぱち志婆浦しばうらからくすりつてかへつてた。門口かどぐちをあけてはひらうとする出合であがしらに、
信乃しののありかをつけた。これからお役所やくしよへかけつけ、褒美ほうび三人さんにん山分やまわけ」
といつて、蝦蟇がまのようなかたちひさしのあはひから三人さんにんをとこがある。さきほど小文吾こぶんごばされた、こゝろわる子分達こぶんたちだ。現八げんぱちはさつそく柔道じゆうどうして、三人さんにん衿上えりがみをつかみ、つちうへばすと、どころわるかつたとえ、そのまゝ起きもあがらない。

118

現八げんぱちかどをあけてはひつた。そこには信乃しの小文吾等こぶんごらが、たゞ現八げんぱちかへつてるのをつてゐた。

119

    親兵衛しんべえ神隠かみかく

120

小文吾こぶんごらは、んだものゝ始末しまつをつけなければならない。小文吾こぶんごは、房八ふさはちくびつてお役所やくしよへかけていつた。くびちゝ文五兵衛ぶんごべえとを交換こうかんしてるのだ。三人さんにん悪者わるもの死骸しがいは、河原かはらつてて、おもりをつけ水底みづそこふかしづめ、山林夫婦やまばやしふうふ死骸しがいは、ふたつの葛籠つゞらなかへしまつてそのうへむしろでつゝみ、船荷ふなにのようなかたちにした。入江橋いりえばしのあたりへつてると、さいは人影ひとかげえないから、いまのうちにふねさうと、荷物にもつみ、ひとつてともづなをといた。妙真みようしん親兵衛しんべえくし、信乃しの現八げんぱちふねそこふかしのばせて、蓑笠みのかさ姿すがたをやつした蜑崎照文あまざきてるぶみふねいだ。市川いちかは山林やまばやしうちくのである。

121

小文吾こぶんごちゝりかへしたのち丶大法師ちゆだいほうしいつしよになつてあとからた。山林夫婦やまばやしふうふ死骸しがいは、人知ひとしれず犬江屋いぬえや墓所ぼしよほうむつた。さて近所きんじよきこえてはわるいから、房八ふさはち用事ようじ鎌倉かまくらつたし、お沼藺ぬゐしばら行徳ぎようとく実家さとつてゐるといふことにして、あとを誤魔化ごまかした。そのあひだ小文吾こぶんご信乃しの現八げんぱち三人さんにんは、大塚おほつか額蔵がくぞう心配しんぱいだからといふので、身支度みじたくをしてそのほうかけた。丶大法師ちゆだいほうし山林夫婦やまばやしふうふとむらふために、当分とうぶん犬江屋いぬえや逗留とうりゆうしてゐる。大塚おほつかへたつた三人さんにんは、あたりまへなら三四日さんよつかもしてかへつてるところを、幾日いくにちたつても姿すがたせない。丶大法師ちゆだいほうしはそろ/\心配しんぱいになつて、
「これにはなんぞわけがあるに相違そういない。自分じぶんもいつてたづねてよう」
といつて、たゞ一人ひとりかけてつた。それがまた幾日いくにちたつてもかへつてない。

122

犬江屋いぬえやでは、妙真みようしんまごまさしいてこの幾日いくにちかの出来事できごとおもかへしてゐる。照文てるぶみていつた四人よにんのことが心配しんぱいになつた。
「ことによつたら行徳ぎようとくかへつてゐるかもれない。そのほうつてさぐつてよう」
と、照文てるぶみもまたかけていつた。あとは妙真みようしんまさしだけになつた。

123

ゑんじゆ秋蝉あきぜみいて、油汗あぶらあせあつであつた。
「おふくろ。おうちかい」
といつてはひつてたのは、としころ五十位ごじゆうぐらゐまるはなおほきく、秋茄子あきなすのようなかほをした暴風あかしま舵九郎かぢくろうである。勝手かつてたかあぐらをかき、そば団扇うちわをわがものゝようなかほをしてげ、むねひらいてかぜれると、くまのようなはだがえる。
「おふくろ房八ふさはちどんはどうしたかの」
なにか、わけのありそうなもののいひようだ。
「お沼藺ぬゐさんも姿すがたせないし、それに近頃ちかごろは、幾人いくにんかお客人きやくじんえたぢやないか」
と、そろ/\厭味いやみをいひした。

124

舵九郎かぢくろうは、犬江屋いぬえや墓所ぼしよなにうづめたらしい様子ようすのあることまでをつてゐた。根掘ねほ葉掘はほりきく舵九郎かぢくろうを、よいかげんにいひくるめようとする妙真みようしん言葉ことばは、とかくみだれがちだ。
「いづれお役所やくしよへいつてはなせばわかることだ。信乃しのとやらのくびだといつて小文吾こぶんごつていつたくびは、こちらの山林やまばやしてゐるといふうわさもあるからの」
といつてあがりかける。妙真みようしんはこのまゝ舵九郎かぢくろうをやつてはたいへんだと、力限ちからかぎ舵九郎かぢくろう着物きものつかまへてゐるけれども、をんなちからかなしさ、次第しだいよわつてくばかりだ。

125

そこへ照文てるぶみが、行徳ぎようとく文五兵衛ぶんごべえをつれてかへつてた。わけはなにかわからぬが、妙真みようしん手向てむかひする荒男あらをとこであるからには、いづ悪者わるもの相違そういないと、舵九郎かぢくろううでり、柔道じゆうどうばすと、縁側えんがはからには真中まんなかまでんでつた。そばの羅漢杉こうやまきりすがつて、やつとあがつた舵九郎かぢくろうは、
「おのれ、てをれ。あとで返報へんぽうをするぞ」
といつてげていつた。

126

妙真みようしんにわけをくとたいへんである。「さういふことならばさずに引捕ひつとらへてくのだつたが」とおもつてももうおそい。信乃しの事件じけんをかぎつけられたからには、こゝにしのんでゐてもお役所やくしよ兵卒へいそつもなくおそうてるに相違そういないから、文五兵衛ぶんごべえ妙真みようしんも、一時いつときはやくこゝを退き、文五兵衛ぶんごべえ古那屋こなや跡始末あとしまつをして大塚おほつかつた四人よにんのあとをうし、照文てるぶみ妙真みようしんまさしをつれてひとまづ安全あんぜん安房あはけることにきめた。妙真みようしんおほいそぎでごしらへをした。そこへ三人さんにんふねおくつて江戸えどまでいつた下男げなん依助よりすけかへつてた。荷物にもつ依助よりすけひ、あとは留守居るすゐばあさん一人ひとりのこして、みんなはおほいそぎで犬江屋いぬえやかどた。

127

市川いちかはまちはなれ、田舎路ゐなかみち松並木まつなみきのところまでかけてると、むかうの松陰まつかげからぬつとたのは舵九郎かぢくろうである。には八九尺はつくしやくもある長擢ながかいち、すつかり喧嘩けんかのこしらへだ。
「わーつ」といつて、あつちからもこつちからも姿すがたあらはすのは、舵九郎かぢくろう子分こぶんたちだ。
「かうもあらうかとおもつてつてゐた。このおれににらまれては、あみにかゝつた旅烏たびがらす同然どうぜんだ」
といつて、どつとかゝつてる。

128

照文てるぶみかたないていつしよう懸命けんめいふせいだ。文五兵衛ぶんごべえまごまさし背負せおうてゐたけれども、女子供をんなこどもはあぶないからまさしをおろして妙真みようしんわたし、すこしうしろへかせ、これもかたないてんでいつた。依助よりすけおよばずながら、ふせいでゐる。あつちでもこつちでもはげしいひがはじまつた。依助よりすけ眉間みけんをものでたれて、つたふれた。

129

身方みかた小勢こぜいてき大勢おほぜいであるから、照文てるぶみ文五兵衛ぶんごべえまはつてゐるあひだに、まさしいた妙真みようしんだけがひとりになつた。そこへこつそり、うしろからしのんでたのは舵九郎かぢくろうである。親兵衛しんべえ諸共もろとも妙真みようしんをしつかりつかまへてはなさない。りほどかうにもちかららない。やにはに釵子かんざしをぬいて舵九郎かぢくろうに、ほねもとほれとつきてると、舵九郎かぢくろうはさすがにうでいたさに妙真みようしんばなした。妙真みようしんはそのひまにげかけたが、舵九郎かぢくろうつかけてて、まさし肩先かたさきをつかみ、えだるようにしてげた。まさしは、もう舵九郎かぢくろうわきにかゝへられてゐる。

130

照文てるぶみ文五兵衛ぶんごべえとは、妙真みようしん心配しんぱいなのでてきふせふせかへつてた。舵九郎かぢくろうは、おそろしいいきほひで身構みがまへてゐる。
貴様きさまたち二人ふたりまだなないか。一足ひとあしでもそばへよつてたら、このいし餓鬼がきころすぞ」
といつて、せつけない。二人ふたりもこれにはよわてた。すきをうかゞひ、じり/\とそばへよつて、一時ひとときちかゝらうとしたときに、舵九郎かぢくろうもまたつたいしひらめかし、まさしむねをめがけちつけようとすると、そのくるうて地上ちじようつた。またいしげてちおろさうとすると、今度こんどきゆうつよくしびれた。不思議ふしぎにもそのときそらより黒雲くろくもがおりてて、稲光いなびかりがし、かぜがさつとおこり、いしすなばしてあたりはものすごい様子ようすになつた。そのくも舵九郎かぢくろう姿すがたをつゝんだとに、まさしからだはそのくもつゝまれ、宙天ちゆうてんたかくあがつてしまつた。舵九郎かぢくろうはなほもをのばしてそれをおさへようとすると、何物なにものともなく舵九郎かぢくろうからだき、全身ぜんしんあけまつてたふれた。

131

照文てるぶみ文五兵衛ぶんごべえもしばらくは茫然ぼうぜんとしててゐたが、なほのこつた子分達こぶんたちかたなをふるつてるので、それをらし、もと場所ばしよへかへつてれば、かぜはもうをさまつて月影つきかげそらのこつてゐる。妙真みようしんまさしうしなひ、とほくなつてくさたふれてゐるのをたすおこした。まさしは、『じん』のたまつてゐるから舵九郎かぢくろうのようにころされたのではあるまい。これは神隠かみかくしといふものに相違そういない。さうなぐさめられて、妙真みようしんすこ元気げんきなほした。たふれてゐた依助よりすけうんよくたすかり、きてた。妙真みようしん依助よりすけたすけられてはじめきめてゐたごと安房あはちてくし、文五兵衛ぶんごべえはひとまづ行徳ぎようとくへかへつて、そこから三犬士さんけんしをさがしに大塚おほつかくことになつた。

132

    庚申塚こうしんづか四犬士しけんし

133

こゝは武蔵むさしくに豊島としま神宮河原かにはがはらである。信乃しの蟇六ひきろくらにあざむかれ、川狩かはがりをしてみづしづめられようとしたところだ。千住河せんじゆうがはさかのぼつていまいたふねなかからおりて三人さんにん武士風さむらひふうをとこがある。

134

きしには一人ひとり漁師りようしつてゐた。その武士風さむらひふうのもの、一人ひとりをいちはやつけて、
「あなたは大塚おほつか庄屋しようやさんの甥御をひごではございませんか」
こゑをかける。ばれたのは、犬塚信乃いぬつかしのである。信乃しのは、油断ゆだんのならない場所ばしよであるが、たところ悪者わるものらしくもないをとこだから、
「さうだ。わたし蟇六ひきろく親戚しんせきのものでござるが、さうはれるあなたはどなたでござるか」
かへすと、
「もうおわすれでございましたか。このあひだ川狩かはがりにふねをおししました船主ふなぬし●(「矛」+「昔」)平やすへいでございますよ。それにしてもあなたは今頃いまごろどこへつてござらつしやつたか。大塚おほつか騒動そうどうは、あなたまあたいへんでございますなあ」
といふ、信乃しのは、いつしよに現八げんぱち小文吾こぶんごともかほ見合みあはせ、自分じぶん下総しもふさつてゐて留守るすであつたことをかたり、大塚おほつか騒動そうどうとはなんであつたかと●(「矛」+「昔」)平やすへいにたづねる。●(「矛」+「昔」)平やすへい蟇六ひきろく一家いつかころされ、役人やくにんころされて、下男げなん額蔵がくぞういまとらへられ、昨今さつこんのうちに死刑しけいになるといふうはさのあることなどを、のこらずくはしくはなしてきかせた。感心かんしん出来できなかつた蟇六夫婦ひきろくふうふのことではあるが、自分じぶん叔父をぢ叔母をばであるから信乃しのもさすがにどくおもひをしたが、それよりも心配しんぱいなのは同志どうし額蔵がくぞうすなは犬川荘助いぬかはそうすけうへである。さては一刻いつこくもかうしてはゐられない。
「そんなことでございますから、旦那方だんながた大塚おほつかるのはおあぶなうございますよ。わたしむかしはさるお武家ぶけ御奉公ごほうこうをいたし、姨雪世四郎おばゆきよしろうまをしたものでございますが、をあやまつてかうして漁師りようしをやつてをります。わたしつてゐるをんな上野かうづけ荒芽山あらめやまふもとんでゐますから、旦那方だんながたはそちらへしのばせてはいかゞでございますか」
●(「矛」+「昔」)平やすへい親切しんせつだ。しかし信乃しのらは額蔵がくぞうをそのまゝにいて、しのばすことは出来できるものでない。三人さんにん相談そうだんをして、とにかくこれから大塚おほつか様子ようすさぐりにくことにした。●(「矛」+「昔」)平やすへいかへりには厄介やつかいになるから」といつて、いくらかのかねつゝんでやり、身支度みじたくをしてつた。

135

信乃しのらは、すぐには大塚おほつか近附ちかづくわけにいかない。おもしたのはたきがは弁才天べんざいてんである。三人さんにんはそこのてらへいつて住持じゆうじひ、「ある宿願しゆくがんがあり遠方えんぽうからまゐつたものであるから、七日間なぬかかんのおこもりをゆるしてもらひたい」とねがふと、住持じゆうじ心安こゝろやすゆるしてくれた。そこでまづ場所ばしよを、この弁才天べんざいてん岩窟堂いはやどうときめて、それからは毎夜まいよかはがはるに大塚おほつか様子ようすさぐりにかけた。

136

大塚おほつかへは二十町にじつちようほどはなれている。小文吾こぶんごは、そこへ途中とちゆう百姓家ひやくしようやに、王子権現おうじごんげん献上けんじようする竹槍たけやり弓矢ゆみやつてゐるのをつけて、それをつてかへつた。幾晩いくばんかの探偵たんていによつて、大塚おほつか蟇六ひきろくうち様子ようす役所やくしよ調しらべの様子ようすがすつかりわかつてた。

137

とらへられた額蔵がくぞうは、毎日まいにちのようにひどい拷問ごうもんにあつた。すべての事情じじようが、額蔵がくぞう有利ゆうりでない。役人やくにんは、ころされた簸上宮六ひかみきゆうろく同情どうじようしてゐるし、宮六きゆうろくいつしよにわるいことをやつてゐた五倍二ごばいじ庵八いほはち宮六きゆうろくおとうと社平しやへいなどいふのが、すべてのつみ額蔵がくぞうはせたから、円塚山まるづかやま浜路はまぢ左母二郎さもじろうをはじめおほくのひところしたもの、蟇六ひきろく一家いつか宮六等きゆうろくらころしたもの、みな額蔵がくぞうであるといふことにきめられてしまつた。額蔵がくぞうはきびしい拷問ごうもんのため、こゝろつかれてにそうになるが、それまでもくちみゝなかかくして大事だいじにしてゐた『ちゆう』のたましてからだをなでるに、苦痛くつうはなくなり心地こゝちもとのようになつた。

138

信乃しのらは、額蔵がくぞうがいよ/\七月二日しちがつふつかに、庚申塚こうしんづか刑場けいじよう磔刑はりつけになることをいてかへつた。それは七日間なぬかかんのおこもりが、今夜こんやをはらうといふときである。住持じゆうじつていろ/\とれいをいひ、おてらへをさめるかねなども丁寧ていねいおくつた。さていよ/\明日あしたのあけるのをつてゐる。

139

庚申塚こうしんづか刑場けいじようへは、うはさいてあたりの百姓ひやくしようたちが朝早あさはやくから見物けんぶつあつまつてた。たれもが蟇六ひきろく宮六きゆうろくのよい人間にんげんでなかつたことをつてゐるので、額蔵がくぞうつみをまこととおもはずかうして磔刑はりつけになることをどくがつてゐる。額蔵がくぞう刑場けいじよう真中まんなかへひきされて、たかあふちうへげられた。社平しやへいあにあだ五倍二ごばいじあるじあだをかへすといふので竹槍たけやりつて額蔵がくぞう左右さゆうわかれ、まづ双方そうほうからやりをつきして額蔵がくぞうまへ交叉こうさをする。すぐにやりいて左右さゆうより額蔵がくぞうにつきてようとしたときである。五十歩ごじつぽばかりへだたつたところにある東西とうざい稲塚いなづかかげから、鏑矢かぶらやおとがして一度いちど二本にほんんでる。それが五倍二ごばいじ社平しやへい肩先かたさきへあたつたからたまらない。「あつ」と一声いつせいやりしてたふれた。
「それつ曲者くせものがゐるぞ。のこらずからめれ」
といふ下知げちともに、兵卒へいそつどもは稲塚いなづかがけて突進とつしんするが、ばたりばたりと射倒いたふされてさすがに狼狽ろうばいした。「わーつ、わーつ」と一度いちど大騒動おほそうどうとなつた。見物けんぶつ百姓達ひやくしようたちも「わーつ」とこゑをあげて、まどうのである。そのうちに何人なにびとか、
てきは王子権現おうじごんげん奉納矢ほうのうやであるぞ、おそれるな。てき小人数こにんずそうがかりでかゝつてからめれ」
といふものがある。稲塚いなづか遠巻とほまきにして兵卒共へいそつどもがせまつてた。
本郡大塚ほんぐんおほつか住人じゆうにん犬塚信乃戌孝いぬつかしのもりたかこゝにある」
下総しもふさ滸我こが浪人ろうにん犬飼現八信道いぬかひげんぱちのぶみちをもつて助太刀すけだちをする」
といつて、稲塚いなづかかげからをど二勇士にゆうしは、竹槍たけやりをりゆう/\としごいて突進とつしんしてたが、そのやりいきほひのはげしさ、五人ごにん六人ろくにんせられてく。

140

宮六きゆうろく家来けらいであつた庵八いほはちは、この様子ようすて、なにはさておき額蔵がくぞうをかたづけてくが第一だいいちと、あふちほうはしつて、ちた竹槍たけやりげ、てようとすると、
犬塚いぬつか犬飼いぬかひ同盟どうめいとも犬田小文吾悌順いぬたこぶんごやすよりこゝにある。くびをわたせ」
といつて、竹槍たけやりはげしく庵八いほはちについてかゝつた。庵八いほはち兵卒へいそつどもととも太刀だちとなり、きずひ、げてく。このとき五倍二ごばいじ社平しやへいとはいききかへし、いづれもかたないて信乃しの現八げんぱちつてかゝれば、信乃しのは、伯母をばかたきおもつたか」
こゑをあげて、五倍二ごばいじについてかゝり、地上ちじようせた。現八げんぱちもたやすく社平しやへいをつきせた。そのあひだ信乃しの額蔵がくぞううへよりたすけおろし、なはき、社平しやへい両刀りようとうつてわたした。いま四犬士しけんしとなつての奮戦ふんせんである。庵八いほはち小文吾こぶんごやりせられた。

141

兵卒へいそつどもゝおそれをなして、もはや四犬士しけんしそばちかづかない。四犬士しけんしも、額蔵がくぞうさへうばればようはないのだから、
諸君しよくん、もはやげようではござらぬか」
といつて、一斉いつせいにさつとかはほういてつた。はや十町じつちようとほざかつたのである。そのとき大塚おほつかからは、鉄砲てつぽうつた新手あらて助勢じよせいて、信乃しのらのあとをうてはしつた。ちかづくまゝに筒先つゝさきそろへ、一斉射撃いつせいしやげきらうとすると、にはか夕立ゆふだちちがつてた。ぼんくつがへしたような大雨おほあめである。そのために火縄ひなはされ、鉄砲てつぽうようをなさない。

142

四犬士しけんしはそのあひだのがれ、戸田河とだがはまでけてたが、戦国時代せんごくじだいのことであるから、領主りようしゆ命令めいれい厳重げんじゆうで、このかはわたふね一艘いつそうえない。四犬士しけんしみちうしなつた。そのときふいに高蘆たかあしのかげより、うたをうたひながらきしほうふねせてるものゝ姿すがたえた。簑笠みのかさ姿すがたかためてゐるけれども、れば先程さきほどの●(「矛」+「昔」)平やすへいである。●(「矛」+「昔」)平やすへいさきほどからこゝに四犬士しけんしつてゐたのだ。

143

ふね四犬士しけんしると、●(「矛」+「昔」)平やすへいかいつてふねかは真中まんなかした。つかけて大塚おほつか軍兵ぐんぴよう大将たいしようは、宮六きゆうろくのあとをついで役人やくにんとなつた丁田町之進よぼろたまちのしんであるが、このをとこ宮六きゆうろくおなじく感心かんしん出来できをとこではなかつた。馬上ばじようからをして、
「そのふねかへせ。ものどもあのふねよ」
さけぶけれども、●(「矛」+「昔」)平やすへいなにきこえない様子ようすをして、悠々ゆう/\むこぎしいでくのである。むなしくかはなかちた。町之進まちのしん我慢がまん出来できない。うまをさつとかはなかをどらせ、
「ものどもつゞけ」
下知げちをして浅瀬あさせもとめ、士卒共しそつども六七十名ろくしちじゆうめいばかりひとかたまりになつてかはわたしてると、そのあひだ四犬士しけんしふねむこぎしいてしまつた。

144

矛」+「昔」平やすへいはかねて用意よういをしてゐたとえ、船底ふなぞこから弓箭ゆみやして町之進まちのしんた。はあやまたずちゝのあたりにつたけれども、よろひがよいとえ、うまからはちない。そのときふいに水中すいちゆうから、一人ひとりをとこうかた。熊手くまでつて町之進まちのしんつかけかはなかへのけざまにおとして、手早てばや腰刀こしがたなき、くびつた。その様子ようすは、あつぱれ勇士ゆうしである。さてその勇士ゆうし町之進まちのしんうまうばひ、ひらりとり、てき雑兵共ざうひようども熊手くまででなぎたふした。兵卒へいそつどもはおそれて、一度いちどもときしあがつた。

145

そのときまた蘆原あしはらのかげから一人ひとりをとこあらはれて、長柄ながえやりをしごき、刃先はさきするどく、きしへのぼつて兵卒共へいそつどもいてかゝつた。これもまた、馬上ばじよう勇士ゆうしおとらぬあつぱれの丈夫じようぶである。兵卒共へいそつどもくづされた。

146

この二人ふたり勇士ゆうしは、たれであるか。四犬士しけんしにもおもひあたるひとがない。顔見合かほみあはせて感嘆かんたんし●(「矛」+「昔」)平やすへいにたづねると、二勇士にゆうしは●(「矛」+「昔」)平やすへいをひ力二郎りきじろう尺八しやくはちといふものであつた。二人ふたりともつよ若者わかものであり、日頃ひごろ旧領主きゆうりようしゆ豊島殿としまどのほろぼされたことをなげいて、扇谷あふぎがやつの管領家かんりようけをにくんでゐる。大塚おほつか役所やくしよなどは、ものかずにもおもつてゐない。今日けふ(「矛」+「昔」)平やすへいは、この二人ふたり若者わかもの相談そうだんをしていて、四犬士しけんしのために助力じよりよくをしたのである。

147

四犬士しけんしは●(「矛」+「昔」)平やすへい同情どうじよう感謝かんしやをし、
しからばわれ/\もかへして、恩人おんじん二勇士にゆうしちからをあはせようではござらぬか」
といつて、またふねかへさうとすると、●(「矛」+「昔」)平やすへいめ、「それではわれ/\ども助勢じよせいになるから、四犬士しけんしには一刻いつこくはやくこの場所ばしよげ、上野かうずけ荒芽山あらめやまふもとちのびてもらひたい」といふのである。四犬士しけんしも、たつて●(「矛」+「昔」)平やすへい親切しんせつそむくことが出来できなくなつた。●(「矛」+「昔」)平やすへいいて手紙てがみ四犬士しけんしわたし、「これをその音音おとねいふ老女ろうじよわたしてもらへばわかる」といつて、いそがしくわかれをつげ、自分じぶんだけ一人ひとりふね河中かちゆうぎもどした。

148

さてながれのはやいところへたとおもふと、●(「矛」+「昔」)平やすへい四犬士しけんしこゑをかけ、
「かく殿原とのばら加勢かせいをし、大塚おほつか役所やくしよゆみいたからには、今更いまさら神宮河原かにはがはらへはかへられますまい。かねて覚悟かくごをきはめ、殿原とのばらのおやくつたからには、●(「矛」+「昔」)平やすへいいとまつかまつる」
といつて、船底ふなぞこせんき、ふねみづしづめるのである。四犬士しけんしが、
「しばらくて、●(「矛」+「昔」)平やすへいといつてゐるに、ふねみづしづみ、●(「矛」+「昔」)平やすへい白波しらなみ姿すがたうばはれた。夕闇ゆふやみ河上かはかみにせまつた。兵卒共へいそつどものあげるときこゑだけがきこえて、対岸たいがん勇士ゆうしたゝかひも、どうなつたものかわからない。しかし四犬士しけんしは、いまかはをわたすふねたないし、●(「矛」+「昔」)平やすへい遺言ゆいごんもあることだから、あとにこゝろのこるものゝ、河岸かはぎしからちあがつて、夕闇ゆふやみ彼方かなたちてつた。

149

    かたな浪人ろうにん

150

犬塚いぬつか犬川いぬかは犬飼いぬかひ犬田いぬた四犬士しけんしは、七月二日しちがつふつかやみなか上野かうづけ信濃しなの方角ほうがくさしてちていつた。やまなか幾里いくりとなくまよつてくうちに、ひがしそらしらんでた。あるたかやま半腹はんぷくであるが、そばやしろがあつて『雷電神社らいでんじんじや』といふがくがかゝつている。こゝは桶川をけがは東南とうなん雷電山らいでんざんであつて、したえるさと桶川をけがはであるに相違そういない。庚申塚こうしんづかつた夕立ゆふだちは、このかみのおかげかもれないと、四犬士しけんしれたやしろまへ平伏へいふくして柏手かしはでをうつた。

151

かぶいしうへこしをおろして四犬士しけんしは、たがひ今日けふまでの出来事できごとかたつた。信乃しのいておどろいたのは、なによりも円塚山まるづかやまにおける浜路はまぢ事情じじようである。犬山道節いぬやまどうせつといふ同志どうしのあることも四犬士しけんしにわかつた。額蔵がくぞう腰刀こしがたなして信乃しのしめした。
「これは昨日きのふ貴君きくん社平しやへい腰刀こしがたなつていそがしくわたしわたしてくださつた腰刀こしがたなでござるが、これは蟇六ひきろくどのが貴君きくんてといつてわたしたかたなである。犬塚家いぬつかけつたはる桐一文字きりいちもじ銘刀めいとう貴君きくん祖父そふ匠作殿しようさくどのより亀篠かめざさどのにおくつた先祖伝来せんぞでんらい銘刀めいとうであれば、貴君きくんがさしていたゞきたい。社平しやへいわたしとらはれたときこのかたなうばつてさしてゐたとえる」
といふのである。信乃しのは、
わたしには犬田氏いぬたうぢよりもらつたかたながござるから、幾口いくふりつのは無用むようでござる。しからば先祖伝来せんぞでんらいかたなわたしもらひ、犬田氏いぬたうぢより頂戴ちようだいしたこのふたふりのかたな貴君あなたしんぜるとしよう」
と、したかたな額蔵がくぞうり、
「これは不思議ふしぎなこと、このかたなわたしちゝ衛二則任えじのりたふ秘蔵ひぞう左文字さもじいま定紋じようもん雪篠ゆきざさつてござる。ちゝ切腹せつぷくのをりこのかたなもそのまゝうばはれたが、何人なんびとかのより犬田氏いぬたうぢつたはつたとえる」
と、その不思議ふしぎめぐあはせにおどろいた。犬田いぬたは、そのかたなをある商人しようにんよりつたはなしなどをした。犬田いぬた社平しやへいからうばつたもうひとふりのかたなつてゐた。額蔵がくぞうすであらためてゐたけれども、これまでは下男げなんであるゆゑそののることもなかつたが、最早もはやちゝ遺刀いとうにしたからには」といふので、今日けふからはつきりと犬川荘助義任いぬかはそうすけよしたふ名乗なのることになつた。

152

四犬士しけんしは●(「矛」+「昔」)平やすへい言葉ことばもあるので、ひとまづ手紙てがみをつけてよこした上野かうづけ荒芽山あらめやま音音おとねをたよつてくことになつた。別段べつだんいそぐたびでもないから、あちこちの名所めいしよ旧跡きゆうせきをさぐつてくうちに、今日けふ上野かうづけくに明巍山みようぎさんへさしかゝつた。やまうへには、やしろいくつもつてゐる。四犬士しけんしはそれを参拝さんぱいしてまはつた。中岳なかだけのあたりの茶店ちやみせこしをおろし、つかれたあしやすめてゐると、この茶店ちやみせにはには遠眼鏡とほめがねだいうへゑつけてあつて、おきやくしてせてゐるのを荘助そうすけつけた。荘助そうすけは、たはむれにその遠眼鏡とほめがねうごかし、いろ/\と近傍きんぼう景色けしきながめてゐた。
と、突然とつぜんこゑをあげて、
「や、おもはぬひと遠眼鏡とおめがねえた。たしかに犬山道節殿いぬやまどうせつどのおもはれるひとが、かさしたから本社ほんしやほうあふぎながら、そゝくさと総門そうもんそとあるいてられた。まだ一里いちりとははなれてゐまいが、諸君しよくんこれより犬山殿いぬやまどののあとをはうではござらぬか」
といふ。三犬士さんけんしもいそいで眼鏡めがねり、あちこちとさがすけれども、もはや姿すがたえてない。四犬士しけんしには、おもひあたることがあつた。練馬家ねりまけかたきとして犬山道節いぬやまどうせつがねらつてゐる扇谷管領あふぎがやつかんりよう定正さだまさは、近頃ちかごろはこのくに白井城しらゐじようんでゐる。犬山いぬやまはその定正さだまさをねらつて、この明魏みようぎ附近ふきんをさまよふものに相違そういない。四犬士しけんしおほいそぎで茶店ちやみせで、総門そうもんほうへおりてつた。 こちらは扇谷管領あふぎがやつかんりよう定正さだまさである。近頃ちかごろ山内顕定やまのうちあきさだなかわるく、鎌倉かまくら退いて上野かうづけ白井しらゐうつつたが、信濃しなの越後えちごまでを領地りようちとし、鎌倉かまくら山内やまのうちそなへてゐる。昨日きのふ定正さだまさ砥沢とざはやまくらをし、今日けふ白井しらゐしろげるのである。紋紗もんしやぎぬ黄金作こがねづくりの太刀たちこしよこたへて、奥州黒おうしうぐろたくましいうまつた様子ようすいさましい。兵卒共へいそつどもは、おほくの獲物えものをかついで前後ぜんごにつゞいた。

153

はや白井しらゐしろまでは二十町にじつちようほどしかないところの松並木まつなみきを、定正さだまさ一行いつこうとほつてゐた。るとみちに、一人ひとりたくましげな浪人ろうにんいしこしをかけてゐる。編笠あみがさふかくかぶり、かほはわからないが、ひざうへには一口ひとふり大刀だいとうてゝゐる。大声たいせいをあげて、
「このかたなふものはござらぬか。わが銘刀めいとう良将りようしようはござらぬか」
といふ。兵卒へいそつちかづいて、
無礼者ぶれいものかさをぬがぬか。管領殿かんりようどののおとほりであるぞ」
といひ、てようとするけれども、浪人ろうにんはたゞ声こゑをあげてわらひ、雑兵ざふひようどもを相手あひてにもしない。
「その方達ほうたちには主人しゆじん管領家かんりようけたつといからぬが、此方このほう主人しゆじんなにたぬ浪人ろうにん管領家かんりようけなにもござらぬわい。かたなふものがとくのある管領家かんりようけかたなはぬものがなんのありがたさか」
と、あたりかまはず大声おほごゑをあげる。そのとき定正さだまさちかづいて、馬上ばじようより、
さわがしい。十郎じゆうろうあれをしづめよ」
下知げちをする。近臣きんしん松枝十郎貞正まつえだじゆうろうさだまさである。貞正さだまさ浪人ろうにんまへへつか/\とよつて、
「いざ/\、御前ごぜんへまゐられい」
「おゝ」
といつて、浪人ろうにんかさ一間いつけんばかりうしろて、馬上ばじよう定正さだまさ真正面ましようめんからきつとた。かほしろ髭鬚ひげあをく、筋骨きんこつたくましくていかにも立派りつぱ武士ぶしだ。
それがしいへ重宝じゆうほう、わけあつて手放てばなさうとぞんずる。扇谷管領家あふぎがやつかんりようけは天下無双てんかぶそう名将めいしようくからに、遥々はる/゛\こゝまでつてまゐつた」
といつて貞正さだまさつめる。管領定正かんりようさだまさはそのいさましい様子ようす感心かんしんして、うまより床几しようぎてさせ、浪人ろうにん間近まぢかかにともなうてさせた。
太刀たちなにか」
ふと、
村正むらさめ銘刀めいとうでござる。まことかにせかこの太刀たち御覧ごらんあれ」
といつて、すらり銘刀めいとうさきからは、つゆしたゝつてはかまうへちる。まことにこれは天下てんか銘刀めいとうだ。定正さだまさ感心かんしんして、
かたな此方このほうせい」
といふ。浪人ろうにんいたかたなのまゝで定正さだまさちかづいた。定正さだまさ家来けらいめるけれども、浪人ろうにんれない。
「いや/\かまはぬぞ。そのまゝちかうまゐれ」
定正さだまさ鷹揚おうようゆるすと、浪人ろうにんはにつこりわらつて定正さだまさ床几しようぎちかづいた。ひざまづいてかたなたてまつるようなふうをしながら、いきなり定正さだまさ胸先むなさきつてたふし、切尖きつさききらりとさしつけた。
定正さだまさたしかにけ。なんぢほろぼされた練馬平左衛門尉ねりまへいざえもんのじよう倍盛ますもり家来けらい犬山道節忠与いぬやまどうせつたゞとも自分じぶんであるぞ。君父くんぷあだをかへすため、昨年さくねんよりの苦辛くしんのほどがいまむくいられて、あだをかへしまをす」

154

定正さだまさがはねかへさうとするところをおさへつけ、村雨むらさめ銘刀めいとうおろしたとおもふと、定正さだまさくび地上ちじようちた。

155

    犬山道節いぬやまどうせつ復讐ふくしゆう

156

おどろあきれた定正さだまさ近習きんじゆらが、それ/゛\かたないて道節どうせつをおつかこみ、兵卒へいそつらも遠巻とほまきにしてむかつた。道節どうせつ一度いちどげたくびて、やす/\と村雨むらさめまはして、軍勢ぐんぜいなかんでるが、この勇士ゆうしにあたるものはない。たちまくづされてさつといた。

157

そのとき木陰こかげから三十人さんじゆうにんばかりの兵卒へいそつひきゐ、手槍てやりそろへてつてたものがある。ひきゐるものはまだ若者わかもの二尺五六寸にしやくごろくすん黄金作こがねづくりの大刀だいとうよこたへ、ひんたか武士ぶしである。
「やあ、犬山道節いぬやまどうせつ、わが巨田持資入道道寛おほたもちすけにゆうどうどうかん長男ちようなん薪六郎助友しんろくろうすけともである。ちゝ道寛どうかんはかねてよりこのごと場合ばあひもあらうかと、策略さくりやくもちひ、越杉駄一郎遠安こしすぎだいちろうとほやすきみ定正さだまさ姿すがたにやつさしめた。今日けふなんぢたれたは、その忠臣ちゆうしん遠安とほやすであるぞ。さあこのわなにかゝつたからには、なんぢくびはこのもらはう」
といつてつてかゝる。道節どうせつは、定正さだまさらの策略さくりやくにかゝり、にせ定正さだまさつたけれども、これとてかたき片割かたわれである。てきくづして退かうとすると、前後左右ぜんごさゆうよりやりされた。とほくよりは弓箭ゆみや一隊いつたいが、道節どうせつ遠矢とほや射取いとらうとする。道節どうせつはだん/\難戦なんせんになつてた。

158

このとき四犬士しけんし茶店ちやみせからくだり、ふもとほう大騒動だいそうどうおこつてゐることをいた。「さては犬山いぬやま定正さだまさ軍勢ぐんぜいんだに相違そういない。これは助太刀すけだちしなければならない」と、なほもいそいでくだるに、前方ぜんぽうときこゑがあがつて、捕手とりて軍勢ぐんぜいけてた。四犬士しけんしつてゐるのをると、これも道節どうせつ身方みかたおもつたか、いきなり遠巻とほまきにして、射出いだやりそろへてちかゝつた。

159

四犬士しけんしも、いま十分じゆうぶん腕前うでまへをふるつてよいときである。すこしもさわがずそれ/゛\腰刀こしがたないて四方しほうんだ。すでれた。四犬士しけんしはたらきはさすがにいさましく、あるひすゝあるひ退しりぞたがひひに連絡れんらくつてたゝかつてはゐるものゝ次第しだい四人よにん別々べつ/\場所ばしよてきにあたつてゐる。みぎにもひだりにも手負ておひとにのひとかずした。

160

道節どうせつはいつのにかてきかこみのなかよりのがれてゐた。たゝかひは自分じぶんだけとおもつてゐたに、いつのにか幾箇所いくかしよかにはげしい太刀音たちおとおこつた。「さては道中どうちゆうひと兵卒へいそつかこまれたとえる。この人達ひとたちたすさなければならない」と、左手ひだりて大竹藪おほたけやぶなかくゞり、なはつてたけたけとをむすんだ。さてそのなははしくに、大竹藪おほたけやぶにはおほくの軍勢ぐんぜいひそんでゐるもののごとくにがさ/\とうごいた。そのひま道節どうせつは、てきおとしてつた弓箭ゆみやり、矢継やつばや射出いだすと、てきはばた/\とたふれた。さすがの巨田助友おほたすけともも、てき助勢じよせいがある」とおもつたので、ぐんまとめて退却たいきやくしていつた。

161

四犬士しけんしはそのあひだかこみからのがれた。「このひまに荒芽山あらめやまのがれよう」と、やみなかかくした。道節どうせついまようはない」と、籔蚊やぶかはらはら竹藪たけやぶなかからると、そこには立派りつぱ武士ぶし一人ひとりやりつて、道節どうせつつてゐる。
曲者くせもの
て。最前さいぜんからつてゐた。なんぢちゝ犬山監物入道いぬやまけんもつにゆうどうつたは、管領家かんりようけ勇士ゆうしきこえたこの竈門三宝平五行かまどさぼへいかずゆきなんぢくびもらけるぞ」
といつて、いてかゝつた。
ねがてきだ。定正さだまさたずとも、なんぢきあはうといままでとゞまつた。父入道ちゝにゆうどうかたき、さあ道節どうせつ太刀たちけてよ」
と、道節どうせつにはかちから太刀風たちかぜはげしく三宝平さぼへいりよせる。三宝平さぼへい勇士ゆうしではあるが、道節どうせつつよ復讐心ふくしゆうしん村雨むらさめ銘刀めいとうまへにはてきでない。すぐに太刀だちになつてやりおとされ、退しりぞいて太刀たちかうとするところを、道節どうせつ大上段だいじようだんかまへたかたな、「あつ」と一声いつせいちおろすと、三宝平さぼへいくびび、はる彼方かなたまつにあたつてちた。三宝平さぼへい家来けらいたちがひそかに木陰こかげから鉄砲てつぽうたうとするのをつけた道節どうせつは、手早てばや小石こいしひろつてげつければ、一人ひとりひたひを、一人ひとりほゝたれてたふれ、なほ一人ひとり鉄砲てつぽうたれてとした。あはてゝ取らうとするところを、飛鳥ひちようのようにちかづいた道節どうせつあしばしてたほせば、これもたまらずうしろへたふれる。道節どうせつはその鉄砲てつぽうげて、あたりの兵卒へいそつらす。まことにめづらしい勇士ゆうしはたらきだ。

162

道節どうせつにせ定正さだまさ左宝平さぼへいくびげて、すばやくものつゝみ、悠々ゆう/\としてがつた。

163

    へだてたてき

164

荒芽山あらめやまちかくである。田文たぶみ地蔵じぞうもりといふがある。地蔵じぞうどうのあたりには石塔せきとうがたくさんつてゐて、それらのあひだ近頃ちかごろつたらしい塔婆とうばひとえる。やみなかをすかしてなほよくれば、この塔婆とうばまへにひざまづき、くびふたつをそなへて、何事なにごとくちなかでいつてゐる武士ぶしがある。

165

そのときまた一人ひとり武士ぶしちかづいた。そのあとからは、老人ろうじんらしいひとが、これもしのしのびにやみをぬうてる。あとから武士ぶしは、塔婆とうばまへにうづくまつてゐる武士ぶしがつき、ふる塔婆とうばあひだからのばして、ならそなへてあるくびをしつかりつかみ、またれようとした。たちまががつしりとにぎられた。二人ふたりはしばらくもみあひだに、たがひにおとらぬ大力だいりきであるから、ふる塔婆とうばはぐわら/\とくずれて、やみなかはげしいもみあひがはじまつた。

166

老人ろうじん木陰こかげから様子ようすてゐたが、このひとこしふたつのくびれたつゝみをげてゐる。二人ふたり武士ぶしあらそ様子ようすかねたか、そこへしてて、二人ふたりあひだつゑれ、けようとほねつてゐる。その拍子ひようし武士ぶし老人ろうじんくびつゝみをおとした。あわてゝ身をかゞめ、さぐりでげたはよいが、武士ぶし老人ろうじんげたくびは、おたがひへつこになつてゐる。武士ぶし武士ぶしとがあはせたかたなが、さつといた拍子ひようしたふされた石塔せきとうかどつかると、ぱつと石火いしびつて、一人ひとり武士ぶしはその火花ひばなえるといつしよにやにはにかく火遁かとんじゆつ姿すがたはどこへかせた。いふまでもなく犬山道節いぬやまどうせつである。もう一人ひとり武士ぶしは、四犬士しけんし一人ひとり犬川荘助いぬかはそうすけすなはさきに円塚山まるづかやま道節どうせつかたなあはせた額蔵がくぞうであつた。荘助そうすけ老人ろうじんも、しのしのびにどこへかつた。

167

荒芽山あらめやまふもとんでゐる音音おとねといふ老婆ろうばは、もうとしころ五十ごじゆうぎてゐるだらう。このひとむかし練馬家ねりまけ老臣ろうしん犬山入道道策いぬやまにゆうどうどうさくつかへてゐて、おなじく使つかひをしてゐた姨雪世四郎おばゆきよしろうといふひとつまになり、力二郎りきじろう尺八しやくはちといふ二人ふたりんだが、世四郎よしろう行儀ぎようぎ出来できないひとであつたから、犬山いぬやまいへされてしまつた。音音おとねをつとのことをあきらめて、二人ふたり子供こどもには自分じぶんさとほう名字みようじをつけ、十条力二郎じゆうじようりきじろう十条尺八じゆうじようしやくはちばせてゐた。おな練馬ねりまいへ足軽あしがる気立きだてのよい姉妹きようだいむすめがあつたので、これをわがよめもらひ、あね曳手ひくて力二郎りきじろうよめいもうと単節ひとよ尺八しやくはちよめになつた。そのとき練馬家ねりまけ滅亡めつぼうである。音音おとね一家いつかもちり/゛\になつたが、音音おとねよめ曳手ひくて単節ひとよをつれて荒芽山あらめやまふもとのがれてたのだ。

168

犬山いぬやまいへからひまされた世四郎よしろうは、その老人ろうじんになつて、戸田河とだがはちかくの漁師りようしとなりも●(「矛」+「昔」)平やすへいあらためてゐる。音音おとねとはむかしわかれたきりで、なんのたよりをもしない。力二りきじ尺八しやくはちとは、主人しゆじんいへほろんでから●(「矛」+「昔」)平やすへいいへへはひりんでゐるが、その二人ふたり音音おとねいへへたよりをしない。かように一家いつか別々べつ/\らしてゐるけれども、そのじつ(「矛」+「昔」)平やすへいらも音音おとねらも、をりがあつたら主人しゆじんあだをかへさうと、別々べつ/\かんがへてゐたのだ。音音おとねいへへは犬山道節いぬやまどうせつのがれてて、白井しらゐしろてき管領定正かんりようさだまさをねらつてゐた。

169

今日けふ管領家かんりようけの、砥沢山とざはやまくらであつた。うまつものは、みなその為事しごとることをめいぜられた。をんなであつてもこのやくまぬがれることが出来できないので、音音おとねいへではあね曳手ひくて今朝けさからうまいてそのやくてゐた。ところがもうすつかりよるになつたけれど、曳手ひくてかへつて様子ようすがない。

170

音音おとね単節ひとよとは心配しんぱいになつて、わたしむかへにく」、「いやおまへではいけない」などといつて、あらそつてゐた。

171

そのときおもてひとつたおとがする。単節ひとよはやくもきつけて、あねかへつてたものとおもともにして、かどると、そこにはあねがゐないで、らぬ老人ろうじんつてゐる。なにやら布呂敷包ふろしきづゝみをかたにし、たけ子笠こがさにして、小腰こごしをかゞめ、
「わしはこのふもとにちよつとたづねるいへがあつてまゐつたものですが、途中とちゆう山賊さんぞくはれ、いきがきれてくるしいのです。みづいつぱいくださいませんか」
といふ。うちなか音音おとねはやつぱり曳手ひくてだとおもつてゐるから、かどて、
曳手ひくてや。さぞつかれたらうね。はよううまれてあしをおあらひや」
といひながら、単節ひとよつたともひかりでずつとそとやみすかすと、そこで老人ろうじんかほつかつた。老人ろうじん音音おとねたがひにぢつと、つめてゐた。
「やつ、おまへ音音おとねぢやあないかな。世四郎よしろうの●(「矛」+「昔」)平やすへいかへつてたのだよ」
といふのは、まぎれもない自分じぶんをつとである。それにしても、もうたよりをしなくなつてから、何十年なんじゆうねんたつたといふのだらうか。自分じぶんいへには近頃ちかごろ主人しゆじん道節どうせつとまつてゐるけれど、をつとはその犬山いぬやまいへ暇出ひまだされたまゝで、まだかへつてよいおゆるしがてゐないではないか。音音おとねなによりかより、かう老婆ろうばになるまでなが自分じぶんをほうつておいて、子供こどもやらなにやらの心配しんぱいすつかりをさせてゐたをつとうらみをいはなければならないのだつた。

172

音音おとねへだてのをぴしやりとしめた。よめ単節ひとよは、老人ろうじんをどうしてよいかわからない。はゝおこるのにも道理どうりがある。けれども世四郎よしろうは、なんといつてもをつとでありしうとではないか。そこには力二りきじもをれば尺八しやくはちもをるのだ。その尺八しやくはちどのはこのごろどうしてゐられるだらうか。
「なあ音音おとね。おまへがおこるのはもつともだ。このわしが今頃いまごろかへつてられるものぢやあないのだ。わしが主人しゆじんのことをかんがへてゐるなどといつても、おまへたちはほんとうにしてくれないだらう。だが、わしも若旦那わかだんなのことががかりでかへつてたのだ。子供達こどもたちのことについてもはなしたいことがある」
と、世四郎よしろうはくど/\外そとかたるけれども、音音おとねはそれに返事へんじもしない。子供達こどもたちのことは、きたくないのではない。犬山家いぬやまけのことについても、をつと相談そうだんしたいことはたくさんあるのだけれども、いまはこのまゝでをつとにあふわけにいかない。単節ひとよともをふつとし、はゝられないようにしてそとた。そして「この夜更よふけやみにどこへけるものでもないから」といつて、●(「矛」+「昔」)平やすへい柴小屋しばごやなか案内あんないし、そこでやすませることにした。●(「矛」+「昔」)平やすへいかたにしてゐたつゝみを単節ひとよわたすと、単節ひとよくびるわけもなく、こつそりとつてはひつて戸棚とだなかくし、そのまゝあねむかへにた。

173

曳手ひくてかへらず、単節ひとよむかへにると、あとには音音おとね一人ひとりのこつた。音音おとねさびしくをつとのこと、よめ姉妹きようだいのことなどをかんがへて、物思ものおもひにしづんでゐたが、またまどをたゝいてそとよりたづねてをとこがある。
突然とつぜんものをおたづねしますが、このへん音音おとねといふ御婦人ごふじんんでゐますまいか」
「その音音おとねはわたしでございますが」

174

なんぞてき間諜かんちようではないかと、音音おとね油断ゆだんせずそのをとこかほた。
「さようでござつたか。じつほか三人さんにん友人ゆうじんがあり、いつしよにたづねてまゐつたが、途中とちゆうみちまよひ、わかわかれになり、あなたへおとゞけする手紙てがみつてゐた友人ゆうじんはあとになりました。しばらくやすませてはいたゞけますまいか。わたし犬川荘助いぬかはそうすけといふものです」

175

れば立派りつぱ武士ぶしであり、悪者わるもののようにもえないが、油断ゆだんのならないこのごろである。かどをあけてなかれ、番茶ばんちやいつぱいんでし、
られるとほりの田舎ゐなかでございますから、なにとてまゐらせるものもございません。うちの人々ひと/\今朝けさてまだかへつてまゐりませねば、もの調とゝのへてまゐるにも留守るすをするひとのない始末しまつ、まことに失礼しつれいではございますが、しばら留守居るすゐをしてくださいませ」
犬川いぬかはたのんで、音音おとねそとつた。

176

犬川いぬかははあたりを見廻みまはすに、山陰やまかげの一軒家いつけんや人里ひとざととほはなれて、るからにれたいへなかである。まどからさつとかぜんで拍子ひようしに、ともはふつとされた。犬川いぬかはが「どこぞにはないか」とさぐさきには、茶椀ちやわんつむぐるまがぶつかるだけで、いへなか勝手かつてがわからない。そのときいきなりかどがあいて、
音音おとねゐないか。なんでともした。単節ひとよはゐないか」
無作法ぶさほうびながら、そのまゝはひりんでをとこがある。さぐさぐ持仏じぶつのあたりのやぶ戸棚とだなをあけ、なにやら荷物にもつをそのなかれた。さて犬川いぬかはのゐることにもがつかずに、囲炉裏ゐろりむかうへあぐらをかいてすわり、燧箱ひうちばこをさがしてゐる。それもつからないものだから、火箸ひばしをさがしてつてうもをかきおこし、そばくさをそのうへへのせた。

177

まどからさつとかぜ拍子ひようしに、くさ一時いちじあがつてへやなかあかるくなつた。
「や」
「や、や」
と、かたなるのがいつしよであつた。たがひに身構みがまへして、いまにもつてかゝらうと囲炉裏ゐろりなかににらみつけてゐる。犬川いぬかはこゑをかけた。
犬山道節氏いぬやまどうせつうぢ
拙者せつしや貴君きくんたれだ」
「まづ/\かたなかれい。貴君きくん拙者せつしやとは元々もと/\同盟どうめいまをしても貴君きくんおもあたるまいが丸塚山まるづかやまのあたりで村雨むらさめかたなりかへすため、貴君きくんたゝかつたものをおもおこされぬか。さあそのをとこが、この犬川荘助義任いぬかはそうすけよしたふまをすものでござる。貴君きくんはそのときかたこぶなかよりうつくしいたまたのを御承知ごしようちあるまいが、拙者せつしやつてゐたおなたま文字もじちがふが『』ののあるもの、それはまもぶくろのまゝ貴君あなたわたつた。また貴君きくんのいづこかには、牡丹ぼたんはなかたちをした黒痣くろあざがござらう。このたま、この黒痣くろあざ、このふたつが同盟どうめいしるしでござる。先程さきほど地蔵じぞうもり石塔せきとうのそばで、うでうでとをつた武士ぶし石塔せきとうにあたつた火花諸共ひばなもろとも、その姿すがたされたものも、円塚山まるづかやまでのくちおもあはせ、やつぱり貴君きくんでござらうがの」
「いかにも拙者せつしや貴君きくんまをされること、たままを黒痣くろあざまをし、一々いち/\そのとほり。しからばわれらはもとよりの同盟どうめいでござつたか」
「そのとほり、この同盟どうめいにはそのにも犬塚いぬづか犬飼いぬかひ犬田いぬた犬江いぬえ諸君しよくんがござる」

178

犬川いぬかは犬山いぬやま次第しだいけてた。二人ふたりたがひにこれまでのうへ犬士けんし人達ひとたち、この音音おとねうへやをかたり、今日けふあつた明巍みようぎふもとたゝかひをかたつて、たがいの不思議ふしぎめぐあはせにおどろいた。

179

音音おとねがそこへかへつてた。曳手ひくて単節ひとよはやつぱりつからなかつた。犬山いぬやま犬川いぬかは音音おとねあはせる。音音おとねをつとの●(「矛」+「昔」)平やすへい戸田河とだがはたゝかひでふねともしづんだことをいた。「さてはさきほどたづねてたのは、そのをつと亡魂ぼうこんであつたらうか。あのときあつかひは」と、まないこゝろいつぱいになり、持仏じぶつあかりをつけたりする。犬山いぬやま犬川いぬかはは、三犬士さんけんしのことががかりであるから」といつて、それをさがしにそとた。

180

ちがひに門口かどぐちへたづねてたのは、村長そんちよう根五平ねごへいと、きこり丁六ちようろく、●(「禺」+「頁」)介ぐすけであつた。犬山道節いぬやまどうせつがおかみたづものになつてゐること、つけたものはすぐにうつたへないと厳罰げんばつのあること、うつたへたものに褒美ほうびのあることなど、お役所やくしよのお布令ふれげにたものであつた。

181

    音音おとね茅屋あばらや

182

音音おとねはその人達ひとたちかへつたあと、あぶないところであつた」と、いきをついた。それにしてもこのあとどうして主人しゆじんらをかくまつてかうか。にはかうますゞおときこえてる。曳手ひくてうまだ。音音おとね門口かどぐちへかけしてれば、曳手ひくてうまをひいて、うまうへにはからだつかれたらしい二人ふたり旅人たびゞとをのせ、単節ひとよはその旅人たびゞと荷物にもつつてつてゐた。「このお布令ふれのやかましいときに、なんで旅人たびゞとなどをせてたか」と音音おとねがとがめると、曳手ひくて今日けふふもとさわぎでうまをやることも出来できこまつてゐたときに、この旅人たびゞとて、ひとをかき案内あんないしてくれたのでやつとそののがることが出来できたが、さてのがたところで旅人たびゞと二人ふたり急病きゆうびようおこし、つてあるかれなくなつたので、おんある旅人たびゞとでもあり、そのまゝ馬うませてかへつてたのだといふ。

183

旅人たびゞと二人ふたり曳手ひくて単節ひとよあしあらはれ、まどしたつてゐた。音音おとねはそのかほをつく/゛\とながめておどろいた。
力二りきじ尺八しやくはちではないかのう」
「やあ、母御はゝごでしたか。最前さいぜんよりこゑきながら、しわがれたこゑ母御はゝごともわからず、失礼しつれいまをしましたがおゆるください」
と、見返みかへかほはもはや力二りきじ尺八しやくはちにまぎれもなかつた。それにしても曳手ひくて単節ひとよいままで自分じぶんらのをつと見分みわなかつたのは、何故なにゆゑだらうか。さうだ、いまればすつかり力二りきじ尺八しやくはちではないか。なつかしいなのだ。をつとなのだ。しばらくは親子おやこで、言葉ことばもなかつた。曳手ひくて単節ひとよは、しきりなみだをぬぐうた。音音おとねよめたちのこれまでの苦心くしんはなしてきかせる。曳手ひくてしばりくべ、ちやあたゝめてすゝめたりすると、単節ひとよ縁側えんがはいてあつたたび荷物にもつつてたりした。
はなしられてお前達まへたち病気びようきのこともわすれてゐたが、容体ようたいはどんな工合ぐあひかな」
「なんでもないのです。このあひだ戦争せんそうで、私達わたしたちからだすこ手傷てきずひましたが、なが道中どうちゆうすこしいそいでまゐつたゝめ、そのきずいたしたのです。母御はゝごにおにかゝつたよろこびがなによりのくすりで、そのいたみももうなくなりましたよ」
といつて、戸田河とだがはたゝかひのはなしをした。二人は●(「矛」+「昔」)平やすへい苦心くしんをもくはしくはなしてかせた。●(「矛」+「昔」)平やすへい主家しゆけあだをかへすことにほねつてゐたこと、勇士ゆうし四犬士しけんし音音おとねのもとへおくつて犬山いぬやまへの加勢かせいたのまうとしたこと、そのために戸田河とだがはではげしいたゝかひをしたこと、自分達じぶんたち大将たいしよう丁田よぼろだつたが、鉄砲てつぽうつた軍勢ぐんぜいてられ、それ/゛\におもきずうたのでいまはこれまで」とかはおよいでむかぎしわたり、はる/゛\道中どうちゆうをしてこゝまでたづねてたことなどをかたつた。

184

そのはなしをしてくうちに、力二りきじ尺八しやくはちはなんとなくくるしそうになつた。どこかしよんぼりとつかれたようすである。顔色かほいろもわるい。
「お前達まへたち顔色かほいろわるいのう。やつぱり養生ようじようしなければいけませんぞへ。手柄てがらばかりをいそいでも、まことに忠義ちゆうぎではございません」
といふと、力二りきじ尺八しやくはちは、
母御はゝご御恩ごおんはいつになつてもわすれませんが、いま戦国せんごく、このくらゐの手傷てきずこもることも出来できますまい。私共わたしども兄弟きようだいは、このあかつき出発しゆつぱつして、鎌倉かまくらかうとおもふのです。けば、いつかへるともわからないうへ、まづこれがおわかれでございませうが、母御はゝごのことは曳手ひくて単節ひとよよろしくたのみますぞ」
心細こゝろぼそいことをいふ。曳手ひくて単節ひとよは、いてゐる。音音おとねはなほも力二りきじ尺八しやくはちをなだめた。それにしてもをつとの●(「矛」+「昔」)平やすへいふねともしづめたのであるか。あれほど乱暴らんぼう亡魂ぼうこんかへすのではなかつた。力二りきじ尺八しやくはちにそのことをいふと、二人ふたりしきりに●(「矛」+「昔」)平やすへいめて、さびしいいきをついてゐた。

185

単節ひとよはそれをくと、自分じぶんがこつそりと●(「矛」+「昔」)平やすへい柴置しばお小屋ごや案内あんないしていたことが、ゆめなかのようにおもされる。あれは●(「矛」+「昔」)平やすへい亡魂ぼうこんであつたのだらうか。それにしても不思議ふしぎなことだ。いや、あれはほんとうの●(「矛」+「昔」)平やすへい単節ひとよは、そのことをかくさず、はゝ力二りきじらにかたつて、「わたしが柴小屋しばごやへいつてさがしてまゐりませう」といふと、尺八しやくはちきゆうしとゞめて、
いま柴小屋しばごやつてたところで、なんにならう。父御てゝごはもうそこにはおでゞない」
といふ。曳手ひくておもひついて、
「では、父御てゝごつてかへられたつゝみといふをしてては」
といふと、力二りきじ尺八しやくはちはそれをもとどめた。かうまで二人ふたりがとめるのは、なぜであらう。つゝみだけはしててもよいではないか。音音おとねはさうおもつて、単節ひとよたせた。力二りきじ尺八しやくはちは、もうひてしとゞめようとしない。単節ひとよたなをあけて、つゝみをさがすに、つゝみはそのまゝ残のこつてゐた。それならばやはり●(「矛」+「昔」)平やすへい亡魂ぼうこんでなかつたのか。

186

曳手ひくて手伝てつだつてつゝみをいてるに、なかよりは生新なまあたらしいをとこくびふたつがた。「あつ」とこゑをあげ、三人さんにんおもはずいて、力二りきじ尺八しやくはちかへれば、これはまた不思議ふしぎのことではないか。いままでこしをおろしてゐた力二りきじ尺八しやくはちはどこへつたか、その姿すがたえてゐる。三人さんにんかさなる不思議ふしぎに、なほもよくくび調しらべてるけれど、いづれも見知みしらぬをとこくびだ。あかつきちかかねおときこえてた。
音音おとね、そのくびはなしはわしがしよう」
といつてはひつて来たのは、●(「矛」+「昔」)平やすへいである。●(「矛」+「昔」)平やすへいは、かはしづんだひとではないか。さてはまた亡魂ぼうこんであるか。あるひはこのへんきつねたぬき姿すがたをかへてたのであるか。三人さんにんはさうおもつて油断ゆだんをせずにゐると、●(「矛」+「昔」)平やすへい「このくびにはすこしくわけがある。けれどもわしのつてくびはこれでなかつたはずだ。このほかにまだつゝみがあらうから、たなをよくさがしてくれい」
といふ。単節ひとよ不審ふしんおもひ、最前さいぜんたなさがすけれども、ほかにはなにあたらない。あるひはしまひ場所ばしよ間違まちがつたのであらうか」と、夜具やぐれるやぶ戸棚とだななかさがすと、そこにもひとつのつゝみがあつた。
「さうだ、さうだ。このつゝみだ。なかひらいて、みんなでてくれい」
と●(「矛」+「昔」)平やすへいなかからあらはれたのは、まがふかたもない力二りきじ尺八しやくはちくびであつた。

187

それならば力二りきじ尺八しやくはちとは、すでにこのにないひとであつたか。いままでこゝにゐた二人ふたり姿すがたは、どうなつたのであらう。あるひはやはり●(「矛」+「昔」)平やすへい亡魂ぼうこんであるだろうか。曳手ひくて単節ひとよは、力二りきじ尺八しやくはちくびて、きゆうつちあなおとされたような心地こゝちがした。

188

(「矛」+「昔」)平やすへい戸田河とだがはたゝかひのおこるまでのはなしをした。力二りきじ尺八しやくはち相談そうだんをして四犬士しけんし音音おとねのところへおくるために、決死けつしたゝかひをしたはなしをした。それはさきにゐた力二りきじ尺八しやくはちはなしたとほりである。自分じぶん敵地てきちにあるいへかへることが出来できないから、ふねしづみづおぼれてなうとしたが、およぎの出来できみづうへうかるばかりで、どうしてもぬことが出来できない。そのときてき鉄砲てつぽうして、力二りきじ尺八しやくはちうへ弾丸たま雨霰あめあられそゝいだのだ。いかに二人ふたりつよくとも、この道具どうぐにはかなはない。ちすくめられ、ニ人ふたり無残むざんにもにした。さて大塚おほつか軍勢ぐんぜいは、二人ふたりくびつてかへり、信乃しの額蔵がくぞうくびだといつて庚申塚こうしんづかあふちけた。●(「矛」+「昔」)平やすへいはそのうわさいて、よる庚申塚こうしんづかしのんでき、くびりおろし、ものつゝんでげて、こゝ荒芽山あらめやままでたのである。さきほどたづねてたといふ力二りきじ尺八しやくはちは、そのちゝうて亡魂ぼうこんであつたらう。それにしても二人ふたりくびほかに、もうふたべつくびのあるのは何故なにゆゑであらうか。

189

はつきりと事柄ことがらがわかつた。いまいままで音音おとねをつとなれ、力二りきじ尺八しやくはちつたとおもつてゐたのに、事柄ことがらはすつかりそれの反対はんたいであつたのだ。それにしても、二人ふたり亡魂ぼうこんつて荷物にもつはなんであつたらうか。「せめてもそれを」と、単節ひとよつてひらいてると、なかからは二人ふたりてゐたよろひ小手こてて、鉄砲てつぽう弾丸たまなゝとほまつて、二人ふたりたゝかひのはげしさを物語ものがたるものであつた。

190

(「矛」+「昔」)平やすへい犬士けんしたちをさがしにかなければならない。すべてはそのうへのことだ。さうおもつて縁側えんがは障子しようじをかけたとき障子しようじはばたりとたふれて、んで三人さんにん曲者くせもの
「ゆうべから、あやしいとにらんでゐたこのいへかへるとせかけしのんでゐたともらずに、はなしたことはみないた。さあ道節どうせつ一類いちるいなはけい」

191

さういつたのは村長そんちよう根五平ねごへいである。うしろには丁六ちようろく、●(「禺」+「頁」)ぐすけがついてゐる。

192

音音おとねはうしろへひいて懐剣かいけんつた。●(「矛」+「昔」)平やすへいおどろくようすもない。
「こゝらのきこりにこの●(「矛」+「昔」)平やすへいられるとおもふか。つてい」
といつてはなつた仕込しこづゑ左右さゆうからつてかゝる丁六ちようろく、●(「禺」+「頁」)介ぐすけをのしたをくゞり、丁六ちようろく脇腹わきはらをさつとつた。●(「禺」+「頁」)介ぐすけおどろいて、部屋へやおくまうとすると、音音おとね懐剣かいけんがいきなりかたした。根五平ねごへいは「もうかなはぬ」と、おもてし、はや庭口にはぐちそとた。●(「矛」+「昔」)平やすへい音音おとねは、血刀ちがたなげてつかけたが、根五平ねごへいはしるのがはやく、かたなはそこまでとゞかない。
そのとき
「おうつ」
といふこゑがして、うなりをてた手裏剣しゆりけんがどこからかんだとおもふと、根五平ねごへいはばつさりまへのめりにたふれた。

193

ふすまけてしづかにたのは主人しゆじん犬山道節いぬやまどうせつである。いつのにこゝへかへつててゐたのであらうか。音音おとね曳手ひくて単節ひとよとは、そのまゝ前まへ平伏へいふくし、●(「矛」+「昔」)平やすへい縁側えんがはのこつちの障子しようじのあたりにをついてゐる。
「やあ世四郎よしろう、おまへひとりなんでそこにはなれてゐるか。四犬士しけんしへの助太刀すけだち力二りきじ尺八しやくはちはたらき、のこらずいてわしは世四郎よしろう感謝かんしやしてゐるぞ。おまへかへつてまへごと音音おとね夫婦ふうふになり、わしをたすけてくれよ。力二りきじ尺八しやくはち亡魂ぼうこんは、音音おとねにそのことをげにたものであらう。曳手ひくて単節ひとよかなしみはいまのわしにもなぐさめる言葉ことばもない。力二りきじ尺八しやくはちかはつて、世四郎よしろう夫婦ふうふとも/゛\これまでのごとくわしをたすけてくれよ」
と、犬山いぬやまはしみ/゛\と世四郎よしろう一家いつかなぐさめるのである。そこへ犬塚いぬづか犬川いぬかは犬飼いぬかひ犬田いぬた四犬士しけんし姿すがたあらはした。

194

さてかように五犬士ごけんし世四郎よしろう一家いつかそろつたうへは、この場所ばしよながくとゞまることは危険きけんである。最前さいぜんきこりらのような間牒かんちようが、どこかにかくれて様子ようすてゐるかもれない。定正さだまさ軍勢ぐんぜいせてまへに、一刻いつこくはやくこゝをげるのがよいさくであらう。そこで、犬山いぬやまつて贋定正にせさだまさ竈門かまど三寳平さぼへいくびにはけ、一同いちどう支度したくりかかつた。犬田小文吾いぬたこぶんご犬飼いぬかひ犬塚いぬつか二犬士にけんし大塚おほつかおくつてかへるつもりなのがこんなにおくれたのだから、ひとまづ行徳ぎようとくかへることゝし、姨雪世四郎おばゆきよしろう一家いつかをそこへつれてく。犬塚いぬつか犬飼いぬかひ犬山いぬやま犬川いぬかは四犬士しけんしはまだこれといふあてがないから、安房あはきみつかへるまへに、犬士けんしさがして全国ぜんこくまはることにした。

195

かように支度したくをしてゐるところへ、あたりのやまにこだまがして、まはりにおこつたときこゑはいふまでもなく上杉勢うへすぎぜいめてたのだ。この大軍たいぐんめられては、山中やまなかのこの茅屋あばらやも、もみつぶされてしまふであらう。五犬士ごけんしはうろたへた様子ようすもなく、悠々ゆう/\としててきちかづくのをつてゐる。姨雪夫婦おばゆきふうふはその様子ようすて、「この場所ばしよひとまづ自分じぶん夫婦ふうふふせぐから、犬士けんし人々ひと/゛\のがれてもらひたい」といつてれない。そこで犬田いぬたはこのたゝかひにはかまはずに、曳手ひくて単節ひとようませて退くし、このには姨雪夫婦おばゆきふうふこもつててきをあびせつゝふせいでをり、四犬士しけんしひとまづうしろのやま退いてゐて、とき左右さゆうよりてきつてかゝる。防戦ぼうせんはずはかようにきまつた。

196

五犬士ごけんしつたあとの、姨雪夫婦おばゆきふうふはたらきはざましい。茅屋あばらやにはもうまはつた。このいへかこんでせる上杉勢うへすぎぜいかずは、どのくらゐであらうか。やまうへにもすきなく軍勢ぐんぜいめのぼつた。五犬士ごけんしがいかほどよく奮戦ふんせんしても、この大軍たいぐんをどうすることが出来できよう。各所かくしよりあひがはじまつて、五犬士ごけんしたがひ姿すがた見失みうしなつた。

197

    嵐山あらしやま名笛めいてき

198

犬田いぬたてきながくもたゝかはず、よい加減かげんらしてはやま彼方かなたちてく。かれ姨雪夫婦おばゆきふうふ曳手ひくて単節ひとよおとさせなければならぬ大事だいじ任務にんむつてゐるのだ。二人ふたり姉妹きようだいを、うまよりおとされないようにくらうへにしつかりとしばりつけた。ほどよい樹立こだちまで退いたときに、姨雪おばゆきいへかこまれたとえ、ものすごい火焔かえんそらへあがつてえる。そしてこの火事かじやまうへつて、あつちにもこつちにもはげしいおと山火事やまかじおこしてゐる。さては姨雪夫婦おばゆきふうふあやふい。犬田いぬた姉妹きようだい合乗あひのりしたうま樹立こだちのなか一本いつぽんへしつかりとつなぎとめ、自分じぶんひとりかへつて姨雪夫婦おばゆきふうふたすさうとした。けれども一面いちめん山火事やまかじで、もはや姨雪おばゆき小屋こやちかづけそうにない。れば姉妹きようだいいて樹立こだちにもうつつて、そこでも火事かじおこはじめてゐる。このまゝならば姉妹きようだいあやふいと、おほいそぎで樹立こだちのほうかへした。

199

このときうまくるうて、つないだまはりを幾度いくどびまはり、一層いつそうからはなれられないようになつてゐた。雑兵ぞうひようどもはそれをて、りにしよう」とけてる。犬田いぬたつて、その雑兵ぞうひようたふした。雑兵ぞうひよう一人ひとり犬田いぬたろうとしたかたなあまりが、うま手綱たづなをきりはなすと、うま姉妹きようだいせたまゝ飛んでつた。犬田いぬたはそのあとをうてけてく。荒芽山あらめやまふもとには、このたゝかひのあひだにうまいことをしようとする野武士のぶしたちがせをしてゐたが、姉妹きようだいうまてそれをおさへようとし、たちま三四人さんよにん蹴倒けたふされた。そのとき一人ひとり野武士のぶし鉄砲てつぽうしてうまはらけば、うま一度いちど四足しそくつてたふれたが、ふいに黒雲くろくもおこつてそのうまうへりてたとおもふと、うまはむつくりあがつて、りゆうのようないきほひでんでく。地上ちじよう空中くうちゆうか、そのいきほひはにもとまらぬようだ。犬田いぬたにその姿すがた見失みうしなつてしまつた。

200

犬田いぬたてきかこみのなかからのがてゐた。そのへんには軍勢ぐんぜいらしいものゝかげえず、田舎ゐなかやまがもうそろ/\秋あきむかしづかな姿すがたをしてゐた。四犬士しけんし姨雪夫婦おばゆきふうふはどうしたか。それはまだよいとして、自分じぶんにまかされた曳手ひくて単節ひとよ姿すがた見失みうしなつては、犬士けんしたちにもはすかほのないがした。この田舎ゐなかさと三四日さんよつかあるいたのちのあるのことであつた。犬田いぬた武蔵むさし浅草寺あさくさでらちか高屋たかや阿佐谷あさがや村間むらあはひ田圃たんぼのあたりをとほつて、手負ておじゝおそはれたが、すこしもおどろかずれい大力だいりきしてちのめし、地上ちじようにたゝきせてしまつた。なほくと、そこに猟師りようしがたふれてゐる。たすおこしていろ/\と介抱かいほうしてれば、それはさきのゐのしゝかれたのであつた。かれは鴎尻かもめじり並四郎なみしろうといふものであるが、日頃ひごろこのゐのしゝ田圃たんぼらすので、それをころ村長そんちよう褒美金ほうびきんもらはうとおもつたのである。並四郎なみしろう犬田いぬたしきりねがつて自分じぶんいへとまつてもらふことにした。並四郎なみいろういへには、船虫ふなむしといふつまつている。犬田いぬた一足ひとあしさきに並四郎なみしろういへにいつて船虫ふなむしむかへられるし、並四郎なみしろうゐのしゝ始末しまつをし、村長そんちよういへつてかへるのである。

201

犬田いぬた夕食ゆふしよくをたべながら並四郎なみしろうつてゐた。船虫ふなむしといふつまは、三十さんじゆううへむつなゝつはてゐるであらうか。猟師りようしつまらしくもなく、綺麗きれい着物きものなどをてゐる。主人しゆじんはいつになつてもかへつてはないが、犬田いぬた船虫ふなむしのすゝめるまゝにさき座敷ざしきへはひり、蚊帳かやつてもらつて、ひさりでびとた。

202

夜更よふごろである。そとにはむしこゑがやかましくないてゐる。かけた布団ふとんが、もううすさむかんじられるころである。犬田いぬたがさめて同志どうしたちのことなどかんがへてゐると、ぐちのわきのかべおほきなくづれがあつて、最前さいぜんはそこへてゝあつたのに、いまられ、何人なんびとかそこにひとのゐるようなけはひがかんじられる。
「さては盗賊とうぞくだな」
犬田いぬたはすぐにづいたから、蒲団ふとんなかへは荷物にもつみ、自分じぶんはそつとして、袋戸棚ふくろとだなそばかべせてゐた。盗賊とうぞくかべのくづれからしのみ、布団ふとんなかひと寝息ねいきをうかゞひ、蚊帳かや四方しほうおとして、布団ふとんうへまたがり、「やつ」とかたなてた。犬田いぬたはすかさずをどりかゝり、するどげると、もろくも盗賊とうぞくくびはばたりとちた。
盗賊とうぞくちとめた。はやあかりをつてられい」
こゑをかけるが、船虫ふなむしはなか/\ない。やつとつて行燈あんどんをさしつけてれば、盗賊とうぞく並四郎なみしろうであつた。

203

船虫ふなむしはさめ/゛\といてゐる。自分じぶんいへむかし村長そんちようであつたこと、この並四郎なみしろうといふをとこ婿むこにしたゝめいへすつかりが貧乏びんぼうになつたこと、貧乏びんぼうくるしみ恩人おんじん犬田いぬたをさへたうとしたとえるが、とこよりぬけたことを自分じぶんらなかつたことなどをかたつて、しみ/゛\とごとをいつた。そして犬田いぬたにこのまゝ事柄ことがらおだやかにかくしてくことをたのみ、自分じぶんはこれよりおてらつてるから、かへるまで留守居るすゐをしてゐてほしいといひ、なほ納戸なんどほうへいつて、古金欄こきんらんふくろれた尺八しやくはちつて
朝早あさはやく、おちになるならば、なんといつておれい出来できませんが、これは先祖せんぞよりつたはつた名笛めいてきでござれば、これなりともおをさくださいませ」
と、しきりねがふのである。

204

船虫ふなむしがおてらつたあとで、犬田いぬたはいろ/\とあたりの様子ようするが、たゞの猟師りようしいへとは見受みうけられない。尺八しやくはちとてあやしいものであるから、そのまゝ袋戸棚ふくろとだななかへかへしてき、まきえさしを一本いつぽんつて荷物にもつなかれ、尺八しやくはちのような格好かつこうせてつてゐた。船虫ふなむしかへつてると、多少たしようかねをやり、朝飯あさめしをもたべないでそのまゝいへた。

205

まだあさはやかつた。牛島うしじまわたしへかうといそぐ途中とちゆうで、あたらしい草鞋わらぢ端緒はなをがきれたから、それをなほさうとかゞんだ拍子ひようしに、
御用ごようだ」
といつて、うしろからつたものがある。さつとりほどかうとするところを、右左みぎひだりから何十人なんじゆうにんかのかたみついてて、犬田いぬたが、人違ひとちがひだ、はなせ」といふこゑみゝさず、とう/\せてなはつた。

206

犬田いぬたはそのまゝ役所やくしよへひかれた。役所やくしよでは畑上語路五郎はたがみごろごろうといふひと調しらやくであつた。ここの領主りようしゆ千葉家ちばけではかつて嵐山あらしやまといふ名笛めいてきうしなつたが、船虫ふなむしうつたへによれば犬田いぬたがそれをつてゐて、昨夜さくや並四郎なみしろうせたのである。並四郎なみしろう嵐山あらしやまつてそのことをいふと、犬田いぬた並四郎なみしろうさけませ、うたところをつてころした。つま船虫ふなむしはおてらくといつはつて、そのことをうつたたのだ。──語路五郎ごろご ろうはさういつて、犬田いぬた調しらべた。犬田いぬたにはすつかりの事柄ことがらがわかつた。そしてほんとうの事柄ことがら役人やくにんげその証拠しようこをいろいろとまをべたので、役人やくにんひとをやり船虫ふなむしいへ調しらべさすと、犬田いぬたのいつたことには間違まちがひがない。船虫ふなむしはそばにいてゐたが、もはやかくてをすることも出来できないので、
をつとかたき
といつて、用意ようい魚切うをき庖丁ぼうちよう犬田いぬたびかゝると、犬田いぬたはやけて、しばられながらも船虫ふなむし足蹴あしげにした。船虫ふなむし兵卒共へいそつども厳重げんじゆうしばられて、村長そんちよういへおくられ、犬田いぬたなはかれた。犬田いぬた嵐山あらしやま名笛めいてきかへしてくれた。当家とうけ恩人おんじんであつたのだ。

207

語路五郎ごろごろう裁判さいばんをしてゐる場所ばしよを、にはかとほぎたのは、領主りようしゆの千葉介自胤ちばのすけよりたねであつた。語路五郎ごろごろうが、嵐山あらしやま名笛めいてきかへしたこと、犬田いぬたがそのぞくころしたことなどをまをげると、自胤よりたね感心かんしんして、犬田いぬたをわがいへかゝへたいものとおもつた。
馬加大記まくはりだいきにこのことをらせ、よろしいようにするがよい」

208

さうねんごろにいつて、自胤よりたね嵐山あらしやま尺八しやくはちにしながらあがつた。かれは今日けふこの地方ちほう小鳥狩ことりがりにたのである。

209

    馬加大記まくはりだいき

210

馬加大記常武まとはりだいきつねたけは、千葉介自胤ちばのすけよりたね長臣ちようしんである。常武つねたけこゝろきよくなく、をりもあらば主家しゆけ乗取のつとらうとしてゐることは、こゝろある人々ひと/゛\づかれてゐるけれども、その威勢いせいをおそれてたれもこれに歯向はむかはうとしない。犬田いぬた行徳ぎようとくかへることもならず、この常武つねたけなどとかゝりあひになつて、しばらくはこの逗留とうりゆうしなければならぬことになつた。

211

語路五郎ごろごろう常武つねたけのところへ兵卒へいそつをやつて、嵐山あらしやまのこと、船虫ふなむしのこと、犬田いぬたのことなど報告ほうこくすると、常武つねたけ返事へんじをして、犬田いぬた語路五郎ごろごろうともなつて常武つねたけのもとへまゐれ、船虫ふなむし村長そんちようらにあづけて厳重げんじゆうばんをさせてけ」といふことである。語路五郎ごろごろうはいはれたようにして常武つねたけまへると、常武つねたけこゑをあらゝげ、犬田いぬた村長そんちようにあづけよ、船虫ふなむしともなつてまゐれ」といひつけたはずだといつてしかりつけ、嵐山あらしやま名笛めいてきをすぐに自胤よりたね献上けんじようしたことをもがましいといつてしかばした。

212

語路五郎ごろごろう大急おほいそぎでかへつて、船虫ふなむしともなつてようとすると、その留守るすあひだたいへんなことがおこつた。すでけてゐたが、語路五郎ごろごろう使つかひだといつて村長そんちようのところへたものがある。いますぐ船虫ふなむしをつれてまゐれ」といふのである。百姓達ひやくしようたちにいひつけて船虫ふなむしをしつかりばんをさせつゝよるみちあるいてくに、もり木陰こかげから鉄砲てつぽうつた一隊いつたいて、船虫ふなむしうばひ、どこかへつたのだ。語路五郎ごろごろうかへつててこのことをき、おどろいて常武つねたけのもとへかへし、そのことをまをげると、常武つねたけ家来けらいはすぐに語路五郎ごろごろうとらへてろうなかれた。百姓達ひやくしようたちとらへられた。このろうなかで、のち語路五郎ごろごろう病死びようしした。

213

犬田いぬた自胤よりたね城中じようちゆうともなはれてつたが、それから城外じようがいることをゆるされない。ある馬加常武まくはりつねたけばれてそのまへると、常武つねたけあたまげず傲慢ごうまんすわつてゐて犬田いぬた見下みくだし、
自分じぶん犬田いぬたかへそうとおもつてゐるが、殿との自胤よりたねゆるさない」などといつて、犬田いぬたとなりくに領主達りようしゆたち間牒かんちようでないことがしつかりとわかるまでは、常武つねたけいへはな座敷ざしきまつてもらはねばならぬ」などと、親切しんせつのような、またまことは人質ひとじちられたような言葉ことばわたされたのである。

214

犬田いぬたはそれから、常武つねたけいへはな座敷ざしきうつつた。あきれ、ふゆぎて、もうぎのとしはるになつたが、常武つねたけ犬田いぬたかへさうとはいはぬのだ。犬田いぬたとしては、こんな迷惑めいわくなことはない。朝晩あさばんたれたづねてるでもなかつた。たゞ品七しなしちといふ老人ろうじん下男げなんだけが、度々たび/\には掃除そうじて、くさりながらはなしをしていつた。おちやなどして品七しなしち懇意こんいになつてくうちに、品七しなしち犬田いぬたにはけ、ある、ふとしたことから馬加常武まくはりつねたけがこれまでして悪事あくじのこりなく犬田いぬたかせたのである。

215

そのはなしは、かうであつた。 ──領主りようしゆ自胤よりたねは、 あに実胤さねたね からいへゆづられたのである。粟飯原胤度あひばらたねのり籠山逸東太縁連こみやまいつとうだよりつらといふ二人ふたり老臣ろうしんがゐて、あらたに家来けらいとしてかゝへられた馬加常武まくはりつねたけなどはなんの勢力せいりよくをもつてゐなかつた。縁連よりつらはまだわかく、かんがへもあさいからおそれるにらないが、胤度たねのり常武つねたけにとつて邪魔じやまものである。常武つねたけは、日頃ひごろこの二人ふたりをないものにしようと工夫くふうしてゐた。あに実胤さねたね石浜いしはましろにをり、おとうと自胤よりたね赤塚あかつかしろにゐて、そのあに石浜殿いしはまどの隠居いんきよをしようとするときのことである。千葉家ちばけは、滸我殿こがどのとも仲直なかなほりをしようとしてゐた。

216

ある馬加大記まくはりだいきは、石浜殿いしはまどの使つかひだといつて赤塚あかつか粟飯原胤度あひばらたねのりをたづね、重宝じゆうほう嵐山あらしやま名笛めいてきして、千葉家ちばけ滸我殿こがどの仲直なかなほりするが、すべてに都合つごうよい。それにはこの嵐山あらしやま重宝じゆうほうおくらうとおもふ。しかしすぐに隠居いんきよするあにおくるよりは、これから領主りようしゆになるはずのおとうとからおくほうがよい。さういつて実胤さねたねがこのふえわたしてくれた」といふのである。胤度たねのりはその好意こうい感謝かんしやして、このことを殿とのまをげると、殿とのもまたあにこゝろづかひに感謝かんしやした。そこで粟飯原あひばら使つかひになつて、この名笛めいてきほか小篠こざさ銘刀めいとう二口ふたふりをもつて、滸我殿こがどのくことになつた。

217

粟飯原あひばら十人じゆうにんばかりの手勢てぜいひきゐ、滸我こがけてつたあとへは、馬加常武まくはりつねたけ赤塚殿あかつかどのへお目見めみえをした。自胤よりたね馬加まくはり今度こんど骨折ほねをりについてれいなどいふと、馬加まくはり不審ふしんそうなかほをして、「その粟飯原あひばらはなしはすつかりうそである。粟飯原あひばらは、あのふえたいとの自胤殿よりたねどののお言葉ことばであるといふから、ふえはたゞ貸したのだ。粟飯原あひばらはかねてから滸我殿こがどの相談そうだんをし謀反むほんくはだてゝゐるといふうはさがあるから、さてはそのふえあざむいて土産みやげつてくものとえる」といふのだ。殿との自胤よりたねもこれにはこまつた。さつそく馬加まくはり相談そうだんをして、籠山逸東太こみやまいつどうだ兵卒へいそつをつけてやり、粟飯原あひばらつかけさせることとした。

218

籠山こみやま軍勢ぐんぜいは、もなく粟飯原あひばらひついた。きみ命令めいれいで、「またしろかへつてまゐれ」といふことである。粟飯原あひばらおどろいてうまかへすと、籠山こみやま軍勢ぐんぜいにはか粟飯原あひばらかこんでちかゝつた。粟飯原あひばらはふいをたれて、ひとたまりもなくせられ、くびられた。その手勢てぜいのものと籠山こみやま軍勢ぐんぜいとがあらそうてゐるあひだに、木陰こかげから男女だんじよ曲者くせものて、嵐山あらしやま尺八しやくはち銘刀めいとうとをつてげてつた。籠山こみやまおどろいてそれをつかけようとしたが、およばない。さて粟飯原あひばらつたところで、自分じぶんはせつかくの尺八しやくはち銘刀めいとうとをうしなつたから、このまゝかへれば自分じぶんもまたばつせられるのである。籠山こみやまはまだわかく一人者ひとりものであつたから、そのよりすぐにげてしまつた。

219

かうなると、千葉家ちばけからは一時いちじ二人ふたり長臣ちようしん姿すがたしたのである。それよりのちは、馬加まくはりは、おもふがまゝに立身りつしんした。どくなのは、粟飯原あひばらいへであつた。馬加まくはり復讐ふくしゆうおそれて、粟飯原あひばら家族かぞくのすべてをころした。たゞ一人ひとりをんなゆるされたものがあつたが、もなく足柄あしがら犬坂いぬざか粟飯原あひばらんだといふことであつた。それをいた馬加まくはりはすぐにひとをやつてこのころさうとしたけれど、そのときはゝもどこへかげたあとであつた。嵐山あらしやま銘刀めいとうとをつてげたものがたれであるかも、いまとなればわかるし、またそれをつてげさせたものがたれであるかも、大抵たいていはわかることだ。このあひだ船虫ふなむし途中とちゆううばつたものも、かんがへてればあてのつくことであらう。

220

品七しなしちはさうかたつたあとで、かへつていつた。犬田いぬたいておどろくことだらけである。これはよほど要心ようじんをしなければならぬとかんがへた。品七しなしちはそのぎのからなかつた。それとなくひとたづねると、ふいに病気びようきになつていてんだといふことであつた。

221

    対牛楼たいぎゆうろう女田楽をんなでんがく

222

馬加まくはりは、犬田いぬた自分じぶん秘密ひみつ品七しなしちからいたうへは、犬田いぬたをもおなじく毒殺どくさつしなければならぬとかんがへてゐた。それからのことである。犬田いぬた食事しよくじごとにはらがいたくなつた。品七しなしちからづいてゐたので、犬田いぬたはすぐにれいたまし、くちふくんでどくした。馬加まくはりは、犬田いぬたなゝいのを不思議ふしぎおもつてゐる。「さてはなにじゆつ使つかひとであるかもれない」とかんがへたので、このうへ犬田いぬたをも自分じぶん身方みかたくはへる工夫くふうをしようとおもつた。

223

そのとき鎌倉かまくらから城下じようか女田楽をんなでんがくくみた。いづれもうつくしいをんなであり、田楽でんがく面白おもしろふといつて評判ひようばんである。田楽でんがくといふのは、いま曲芸きよくげいのようなこともやれば、ひをもふそのころげいである。馬加まくはりは、自分じぶんいへ酒盛さかもりをひらき、そこへこの女田楽をんなでんがくをもまねいて、おきやくには犬田いぬたばうとおもひついた。さてある犬田いぬたのところへは馬加まくはり使つかひがて、立派りつぱ着物きものはかまおくり、この酒盛さかもりへの案内あんないをのべた。「さてはなに計略けいりやくがあるのだろう」とはおもつたが、犬田いぬたもそれをことわるわけにはいかない。おれいをいつて着物きものをそれにあらため、使つかひのひとについてくと、にはからいしをたくさんにわたり、もんをくゞりなが廊下ろうかとほりなどして、馬加まくはりのゐる広座敷ひろざしきた。

224

犬田いぬた姿すがたると、馬加まくはりつて出迎でむかへた。今日けふ犬田いぬたつて、おきやくせきゑるのである。馬加まくはりそばには、つまむすめらがならんでゐて、田楽でんがくひをつてゐる。馬加まくはり犬田いぬた一々いち/\自分じぶん家族かぞくあはせた。ぎのには馬加まくはり四天王してんのうやそのほか近臣きんしんたちがすわつてゐて、これも先程さきほどから酒盛さかもりをしてゐたとえる。馬加まくはり四天王してんのうらにいひつけると、みなどや/\とあつまつてて、犬田いぬた武勇ぶゆうめなどしながら、あちこちからさかづきをさした。すべてが今日けふは、無礼講ぶれいこうであるとえる。

225

べつにかねて支度したくをしてあつたとえ、女田楽をんなでんがくむすめたちがはひつてると、さけをのんでゐるをとこたちは一斉いつせいにそのほうそゝいだ。つゞみつもの、ふえくものなどの四五人しごにんうつくしい着物きものて、まづ縁側えんがはのところにならあたまげる。そのあとから、十八じゆうはちばかりになつたかとおもはれるうつくしいをんな一人ひとりしづかにあるいてて、部屋へやなかつた。これは近頃ちかごろ有名ゆうめい旦開野あさけのといふ女田楽をんなでんがくである。つゞみふえあはせて、んだこゑうたひながらしたときには、部屋へやあかるくなつたようだ。馬加まくはり家族かぞく家来けらいたちは、たゞそのうつくしさにはされてゐる。ひがをはると、女田楽をんなでんがくらはおれいものなどもらひ、廊下ろうかつたうてつた。

226

犬田いぬた馬加まくはりれいをのべ、そのへんできりげてかへらうとすると、馬加まくはりは「この対牛楼たいぎゆうろう楼上ろうじようより、このへん景色けしきもらひたい」といふのである。ひがしそらあかるくなりかけてゐた。たか楼上ろうじようへのぼつてると、馬加まくはりおも存分ぞんぶん贅沢ぜいたくさでてたいへであるから、墨田河すみだがはへだてゝとほ海辺うみべほうをまで見渡みわた景色けしきは、なんともいへず立派りつぱである。そこからは犬田いぬた郷里きようり行徳ぎようとくえるのだ。馬加まくはり突然とつぜん犬田いぬたむかひ、かねてのたくらみをはなして犬田いぬたにもくははつてもらふようにたのんだ。馬加まくはりのいふところでは、自胤よりたねおろかな領主りようしゆであるから、犬田いぬたうたがつてかへさないくらゐだ。馬加まくはりおほくの人々ひと/゛\相談そうだんをし、かねてよりこの自胤よりたねはららせ、自分じぶん常尚つねひさ城主じようしゆにしようとくはだてゝゐる。馬加まくはりは、犬田いぬたのような武勇ぶゆうがこの同盟どうめいくははつてくれるならば、どんなにありがたいかれない」といつた。犬田いぬたはもちろんそんな同盟どうめいくははるはずもなく、馬加まくはり熟々つく/゛\と、さうしたくはだてのわるいことをいさめると、馬加まくはりおもかへしたようにきゆうこゑをあげてわらひ、「いやいまのは冗談じようだんである。貴君きくんためしたのだ」といふようなことをいつて、はなしをそらした。

227

犬田いぬたは、自分じぶんはな座敷ざしきかへつてあらはうとおもひ、手水鉢ちようずばちそばると、かけひみづなか一枚いちまいおほきないてゐて、そのうらうたがかいてある。うたのわけははつきりとわからないが、犬田いぬたはそのときわすれてゐたさきかんざしのことをおもした。馬加まくはり対牛楼たいぎゆうろうようとさそつてくれてあがつた拍子ひようしに、自分じぶんかたなもゝはなかんざしがしつかりとはさまつてゐたのにがついた。それはたしかにさつきつてゐた旦開野あさけののさしてゐたかんざしであるが、たれづかないに、どうしてこゝにおとしてつたのであらうか。犬田いぬたはそれを女中じよちゆうわたして、旦開野あさけのかへさせた。うたをかいたこのも、旦開野あさけのがした仕業しわざではないか。馬加まくはりは、あのをんな使つかつてなに自分じぶん策略さくりやくかんがへてゐるのではあるまいか。これは一層いつそう油断ゆだんがならないと、犬田いぬたかんがへたのである。

228

五月ごがつ中旬ちゆうじゆんになつた。たえず五月雨さみだれに、担端のきばながれる小川をがはみづかさもしてた。犬田いぬたよひからうたゝねをして、まだ縁側えんがは雨戸あまどかずにゐると、めづらしく今日けふつき障子しようじあかるくなつてゐるところへ、ちらりとひとかげがさした。油断ゆだんをした」と、むつくりあがつた拍子ひようしに、そとでは「あつ」といふこゑがして、人一人ひとひとりどうとたふれた様子ようすである。かたなげ、おほいそぎでにはりてれば、そこには一人ひとり曲者くせものかたなつたまゝ仰向あふむけにたふれてゐる。そばつてるに、それはこのあひだつた馬加まくはり四天王してんのう一人ひとりである。そしてくびのあたりにがひどくながれてゐるのをすかしてると、もゝはなかんざしくび真後まうしろから咽喉のどのところまで、じつ見事みごととほしてゐるのだ。さては旦開野あさけのがしたのだ。旦開野あさけの女田楽をんなでんがくであり、かたなや●(「掬」のテヘンの代りに「毛」ヘン)まり曲芸きよくげい綱渡つなわたりなどをするから、自然しぜんにかうした手裏剣しゆりけんもうまいのだらう。そんなことをかんがへてゐると、また築垣ついがきそとからにはまつうへにのぼり、する/\とつたはつてこつちのにはびおりてるものがある。曲者くせものほゝかぶりをして、はな座敷ざしき障子しようじをかけ、うち様子ようすうかゞ様子ようすだ。犬田いぬたかたないてうしろから、
て。曲者くせもの
といつてぱつとりかけると、曲者くせものはすばやくびのいて、
「おください。犬田いぬたさま。わたくしでございます」
といふこゑをんなである。旦開野あさけのであつたのだ。犬田いぬたは、さつき曲者くせものかんざしでしとめてもらつたことのおれいをいひ、その腕並うでなみ立派りつぱさをめそやした。をんなは、かへつてづかしさうに、かほをそむける。
犬田いぬたさま。あなたはこのあぶない場所ばしよから、なぜはやくおげになりませぬか」
「いやのがたくないではござらぬが、よる城門じようもんこと出入でいりの調しらべがきびしいとまをすではござらぬか」
「わたくしは馬加殿まくはりどのにとゞめられてゐるこの幾日いくにちかのあひだに、しろなかのことのこらずさぐつてきました。城門じようもんには、ひるひるよるよる出入でいふだがござります。あすの、わたくしがその出入でいふだつてまゐりますほどに、犬田いぬたさま、このあやふい場所ばしよをおにげくださりませ。あすのよるかならあさまでにはつてまゐりますれば、そのお支度したくあそばしてゐてくださりませ」
といふのである。犬田いぬたはこの為事しごとが、をんな旦開野あさけのにどんなにあやふい為事しごとであるかをかんがへていろ/\ととめるけれどもれない。をんなかた約束やくそくをして、また軽々かる/゛\をどらせ、築垣ついがきからまつつたうて、そとにはへおりていつた。

229

ぎのよるになつた。馬加まくはり四天王してんのう一人ひとりたれたことだから、いづれは今宵こよひあたり軍勢ぐんぜいをもつてせるであらう。それにしてもあのかよわい旦開野あさけのが、をんなうで出入でいふだつてるか。犬田いぬた不安ふあんではあるが、いづれにせよはや身拵みごしらへしてかなければならない。犬田いぬたはすつかり支度したくをし、かたなつて縁側えんがはつてゐると、よるははや大分更だいぶんふけてた。そのとききゆう母屋おもやほう騒々そう/゛\しいこゑがあがつた。犬田いぬたはもどかしくおもひながらみゝをすましてゐると、あたりはまたもとのしづけさにかへつてしまつた。旦開野あさけのはやつぱり姿すがたせない。

230

さては旦開野あさけのに、可愛かわいそうなめをせたことか。犬田いぬた目頭めがしらあつくなるがした。そのときふいに築垣ついがきそとまつつたつて、まへばんのようにすら/\とにはりて曲者くせものがある。
旦開野あさけのどのか」
犬田氏いぬたうぢ御約束おやくそく出入でいふだつてまゐつた」
まぎれもない旦開野あさけのである。ながかみはうしろにみだれ、うつくしい着物きものまつて、右手みぎてにぎらりとひかかたないてゐる。
犬田氏いぬたうぢわたしをんなではござらぬ。馬加常武まくはりつねたけにたばかられて、ちゝたれ一家いつか一族いちぞくはみなごろしにせられた、粟飯原胤度あひばらたねのり一子いつし犬坂毛野胤智いぬざかけのたねともといふものでござる。わがはゝ調布たつくりまをしたが、あやふ馬加まくはりやいばのがれて、足柄郡あしがらごほり犬坂いぬざかさとでわがみ、ひとにはをんなまをして毛野けのんでゐた。はゝ鎌倉かまくら女田楽をんなでんがく仲間なかまやとはれたが、わが子供こどもときより田楽でんがく曲芸きよくげいならひ、旦開野あさけのばれて諸方しよほうまはりつゝも、日夜にちやおこたらぬ武芸ぶげい鍛錬たんれん、それはひたすらちゝあだをむくいるためでござつた」
しからば貴君きくんは、今夜こんやその目的もくてきたされたのでござるか」
「いかにも。馬加まくはり悪智慧わるぢゑも、この旦開野あさけの見破みやぶることは出来できますまい。今夜こんや対牛楼たいぎゆうろう酒盛さかもりに一家いつか一族いちぞくひたふれ、うたゝねするをうかゞつて、しのつたこの犬坂毛野いぬざかけのつてつてりまくり、常武親子つねたけおやこはもちろんのことゝして、一族いちぞく家来けらいのこらずをせ、対牛楼たいぎゆうろううみにいたした。わが一門いちもんあだをむくいて、犬坂いぬさか今夜こんやほどよろこばしいときはござらぬ。犬田殿いぬたどの出入でいふだまをしたはこのくびのことでござる」
といつて地上ちじようしたのは、馬加まくはりくびである。
「それは大慶至極たいけいしごくぞんずる。して貴君きくん手傷てきずは」
すこしも。かように血潮ちしほをあびても、犬坂毛野いぬさかけのかすりきずひとまをさぬ。はなしはゆる/\のちのことゝして、犬田氏いぬたうぢ支度したく十分じゆうぶんでござるか。城兵じようへいらにめられるも不本意ふほんいはやくこなたへまゐりたまへ」

231

毛野けのかみをきり/\とき、馬加まくはりくびこしむすびつけて、また築垣ついがきりこえ、むかうからもんをあけてくれる。毛野けのがかねて勝手かつてをさぐつてあるから、馬加まくはり屋敷やしきをもやすやすとた。からひがし土手どてところまではしつてて、そこの樹立こだちからしたおろせばしたふかほりになつてゐて、はゞ四丈よじようあまりもあらうか。それをえて工夫くふうはない。

232

犬田いぬたがいら/\してゐると、毛野けのすこしもうろたへずに、こしにつけた用意ようい鈎索かぎなはした。なははしにはおも鉄丸てつだまがついてゐる。毛野けのはその鉄丸てつだまのないはしをこちらのまつむすびつけ、たまにぎつてぱつとほりむかきしげたとおもふと、そのなははしむかぎしやなぎきついた。そこに一本いつぽんなはわたされたのだ。毛野けのはそのうへあしをかけ、すら/\となはうへあるいてむかぎしき、なははしをなほ丈夫じようぶやなぎむすびつけていてまたすら/\とかへしてた。今度こんどからだおほきい犬田いぬた背中せなかうてなはうへり、またすら/\とむかぎしわたつた。さすがに田楽でんがくできたへたはなわざである。

233

犬田いぬたはたゞ感嘆かんたんしてゐるあひだに、毛野けのいきひとつはずませないで、かたなきそのなは水中すいちゆうすててる。ひがしははやすこしらんでた。平野へいやとほくつゞいてえる。このをかはしればすぐにてきひつめられるであらう。犬田いぬた犬坂いぬさかとは、ひとまづ墨田河すみだがはわたらうと相談そうだんして、かはのそばまでるに、五月雨さみだれのあとでみづかさがし、ながれがはやくなつてゐるところへ、船一艘ふねいつそうつないでない。しろからは、けたゝましい太鼓たいこおときこしたのは、きゆう軍勢ぐんぜいをあつめるであらう。

234

そのとき一艘いつそう柴船しばふねが、こちらのきしちかくだつてた。犬田いぬた犬坂いぬさかとはこゑをあげてびとめるけれども、船頭せんどうかしらつていでくのである。毛野けのはそれでも一町いちちようばかりふね沿うてくだつたが、船頭せんどうはかへつてあざわらうて、ふねかは真中まんなかへつきさうとする様子ようすだ。毛野けのはひらりときしからんだ。れい田楽でんがく早業はやわざははやふねなかにある。船頭せんどうやぐらげてこちちへかへさうとするけれども、みづながれがはやくておもふようにいかない。そのときまた一艘いつそう柴船しばふねりてた。犬田いぬたこゑをかけるが、これもこちらへちかづかうとはしない。犬田いぬた水練すいれん達者たつしやであるから、両肌りようはだはけぬぎ、かたなはさしたまゝで、水中すいちゆうへざんぶとんだ。またゝく柴船しばふねおよぎつき、みついて船頭せんどうおさへつけておどろいた。
依助よりすけぢやあないか」
「あつ、古那屋こなや若旦那わかだんなですかい」
依助よりすけ、すぐにあのふねつてくれろ」

235

依助よりすけは、さきに三犬士さんけんし大塚おほつかおくるため、江戸えどまでいでいつてくれた犬江屋いぬえや船頭せんどうである。依助よりすけいつしよう懸命けんめいふねいだけれども、さきくだつた毛野けのふねはもうずつと下流かりゆうながれてつたとえて、そのへんかげかたちもない。犬田いぬた品川沖しながはおきえるあたりまで、つかけさせたが、やつぱり毛野けのふねえなかつた。

236

犬田いぬたいつたん市川いちかは犬江屋いぬえやかへつた。そこで留守中るすちゆうおこつたいろ/\の出来事できごといた。妙真みようしんもゐない。まさしもゐない。ちゝ文五兵衛ぶんごべえは、病死びようししてゐた。

237

    庚申山こうしんざんにすむ魔物まもの

238

下野しもつけくに真壁郡まかべごほり網苧あしをといふところがある。もうあきすゑであつた。はまだたかいが、みちばたのくさのざはつくおとにも山間やまあひらしいさびしさがある。

239

さとのはづれに一軒いつけん茶店ちやみせがあつて、檐端のきばには草鞋わらぢあひだ一挺いつちよう鉄砲てつぽう六七張ろくしちちよう半弓はんきゆうならべてかけてある。そこの床几しようぎこしをおろして、ちやみながら茶店ちやみせのおやぢはなしをしてゐるのは、犬飼現八信道いぬかひげんぱちのぶみちであつた。犬飼いぬかひ荒芽山あらめやまたゝかひで同志どうし犬士けんしわかれ、それからは犬士けんしたちをさがすために行徳ぎようとく市川いちかはつたり、とほ京都きようとまでのぼつてそこにんだりしてゐて、二年にねん年月としつきがたつた。今度こんど奥州路おうしゆうじをさがしてようとおもつて、この網苧あしをまであるいてたのだ。

240

茶店ちやみせ主人しゆじんはなすところによると、これから五六里ごろくり庚申山こうしんざんふもとむかうへしてしまふまでは人家じんかすくなく、山賊さんぞくなどがて、真昼まひるでも武器ぶき用意よういしなければならない。鉄砲てつぽうつて道案内みちあんないひと先方せんぽうまでおくつてくれるのが三百文さんびやくもん弓矢ゆみやふのもおな直段ねだんになる。
「いやわしに道案内みちあんないはいらない。わしはこの年頃としごろ美濃みの信濃しなの山路やまぢ幾度いくどとなくあるいてゐるが、案内あんないやとはず、弓矢ゆみやたない。それで山賊さんぞくにもあはず猛獣もうじゆうにもあはない」と犬飼いぬかひがいふと、老人ろうじんは「いやこの庚申山こうしんざんにはおそろしい魔物まものんでゐる」といつてめづらしいはなしをきかせた。

241

庚申山こうしんざんは、のぼりりのけはしいたうげ幾度いくどえたところで、山中さんちゆう第一だいゝち石門いしもんたつする。これを胎内竇たいないくゞりんでゐる。これよりおくにはおくいんがあるけれども、魔物まものんでゐるから、ひとはめつたにすゝめない。何百年なんびやくねんとし山猫やまねこだといふことであるが、そのほかにもいろいろの魔物まものむのだ。このやまふもと赤岩あかいはといふむらがあつて、そこに赤岩一角武遠あかいはいつかくたけとほといふ武士ぶしみ、このあたりに名高なだか武芸ぶげい達人たつじんであつた。庚申山こうしんざんおくいんまうでないのは残念ざんねんだといふので、あるとき弟子達でしたちつよいもの幾人いくにんかをつれてやまへのぼつてつた。胎内竇たいないくゞりをくゞるとさすがに弟子達でしたちあしすゝまなくなる。そのへんからみち左右さゆうにはおほきないしち、みちはそのいしうへたかくのぼり、またふかしたさはへおりるのだ。たかがけうへなが七尺しちしやくあまりの石橋いしばしがかゝつて、谷底たにぞこからはきりおこつてる。こゝまで弟子達でしたちまつたすゝめなくなつた。一角いつかくはそこに弟子達でしたちたせて、自分じぶん一人ひとり弓杖ゆみづゑをつき/\石橋いしばしわたり、むかがはいたとおもふと、もういはかげにその姿すがたえなくなつた。

242

さてぢつと主人しゆじんつてゐて、夕風ゆふかぜくようになつたが、一角いつかくはまだかへつてない。「これはきつとなに変事へんじがあつたのだ」と、弟子達でしたち大急おほいそぎでかへつて、ぎのむらひとたちにもらひ、たい弓矢ゆみや鉄砲てつぽう竹槍たけやりなどそれ/\の武器ぶきつてやまへのぼり、れい石橋いしばしのところまでると、さてたれさきわたるといふものもない。そこでまた時間じかんをつぶした。明日あした人数にんずばいにしてよう」といつて、一隊いちたいかへし、胎内竇たいないくゞりようとすると、うしろから大声おほごゑをあげてたいひとびとめるものがある。かへつてると一角いつかくであつた。

243

みな一角いつかくかこ無事ぶじであつたことのおいはひをべると、一角いつかくわらつて、石橋いしばしわたおくいんまうでてさてかへらうとすると、あたりは一面いちめん大石おほいしであるところへきりひかゝつてるものだから、みち方角ほうがくわからなくなり、やむを前夜ぜんやはそこで野宿のじゆくをしたのだ」
といふ。「そして今日けふはやつとみちつけて、こゝまでた」といひながら、元気げんきはもとのとほりである。それまではまづ無事ぶじんだが、その探検たんけんをしたのち一角いつかくは、多少たしようちがつたのであらうか、むかし礼儀正れいぎたゞしかつた、一角いつかくとはひとちがつたようにあらつぽくなつた。一角いつかくは、つま三度さんどかへた。第一だいゝちつま角太郎かくたろうといふんでんだ。二度にどめのつま探検たんけんときにゐて、これはそののち牙二郎がじろうといふみ、あらつぽい一角いつかくへられずにんだ。いまゐるつまはどこからか船虫ふなむしといふをんなであるが、これは一角いつかくこゝろふとえ、いまにそのまゝらしてゐる。

244

角太郎かくたろう成人せいじんしてやはり武芸ぶげいたつし、学間がくもんにすぐれてゐる。一角夫婦いつかくふうふ牙二郎がじろうあい角太郎かくたろうをにくむので、角太郎かくたろうんだはゝあに犬村儀清いぬむらのりきよ可愛かわいさうにおもひ、つて犬村角太郎礼儀いぬむらかくたろうまさのりばせ、自分じぶんむすめ雛衣ひなぎぬ夫婦ふうふにした。ところがやしなおや儀清のりきよんだあとで、一角夫婦いつかくふうふ儀清のりきよ財産ざいさんうばはうとかんがへ、角太郎かくたろうにわがむようにいひつけたので、角太郎夫婦かくたろうふうふ赤岩あかいはちゝいへむと、もなく一角いつかく雛衣ひなぎぬ離縁りえんさせ、そのあとで角太郎かくたろう勘当かんどうした。角太郎かくたろう評判ひようばん親孝行おやこう/\であるから、いま財産ざいさんはすつかりられてしまふし、つま雛衣ひなぎぬとはわかれるし、ずつと田舎ゐなか返璧たまがへしといふところにいをりむすび、僧侶そうりよのようなぎようをしてんでゐる。
「これといふのも一角先生いつかくせんせい庚申山こうしんざんへはひつたからでございます。お武家ぶけさまは、この庚申山こうしんざんへはまよまないようにをおつけくだされ」
と、老人ろうじん長物語ながものがたりをはつたころには、もうそろ/\夕風ゆふかぜいてゐた。

245

犬飼いぬかひ別段べつだんいそぐたびでもないし、れゝばれたところでかすかんがへで、茶店ちやみせち、ぶらり/\と山道やまみちあるいた。にはつて半弓はんきゆうつてゐる。次第しだいあるいてくうちに、みちはどうやらやまへのぼるようになつてる。「これはやはり庚申山こうしんざんまよんだのではないかとうたがしたころには、夕日ゆふひ木立こだちのうへのこり、谷間たにまうすぐらくなつてゐた。もうやまくだつても仕方しかたがない。「なほすこやまをのぼつたところで野宿のじゆくをしよう」と、何十町なんじつちようすゝんでくと、茶店ちやみせ老人ろうじんをしへたごとく、いかにもそこにおほきな石門いしもんがあつた。
今夜こんやはこのやま石窟いはやかすとしよう」
犬飼いぬかひは、胎内竇たいないくゞりしたこしをおろし、よこにしていろ/\とものかんがへてゐた。かうしたときおもひやられるのは、犬士けんしたちのうへである。よひからてゐたつき西にししづんで、あたりはすつかりやみになつた。ふとひがしほうるに、なに蛍火ほたるびのようなものがひかつて、それがこちらへちかづいてるようだ。
「さてはこれが老人ろうじんをしへた魔物まものといふのであらうか」
と、大胆だいたん犬飼いぬかひはまだあしをのべたまゝでてゐると、蛍火ほたるびえたものはだん/\おほきくなつて、たしかにそれは何物なにものかの目玉めだまである。はつとして犬飼いぬかひかへつて半弓はんきゆうをつがへた。この魔物まものとらのようなかほをして、くち左右さゆうみゝまでけ、きば真白まつしろにむきてゐる。それがうまつてゐるのだが、うまもまた不思議ふしぎかたちのもので、全身ぜんしんのようでありところどころにこけがはえてゐる。左右さゆうにはあかかほ魔物まものあおかほ魔物まものとがついてゐて、なに高笑たかわらひなどしながら、こちらへちかづいてる。犬飼いぬかひ出来できるだけ身近みぢかちかづけていて、半弓はんきゆうをふつとた。ばたりとおとがし馬上ばじよう魔物まものしたちたのは、ひだりふかたからである。魔物まものどもはすつかり狼狽ろうばいをし、左右さゆう魔物まものが、ちた魔物まものをかついでもとのみちへかけていつた。いままでやみだとおもつてゐたは、いつかぬぐうたようにうつくしく、やゝあかるい星月夜ほしづきよになつてゐた。

246

このまゝをればやま怪物かいぶつどもがおほくのけものびあつめて、またこゝへせてるであらう。いま魔物まものは、半弓はんきゆうられたゞけだから、いのちうしなふまでの深手ふかでつてゐない。いまあひだ場所ばしよをかへて、怪物かいぶつどもがなにをするかをてやらう。犬飼いぬかひはさうかんがへたのであがつて、胎内竇たいないくゞりをなほもおくあるいてつた。そのへん一面いちめんつてゐるいはわたつて、なほ何町なんちようすゝめば、いかにもそこに十二三間じゆうにさんげんばかりの石橋いしばしがかゝつてゐる。犬飼いぬかひは、さすがにもの名人めいじんである。かうした場所ばしよ平地へいちのようにわたるのだ。石窟いはやいくつかえる。「もうおくいんとほくはあるまい」と、もつとおほきな石窟いはやくちちかづくと、おくにはひとかげえて、をたいてゐた。
ひと魔物まものか。なにものぞ、名乗なのれ」

247

犬飼いぬかひ半弓はんきゆうをつがへて、身構みがまへてゐる。一分いちぶのすきもない。そのひとかげは、しづかに犬飼いぬかひしとゞめた。かれ怪物かいぶつでもなければひとでもない。むかしこゝへ探検たんけんて、魔物まもののために咽喉のどやぶられ、いのちうしなつた赤岩一角あかいはいちかく亡魂ぼうこんである。魔物まものはそれから一角いつかく姿すがたけてやまくだり、一角いつかくいへまつてゐるのを、誰一人たれひとりるものがない。一角いつかく性質せいしつかはつたのではない、まことの一角いつかくはとうにころされて、やま魔物まもの一角いつかくになつてゐるのだ。犬飼いぬかひいま魔物まものはそれであつた。

248

一角いつかく亡魂ぼうこんはしみ/゛\とそのことをかたつて、犬飼いぬかひ復讐ふくしゆうたのんだ。亡魂ぼうこんいま証拠しようこ短刀たんとうつてゐる。またそこには一角いつかく骸骨がいこつちてゐる。この骸骨がいこつつてつて、そのうへ角太郎かくたろうそゝげば、はそのまゝ骸骨がいこつかたまりつくであらう。これがまことの親子おやこ証拠しようこだ。亡魂ぼうこんはさうしたことをかたをはつて、姿すがたしたかとおもへば、そこにはつばいろもないまでにびた一口ひとふり短刀たんとう骸骨がいこつひとつちもれたようになつてゐた。

249

返璧たまがへしといふ田舎ゐなかのきひくつてゐる犬村角太郎いぬむらかくたろう庵室あんしつである。犬飼いぬかひぎのこの庵室あんしつまへつてゐた。ちひさな庵室あんしつであるから、角太郎礼儀かくたろうまさのり円座えんざうへすわつて数珠じゆずち、なにやらぎようをしてゐる様子ようすが、おもてからもよくえる。犬飼いぬかひ幾度いくどとなく案内あんないうたが、返事へんじはない。「さてはぎようさまたげてはいけないのだらう」と、そのまゝよこけて犬村いぬむらぎようをはるのをつてゐた。

250

そこへわかをんなたづねてた。もんをたゝいてこれも角太郎かくたろうぶけれども、返事へんじこゑがない。をんなこゑをかけて、角太郎かくたろうつよさをうらんでゐる。をんないま覚悟かくごをしてゐるのだ。その最後さいごわかれにたのであるが、角太郎かくたろうはまだおやへの義理ぎりまもつて、いままでにもつてゐる自分じぶんつてくれないのであるか。これが最期さいごだ。さういつたことをいつてうらむけれども、やはり角太郎かくたろう返事へんじがない。をんなそでもんからはなれてつた。角太郎かくたろうわかれた若妻わかづま雛衣ひなぎぬであつたのだ。
客人きやくじん、おはひりください。おたせまをした」

251

ふいになかからこゑがかゝつたのである。犬飼いぬかひは、つた雛衣ひなぎぬのこともにかゝるが、とにかくもんけてなかへはひつた。犬飼いぬかひきたいのは、犬村いぬむらもまた犬士けんし一人ひとりではないかといふことである。犬飼いぬかひたまのことをたづねてると、いかにも犬村いぬむらもまたそのたまつてゐた。犬村いぬむらはゝ角太郎かくたろうんだとき加賀かゞ白山権現はくさんごんげんには小石こいしひろつてそのまもぶくろれてけば病気びようきにならないといて、旅商人たびしようにんたのみ、ついでのとき小石こいしひろつてもらふと、それはれい」のきざまれたたまであつた。雛衣ひなぎぬつまもらつたのちのある雛衣ひなぎぬ腹痛はらいたおこしたので、そのたまみづひたみづまそうとすると、継母まゝはゝたまようとして茶碗ちやわんうば拍子ひようしに、雛衣ひなぎぬたまくだしてしまつた。それから雛衣ひなぎぬはらつたものゝようにおほきくなつてた。今日けふ雛衣ひなぎぬ覚悟かくごしてたづねてたけれど、雛衣ひなぎぬはらたまのあるかぎり、みづにもおぼれずにもけないとおもふから、そのまゝにうつちやつておいたのだ。犬村いぬむらはさうしたはなしをこまかにした。犬飼いぬかひはなほも犬村いぬむら武芸ぶげい学問がくもんのことをはなつてるに、犬村いぬむらおほくの書物しよもつんでゐることはおどろくばかりであつた。犬飼いぬかひ犬村いぬむらをはじめ犬士けんしたちが同盟どうめい勇士ゆうしであることのはなしをして、二人ふたり兄弟きようだいのようにしたしくなつた。

252

そこへ継母まゝはゝ船虫ふなむしたづねてた。駕籠かごには雛衣ひなぎぬをもせてゐる。船虫ふなむしをつと一角いつかく近頃ちかごろんでゐること、そのために今日けふやしろまうでたこと、その途中とちゆう雛衣ひなぎぬ犬村川いぬむらがはんでなうとするのをめたことなどをかたつて、「これからは雛衣ひなぎぬ離縁りえんゆるまへのように夫婦ふうふとなつてらすがよい」といふのである。角太郎かくたろうは、いつものはゝ似合にあはぬ仕振しぶりを不審ふしんおもつた。はゝはそれをいつてしまふとまた駕籠かごにのつてかへつてつた。

253

角太郎かくたろうは、いろ/\と自分じぶんいへのことをかたつた。ちゝ性質せいしつかはつてからのち自分じぶん家庭かていは、なにもかも不審ふしんのことだらけだ。角太郎かくたろうおやたいする孝心こうしんあついから、すべておやのいひつけをそむかずにらしてたが、今日けふまでわからないことがおほい。それらのはなしいてゐた犬飼いぬかひは、
わたしにもすこかんがへたことがある。しばらくわたしにまかせてゐてもらひたい」
といひ、犬村いぬむらいつたんわかれをげてた。

254

    大角だいかく山猫退治やまねこたいじ

255

庚申山こうしんざん魔物まものがその姿すがたへて赤岩一角あかいはいつかくとなつたのち一角いつかく道場どうじようには、やはりそれにふさはしい門弟もんていたちがあつまつててゐた。なかにも面白おもしろいのは、籠山逸東太縁連こみやまいつとうだよりつら門弟もんていとなつてゐたことだ。籠山こみやまはさきに千葉家ちばけ家来けらいであつたが、粟飯原あひばらつたとき嵐山あらしやま名笛めいてきうばはれたのでそのまゝげてかへらず、一角いつかく門弟もんていになつたのである。その武芸ぶげい上達じようたつし、越後えちご長尾判官景春ながをはんがんかげはるつかへてゐた。

256

その籠山縁連こみやまよりつらが、ふいに一角いつかくたづねてた。主人しゆじん景春かげはる城普請しろぶしんをしたところ、地中ちちゆうから木天蓼わたゝびさやこしらへためづらしい短刀たんとうあらはれたので、あるひ村雨丸むらさめまる銘刀めいとうではないか、それを一角いつかくもらひたいといふので、縁連よりつらがその使つかひになつてたのである。一角いつかくはそのときんで、仰々ぎよう/\しく布団ふとんうへにゐたりした。縁連よりつらがそのはなしをしながらかたなはこまへすと、不思議ふしぎなことにはしろけむりのようなものがあがつてえ、縁連よりつらはこひらいたときには、はこなかかたな姿すがたえなかつた。縁連よりつら狼狽ろうばいして、「このまゝでは主家しゆけへもかへれない」などいつてゐると、一角いつかくはいろ/\と主人しゆじんをなだめる工夫くふうをしえたりしてなぐさめた。そのときおもて犬飼現八いぬかひげんぱちたづねてた。

257

一角いつかく門弟もんていたちは、武者修業むしやしゆぎようをしてゐるといふ犬飼いぬかひを、おもひきりたゝきせてやらうとかんがへた。さて道場どうじようて、一角いつかくもつとつよ門弟もんてい四五人しごにん現八げんぱちむかふけれど、ものかずにもならない。「このうへは」とそれらの門弟もんてい一度いちど現八げんぱちつてかゝつたが、現八げんぱちするど木刀ぼくとうされてむひまもないところを、柔道じゆうどうにかけられて左右さゆうばされてしまつた。縁連よりつら次男じなん牙二郎がじろうかねてむかはうとすると、一角いつかくしとゞめ、
「いや、あつぱれなお腕前うでまへでござる。一角いつかくしも病中びようちゆうでなければ、お相手あひてつかまつるところを、まことに残念ざんねんである」
などといつて犬飼いぬかひめながら、にがかほをしてゐた。

258

犬飼いぬかひはその一角いつかくいへにとめられた。けてから、一角いつかく門弟もんていたちは、犬飼いぬかひらうといふのだ。犬飼いぬかひもそれとなくをつけてゐたが、すこしとろ/\と寝入ねいつたとおもとききゆうまもぶくろなか霊玉れいぎよくがぐわらつとくだけるおとがした。おどろいてあがり、さぐりで霊玉れいぎよくをさはつてるに、別段べつだんくだけた様子ようすはない。しかしなにかの変事へんじらせであるには相違そういない。犬飼いぬかひあがつてすつかり身支度みじたくをした。さて縁側えんがは障子しようじけてると障子しようじそとにはものをたくさんならべてあつて、はしときあしがつまづくようにしてある。にはへおりてれば、こゝにもまたあしらせるために麻縄あさなはわたしてある。現八げんぱちはまづ板垣いたがきのところのもんくようにしていて、てきふせぐに便利べんりには木立こだちをえらび、そのかげひそませてゐた。

259

ときた。八人はちにん門弟もんてい三手みてわかれて、一時いちじ犬飼いぬかひのゐた座敷ざしきんだ。
せてゐるぞ。追撃ついげきだ」

260

大騒おほさわぎをしてわれがちに縁側えんがはへかけると、犬飼いぬかひ場所ばしよきかへてあつたいろ/\のものにつまづいておもはず同志打どうしうちをする。にはへおりるに、そこでもまたあしられてころびかへつた。かたないてつてゐた犬飼いぬかひは、「やつ」とこゑをかけて、二人ふたりりおろした。犬飼いぬかひつけた門弟もんていたちは、一斉いつせいつてらうとするけれども、麻縄あさなは邪魔じやまになつておもふようにうごけない。犬飼いぬかひおほころかんがへもないから、やりおとし、かたなうばり、にはばしたりしていて、よいころにさつともんけ、かきそとけて、もんへはそとから大石おほいしをあてがひあかないようにした。さて悠々ゆう/\犬村いぬむらいへがけてはしつてつた。

261

門弟もんていたちが遠回とほまはりをしておもて、あくまでも犬飼いぬかひつてくと、犬飼いぬかひ犬村いぬむらいへへはひつたからしめたとおもつた。どや/\と犬村いぬむらいへせて、
昨夜さくや赤岩先生宅あかいはせんせいたく盗賊とうぞくはたらいた浪人ろうにんおさへようとしたに、げてこのいほりまゐつた。すみやかに盗賊とうぞくわたしてもらひたい」
談判だんぱんをしたけれども、犬村角太郎いぬむらかくたろうは、
「それはまちがひでござらう。おたづねの浪人ろうにんそとせたとえる」といつてせつけない。門弟もんていたちはんでもとらへようとさわいでゐるところへ、二挺にちよう駕篭かごがついて悠々ゆう/\りてたのは一角夫婦いつかくふうふである。
籠山氏こみやまうぢ、まづしづまりたまへ。盗人ぬすびと詮議せんぎ一角いつかくかはつていたさう。ほか用事ようじもござれば、籠山氏こみやまうぢはひとまづ赤岩あかいはげられておくだされい」
といふ。籠山こみやまらは為方しかたがなく、そのまゝげてつた。一角夫婦いつかくふうふだけがのこつた。

262

角太郎かくたろう雛衣ひなぎぬはうや/\しくもん出迎でむかへる。一角夫婦いつかくふうふいほりなかとほり、
角太郎かくたろう、そちをいままで勘当かんどうしてゐたが、雛衣ひなぎぬ昨日きのふかへつたことだし、角太郎かくたろうそちの勘当かんどう今日けふからゆるして、むかしどほりに親子おやこかへらうとおもふぞ」
といつて、いつもとちがひ、したしげな様子ようすしめした。四方山よもやまはなしなどして、一角いつかくはまたあらたまつたかたちになり、
とき角太郎かくたろう勘当かんどうゆるしたからには、そちと雛衣ひなぎぬすこたのみがある」
といふのである、親孝行おやこう/\角太郎かくたろうあたまげてゐると、
「じつはわたしのこの眼病がんびようだ。医者いしやはなしには、このやまひには、百年ひやくねん土中どちゆうもれた木天蓼わたゝびこなと、はらなかにゐる子供こどもぎもとがなによりよいくすりだといふ。ついては雛衣ひなぎぬ、そちのはらにある子供こどももらひたいとおもふが、これは承知しようちしてくれるだらうの」
といふ。角太郎かくたろうも、雛衣ひなぎぬも、それにはこたへの言葉ことばがなかつた。雛衣ひなぎぬはらがふくれてゐるのは、子供こどもであるかどうかさへわからないのだ。角太郎かくたろう雛衣ひなぎぬをさうしたことでころしたくなかつた。

263

角太郎かくたろうこたへをためらつてゐると、雛衣ひなぎぬこゝろはもうひとくるしかつた。すべては自分じぶん覚悟かくごできまることだ。やはり自分じぶんうんがわるく、このあひだからなゝければならなかつたのだ。さうおもひつめた雛衣ひなぎぬは、いきなり短刀たんとうくと、自分じぶんはらてる。角太郎かくたろうははつとしてあがつた。

264

不思議ふしぎにも、雛衣ひなぎぬはらからはなにひかたまのようなものがして、一角いつかくむねにぱつとあたつた。一角いつかく胸骨むなぼねくだかれて、たまらずのけざまに手足てあしつてたふれてしまつた。これを牙二郎がじろうは、
「おのれ、父上ちゝうへころしたな。て」
といつて、かたな角太郎かくたろうつてかゝる。角太郎かくたろうおとうところしたくないからとかくになつて牙二郎がじろうかたなをさへぎつてゐるあひだに、右手みぎてひぢ負傷ふしようした。そのときうしろから手裏剣しゆりけんんでて、牙二郎がじろうはばたりとたふれた。船虫ふなむしおどろいてあがげようとするとそこへ、犬飼いぬかひて、利腕きゝうでり、三四間さんしけんむかうへばした。
犬村氏いぬむらうぢいままことのはなしまをさうとおもふ。この無礼ぶれいわすれてしばらくいていたゞきたい。犬村氏いぬむらうぢたふれたこの父上ちゝうへどのゝ姿すがたは、まことの父上ちゝうへどのではなく、じつは庚申山こうしんざん年経としへ山猫やまねこでござるぞ」

265

さういつて角太郎かくたろうおどろかせた。犬飼いぬかひはかねての骸骨がいこつして、角太郎かくたろうひじ傷口きずぐちにあてると、ながれるはすべてそのうへにかたまりついた。犬飼いぬかひ一角いつかくにたのまれた短刀たんとうをもし、自分じぶん庚申山こうしんざんあつた事柄ことがらくはしく角太郎かくたろうかたつたのである。角太郎かくたろうゆめてゐた気持きもちがした。ゆめはさめたようだ。いやまだめてゐないようでもある。

266

角太郎かくたろうもさすがにちゝ姿すがたをした怪物かいぶつやいばをあてることが出来できない。怪物かいぶつは、二十四時間にじゆうよじかんてゝけばもと姿すがたになるといふから、それまでつてかゝるのをたうとおもつてゐる。そのとき牙二郎がじろういききかへして、ばやく手裏剣しゆりけん角太郎かくたろうげる。たくみにそれをけるといつしよに、牙二郎がじろうがまたあがつてつてかゝつた。角太郎かくたろうは、今度こんどしたへたゝきつけた。

267

牙二郎がじろうが、一角いつかくうえにのしかゝつてたふれると、あたりにはきゆう地響ぢひゞきがして、贋一角にせいつかく姿すがたは、なにものともしれぬ怪物かいぶつ姿すがたにかはる。かゞみならべたようにひかつて、くちをしたたらすばかりあかく、ふかみゝまでけてゐる。きばらし、つめり、あたりをにらんでつくいきは、このちひさないほりくだくかとおもふほどである。まことにそれは、とし山猫やまねこであつた。

268

角太郎かくたろういたかたなまゝんで、こしのあたりへさつとやいばれた。現八げんぱち油断ゆだんせず、うしろにひかへてゐる。すでにふかうた山猫やまねこが、まど格子こうしをめり/\とやぶつて、そこからさうとするところを、角太郎かくたろうかたなを「やつ」となほし、咽喉のどのあたりをがけて、つばとほれと、幾度いくどとなくつらぬいた。さすがに怪物かいぶつも、部屋へや真中まんなか地響ぢひゞてゝちてて、いきえたようである。牙二郎がじろうもいつのにか、山猫やまねこ姿すがたかはつてゐた。

269

このさわぎのあひだ船虫ふなむしげてゐた。角太郎かくたろうは、雛衣ひなぎぬそばり、きず手当てあてをして介抱かいほうした。けれどもふかいた重傷おもでであるからどうしてもたすからず、角太郎かくたろうちゝかたきをかへしたことをよろこびながらんでつた。

270

そこへ籠山こみやまがはひつてた。かれげた船虫ふなむしとらへてゐた。角太郎かくたろう復讐ふくしゆうをしたよろこびをべなどしながら、木天蓼わたゝびかたな贋一角にせいつかくうばはれた証人しようにんに、船虫ふなむし越後えちごともなつてくからゆるしてもらひたいなどといつた。贋一角にせいつかく門弟中もんていちゆうには、ほかのけものなどのけてゐたものもあつたが、山猫やまねこころされたあとでは勢力せいりよくがなくなり、いままで山猫やまねこにおさへられてゐたやまかみなどにころされた。庚申山こうしんざん怪物かいぶつは、犬飼いぬかひ犬村いぬむらはたらきによつて、最早もはやのこらず姿すがたしたのである。

271

角太郎かくたろうあらためて、犬村大角礼儀いぬむらだいかくまさのりんだ。そして赤岩あかいは返璧たまがへしいへたゝんでひとゆづわたし、犬飼いぬかひいつしよに犬士けんしをさがしにまはることゝなつた。籠山こみやまは、船虫ふなむしをつれて越後えちごへかへる途中とちゆうで、船虫ふなむしにだまされてげられ、長尾家ながをけへもかへれなくなつたので、また途中とちゆうからし、白井しらいしろ管領定正かんりようさだまさ降参こうさんした。こゝでもかれおももちひられることゝなつた。

272

    指月院しげついんこも人々ひと/゛\

273

荒芽山あらめやまわかれた犬田いぬた犬飼いぬかひが、いたるところでかうした武勇ぶゆうはたらきをしてゐるあひだに、ほか犬士けんしたちもべつ場所ばしよでそれ/゛\武勇ぶゆうかゞやかしてゐたが、いま一々いち/\それのくはしいはなしいてゐるいとまがない。

274

犬塚信乃いぬつかしの信濃しなのから越後えちごき、奥羽おううまはつて、すで四年よねん年月としつきたびおくつた。としちか甲斐かひくにたびしてゐて、富野穴山とみのあなやまふもととほぎた。そこでかれ家来けらいをつれた一人ひとり武士ぶし鉄砲てつぽうたれた。さいはひに弾丸たまをそれたが、んだふりをしてたふれてゐると、武士ぶしらはちかづいてて、小鳥狩ことりがりにあやまつてひとつたことをおどろきはしたものゝ、ころしたうへはその立派りつぱ両刀りようとううばらうとをかけたところを犬塚いぬつかばされた。武士ぶしはこのくに家臣かしん泡雪奈四郎秋実あわゆきなしろうあきざねといふものであつた。

275

そこへ猿石さるいし村長そんちようをしてゐる四六木木工作よろぎむくさくといふ老人ろうじんて、いろ/\と仲裁ちゆうさいをし、信乃しのいかりをなだめた。信乃しのはそれから木工作むくさくのすゝめるまゝに、木工作むくさくいへつてなが逗留とうりゆうすることゝなつた。木工作むくさく一人ひとりむすめがあつて、浜路はまぢといつた。まことは浜路はまぢ木工作むくさくではなく、二三歳にさんさいのころわしにさらはれてて、こゝの山中さんちゆうのまたにはさまれいてゐたのを、木工作むくさくつけてつれてかへり、これまでそだげてたのである。木工作むくさく信乃しの浜路はまぢ養子ようしにし、信乃しの奈四郎なしろう手引てびきで領主りようしゆにすゝめ、役人やくにんにしてもらえば自分じぶんいへ幸福こうふくだとかんがへてゐる。けれども信乃しのはこれよりのち犬士けんしさがさなければならぬ為事しごとがあるから、こんなところで養子ようしになどなり領主りようしゆつかへてゐるわけにいかない。どうして木工作むくさくことわつてよいかにこまつてゐるのだ。

276

木工作むくさくつま夏引なびきといつたが、品行ひんこうのよいをんなではなく、奈四郎なしろう相談そうだんして、をつと木工作むくさくをないものにしようとたくらんでゐた。石禾いさわといふむらさとはづれに指月院しげついんといふてらがあつて、そこの住持じゆうじ近頃ちかごろかはり、あらたに住持じゆうじとなつたそうは、大抵たいてい毎日まいにち修行しゆぎよう留守るすであつた。小僧こぞうだけが留守居るすゐをしてゐるところへ、奈四郎なしろう夏引なびきとがかけていつて、座敷ざしきり、そのわる相談そうだんをした。

277

ある木工作むくさく奈四郎なしろうばれてき、かへらうとすると奈四郎なしろう鳥銃てつぽうころされた。さて夏引なびきは、わる下男げなんにいひつけて、その死骸しがい自分じぶんいへゆきなかめ、をつと木工作むくさくかへらないといつて大騒おほさわぎをし、そのへんをさがしてゆきなか死骸しがいつけたようのことにした。さてこのつみ信乃しのになすりつけるために、信乃しのあざむいて土蔵どぞうなかへものをりにはひつてもらひ、そとからじようをおろしてしまつた。そのあひだ下男げなんにはとりころし、その信乃しの桐一文字きりいちもじかたなつておいた。

278

木工作むくさく信乃しのころされたといふうつたへが役所やくしよた。もなく立派りつぱ様子ようすをした甘利兵衛堯元あまりひようえたかもとといふ役人やくにん家来けらいをつれて調しらべにる。にはにかくしてあつた死骸しがい鉄砲てつぽうきずなのもをかしければ、かたないまころしたばかりのようなあたらしいでぬられてゐるのもをかしい。
信乃しのころしたとはさだめられない。しかし夏引なびきうつたへもあることなれば、信乃しのからつてく。また浜路はまぢ調しらべの必要ひつようあれば、ともなつてくぞ。」

279

堯元たかもとはさういつて、信乃しの浜路はまぢとらへてつた。そのすぐあとでまたおな甘利兵衛堯元あまりひようえたかもとといふ役人やくにんた。自分じぶんまへおなひとたれであるか。とにかく木工作むくさくころされた様子ようす調しらべてれば、信乃しのころしたことはまことゝはおもはれない。それよりも信乃しの浜路はまぢとをともなつてつたひと調しらべてなければならない。堯元たかもとはさうかんがへてかへつてつた。

280

信乃しの浜路はまぢとがともなはれていつたのは、指月院しげついんであつた。堯元たかもとをいつはつたものは、犬山道節忠与いぬやまどうせつたゞともであつたのだ。
「やゝ貴僧きそうでござつたか」

281

住持じゆうじほかでもない丶大法師ちゆだいほうしである。蜑崎十一郎照文あまざきじゆういちろうてるぶみた。こゝへは犬川いぬかはつてゐたが、犬川いぬかはだけはいま犬士けんしさがしにかけてゐる。犬山いぬやまらは、留守居るすゐをした小僧こぞう言葉ことばによつて、犬塚いぬつかあやふ策略さくりやくにかゝつてゐることをつたのだ。

282

まことの役人やくにん甘利堯元あまりたかもとは、ひとをつかひきびしくさがさせて、指月院しげついん信乃しのをはじめ幾人いくにんかの武士ぶしむことをつた。なほよく調しらべてれば、信乃しのにはつみがなく、指月院しげついんにあつまるものは、いづれも立派りつぱ武士ぶしたちである。堯元たかもとはかへつてそれに敬服けいふくして、この武士ぶしたちを主君しゆくん武田信昌たけだのぶまさにすゝめようとおもつた。信昌のぶまさこゝろたゞしい、立派りつぱ領主りようしゆである。ある堯元たかもとともなつて指月院しげついんをたづね、犬山いぬやま犬塚いぬつからに対面たいめんしたが、犬山いぬやまらは、武田家たけだけつかへようとはしなかつた。

283

信乃しのとゝもに指月院しげついんすくはれて浜路はまぢ素生すじよういたときに、丶大法師ちゆだいほうしおどろいた。里見義成さとみよしなり第五女だいごじよ浜路姫はまぢひめばれたが、幼少ようしようときわしにさらはれそのれなかつた。いまこの浜路はまぢ幼少ようしようときてゐたといふ着物きものに、里見家さとみけ篠龍胆さゝりんどうもんのあつたといふことは、その第五女だいごじよであることの立派りつぱ証拠しようこである。法師ほうしらはこの浜路姫はまぢひめ主君しゆくんのもとへおくらなければならなかつた。犬山いぬやま犬塚いぬつかとがそれをまもつてくことになつた。

284

    相模小僧さがみこぞう勇戦ゆうせん

285

犬田小文吾悌順いぬたこぶんごやすよりは、隅田川すみだがはわかれた犬坂毛野いぬさかけのをさがすために諸国しよこくまはつて、越後えちご小千谷をぢやといふところにとまつてゐた。旅館りよかん主人しゆじん石亀屋次団次いしかめやじだんじといつて土地とちでの若人頭わかうどがしらをしてゐる。むかし相撲すまふつたから、犬田いぬた大力たいりきなのをめて、幾日いくにち宿やどめておいた。

286

この北国ほつこくでは闘牛うしあはせといふことをやる。磯九郎いそくろうといふをとこが、その闘牛うしあはせかへるさに、ゆきなか出来できてゐるあななかおとされてころされ、かねうばはれたが、その強盗ごうとう酒顛二しゆてんじとそのつま船虫ふなむしとであつた。籠山逸東太こみやまいつとうだをだまして、越後えちごへの道中どうちゆうげてしまつた船虫ふなむしは、いまはこの強盗ごうとうつまになつてゐるのだ。

287

犬田いぬたはその眼病がんびようになつた。いろ/\とをつくすが三宅島みやけじま潮風しほかぜかれたやまひ容易よういによくならず、ものさへえなくなつてゐる。強盗ごうとうつま船虫ふなむしは、闘牛うしあはせ犬田いぬたつけた。そして犬田いぬた石亀屋いしかめやとまつてをり、近頃ちかごろをわるくしてをることをまでさぐした。彼女かのじよはさきに犬田いぬたのためにひどいめにあはされてゐる。この犬田いぬた眼病がんびようあひだに、なんとかして復讐ふくしゆうをしようとかんがへて、をんな盲按摩めくらあんまになり、石亀屋いしかめやへはひつていつた。犬田いぬたをんなかたをもんでもらはうとすろと、をんなはうしろへまはつて懐剣かいけんし、ひとつきに犬田いぬたさうとした。犬田いぬたあやふをさけた。そしてたやすく船虫ふなむしおさへつけ、次団次じだんじらにわたした。

288

次団次じだんじらはこのをんなやまなか庚申堂こうしんどうつぱつていつて、はりうへからつるしげた。かうして三日みつかくるしめたのちに、なほなゝければくびつことが、この地方ちほう習慣ならはしになつてゐた。三日みつかめのよるである。この庚申堂こうしんどうえんこしをおろして、つかれをやすめようとした武士ぶしがある。それは甲斐かひ指月院しげついんつて、犬士けんしさがしながらたびをつゞけて額蔵がくぞう犬川荘助義任いぬかはそうすけよしたふである。犬川いぬかはは、をんな堂内どうないにつるされてゐるのをあはれにおもつた。船虫ふなむしなにかとうつたへるのをまことゝおもひ、をんなをおろしてなはき、をんないへおくつてつた。酒顛二しゆてんじらのぞくいへでは、酒盛さかもりをひらいてゐた。犬川いぬかは船虫ふなむしにすゝめられ、そのいへとまることゝなつた。

289

犬川いぬかは別室べつしつてゐるあひだに、酒顛二しゆてんじらのぞくはわるい相談そうだんをしてゐた。まづ邪魔じやまになる犬川いぬかはおそひ、ぎに犬田いぬたとまつてゐる石亀屋いしかめや襲撃しうげきしようといふのである。犬川いぬかははそのはなしいてすぐに身拵みごしらへをして退き、石亀屋いしかめや先廻さきまはりしてつてゐた。犬川いぬかはおそひ、すでにもぬけのからになつてゐるのを見出みいだした酒顛二しゆてんじらは、石亀屋いしかめやそとしかけて、ふいちをした。石亀屋いしかめやではうろたへたが、そこには身拵みごしらへをした犬川いぬかはつてゐたのである。ぞくせられた。そこへ霊玉れいぎよくちから眼病がんびようのなほつた犬田いぬたて、てきをたふした。次団次じだんじらは追撃ついげきしてぞくいへおそひ、酒顛二しゆてんじころし、そのぞくあるひころあるひとらへた。船虫ふなむしはまたれいによつてげてしまつた。

290

石亀屋いしかめや犬川いぬかは犬田いぬた手柄てがらうつたへると、両人りようにん領主りようしゆ長尾景春ながをかげはるはゝえびら刀自とじやかたからむかへられて、御馳走ごちそうけるかはりにかへつてとらへられろうれられてしまつた。えびら刀自とじ二人ふたりむすめがあつて、一人ひとり武蔵むさし大塚殿おほさかどのとつぎ、もう一人ひとり石浜いしはま千葉殿ちばどのとついでゐた。犬川いぬかは額蔵がくぞう大塚おほつか役人やくにんころしてげたひとであるし、犬田いぬた石浜いしはま犬坂いぬさかとも馬加大記まくはりだいきつてげたひとであるから、犬川いぬかは犬田いぬたがこの長尾家ながをけとらへられるのはもつとものことであつた。両人りようにんろうからされてくびたれ、くび大塚殿おほつかどの千葉殿ちばどのからてゐるひとわたされた。

291

大塚殿おほつかどのからの使つかひは、力二りきじ尺八しやくはちたれた丁田町之進よぼろたまちのしんおとうと丁田畔五郎豊実よぼろたくろごろうとよざねであるし、千葉殿ちばどのからの使つかひは馬加大記まくはりだいき親戚しんせきにあたる馬加蝿六郎郷武まくはりはへろくろうさとたけであつた。この二人ふたり使つかひに、長尾家ながをけ使つかひの荻野井三郎をぎのゐさぶろうがついて、大塚おほつか石浜いしはまとへおくつてつた。くびかめれてさけけてあつた。その一行いつこうていつてしまふと、長尾家ながをけ老臣ろうしん稲戸津衛由光いなとつもりよりみつやしきからひそかにおくされた二人ふたり武士ぶしがあつた。それがまことの犬川いぬかは犬田いぬたであつた。

292

稲戸いなと二人ふたり勇士ゆうしころすことををしんだ。そしてろうへはひそかにさきのぞく二人ふたりれてころしたのだ。丁田よぼろた馬加まくはりらがつてかへつたくびは、そのぞくくびであつた。犬田いぬたかたなはさきに大塚おほつか簸上社平ひかみしやへいかたなつてたものであるし、犬川いぬかはかたなはかつて千葉家ちばけ粟飯原あひばらころされたときに、名笛めいてきとゝもに男女だんじよぞくちにげされた小篠こざゝ二口ふたふり銘刀めいとうであつたから、いづれもとらへられたときうばられた。犬川いぬかはかたなは、まことは自分じぶんいへつたはるかたなであつたのだが、ちゝ切腹せつぷくしたのち千葉家ちばけはれ、男女だんじよぞくちにげしたのを犬田いぬたり、犬川いぬかはおくつたのである。稲戸いなとどくがつて、二人ふたりべつのよいかたなおくつた。

293

犬田いぬた犬川いぬかはとは、大塚殿おほつかどの千葉殿ちばどの使つかひをつてそのあとをたびしていつた。丁田よぼろた馬加まくはりとは、長尾家ながをけしん荻野井をぎのゐがとかく邪魔じやまになつてならない。今日けふ二人ふたりあさくらいうちにて、荻野井をぎのゐよりはずつとさきをあるいてゐた。こゝは下諏訪しもすはであるから、諏訪湖すはこえてよい景色けしきだ。
「どうだ、こゝで小篠こざゝ銘刀めいとうといふをいて、あぢをためしてようではないか」

294

床几しようぎこしをかけみづうみながめながらちやをすゝつてゐた馬加まくはり丁田よぼろたにさういふ。そばにはちようどつれて家来けらいたちの姿すがたおほえない。ぬいてためすならば、いまであつた。

295

みづうみ土手どてには乞食こじき小屋こやがあつて、そのまはりにおほくの乞食こじきこしをおろし、馬加まくはりらをながめてゐた。馬加まくはり家来けらいがその乞食こじき一人ひとりをひつぱつてると、馬加まくはりはあづかつて銘刀めいとうをすらりといて乞食こじきくびおとした。まことにそれは、おどろくべき銘刀めいとうであつた。ほか乞食こじきらは、それをると一斉いつせい蜘蛛くもらすようにせたが、たゞ一人ひとりわか乞食こじき別段べつだんにおそれた様子ようすもなく、なほしひかげからながめてゐる。相模小僧さがみこぞうばれた乞食こじきであつた。

296

馬加まくはり家来けらい主人しゆじんいてゐるかたなそばつてかみぬぐうてゐると、つかつかと相模小僧さがみこぞうは、その家来けらい首筋くびすぢをつかんで二三間にさんげんばし、馬加まくはりみぎをしつかりとおさへつけた。
小篠こざゝ銘刀めいとうつものはなにものであるか。さきのはなしに馬加まくはりんでゐたは、馬加大記常武まくはりだいきつねたけ身内みうちのものであらう。そのかたなをわたせ」
無礼者ぶれいものさがれ。なんぢなにものだ」
乞食こじき姿すがたへてゐるが、おやかたきをさがす、犬坂毛野胤智いぬさかけのたねともである」
「さては姿すがたをかへて、わが一族いちぞくはたした犬坂いぬさかなんぢであるか。よい土産みやげだ、血祭ちまつりをけよ」

297

馬加まくはり丁田よぼろた家来けらいどもは、犬坂いぬさか一人ひとりいてつてかゝるが、この勇士ゆうしむかへるはずもない。馬加まくはりくびおとされる。丁田よぼろたきずをうけてげていつた。馬加まくはり家来けらいちたふされた。犬坂いぬさかはにつこりとわらひ、小篠こざゝげて、悠々ゆう/\とそこをらうとする。そのとき
曲者くせものて、小篠こざゝわたしてけ」
「いやわたされぬ。なんぢ馬加まくはり親族しんぞくともえぬに、何故なにゆゑあつてこの妨害ぼうがいをするか」
「そのかたな用事ようじがあるのだ。わたせ」

298

足早あしばやにうしろにちよつて、ぢつと犬坂いぬさかをにらんだ一人ひとり武士ぶしがあつた。筋骨きんこつたくましくるからにそのりつめたちからおされそうだ。
「はつ」とさがつて二人ふたりむすんだ。いづれにもすきがない。

299

しばらくはそのまゝにらんでゐたが、ぱつとつてかたな交叉こうさすると、鍔元つばもとしてゐて、たがひかたなくすきがない。

300

そこへまたうしろから一人ひとり大男おほをとこがかけつけた。
「やあ、めづらしい。犬坂氏いぬさかうぢ貴君きくんをさがしていまゝでたびをしてゐたぞ。犬川氏いぬかはうぢかたなかれい。犬川氏いぬかはうぢ、かねて貴君きくんはなした犬坂氏いぬさかうぢだ」

301

かたなむすんでゐたものは、犬坂いぬさか犬川いぬかは二勇士にゆうしであつたのだ。けようとあせるものは、いふまでもなく犬田小文吾いぬたこぶんごである。犬坂いぬさか犬川いぬかはかたなのさきに一心いつしんになつてゐるから、犬田いぬたこゑなどはみゝへはひらない。犬田いぬたも、かたなかせる工夫くふうがない。一方いつぽうかせる、まつしぐらに、他方たほうかたなまれるのだ。と、れば土手どてに『諏訪領すはりよう』とかいたたか石柱いしばしらつてゐる。大力だいりき犬田いぬたはやす/\とそれをいてて、二人ふたりむすんでゐるかたなうへに、おさいしのようにしてせかけた。かたないしにしかれても、にぎつたかたなつかはなさずきつと見返みかへしたのが、いつしよであつた。

302

犬田いぬたあらためて犬坂いぬさか犬川いぬかはとをあはせた。
「もう一人ひとり丁田よぼろたせたが」
といふと、犬田いぬたは、
「いやその丁田よぼろた途中とちゆう土手どてでこの犬田いぬたがたゞ一打ひとうちにつてた。つてゐたかたなりかへしてた」
といつた。犬田いぬた犬坂いぬさか犬士けんし一人ひとりではないかとたまのことをたづねてるに、はたして犬坂いぬさかは『』のきざまれたたまつてゐた。犬坂いぬさかはゝがまだ足柄あしがらんでゐたとき、ある夕方ゆふがた流星りゆうせいのようなひとつのひかものみなみほうからんでて、はゝふところにはひつたとおもふと、それがこのたまであつたといふ。牡丹ぼたんはな黒痣くろあざもあつた。

303

犬坂いぬさかはこのまた犬田いぬた犬川いぬかはわかれた。かれちゝあだ籠山逸東太こみやまいつとうだたなければならなかつたからだ。籠山こみやまはその管領定正かんりようさだまさつかへてゐたが、犬坂いぬさかはそれをつて復讐ふくしゆう目的もくてきたした。これはずつとあとのことであつた。そのおなとき犬山道節いぬやまどうせつ定正さだまさをねらひ、復讐ふくしゆう目的もくてきたせなかつたが、そのかぶと射落いおとし、定正さだまさぐんおほいにやぶつて幾分いくぶん瘤飲りゆういんげた。このたゝかひのとき八犬士はつけんしうちまさしのぞいた七人しちにんがこと/゛\くつた。

304

七犬士しちけんしたちは、結城ゆうきあつまつて里見季基さとみすゑもと五十回法養ごじつかいほうよういとなみ、そこの古戦場こせんじようおほきないし塔婆とうばてた。そのときには丶大法師ちゆだいほうし法養ほうようのすべてのことをして、安房あは里見家さとみけからは蜑崎照文あまざきてるぶみ領主りようしゆ代理だいりになつて焼香しようこうをした。

305

    大樟樹おほくすのき空洞うろ

306

里見家さとみけ居城きよじよう程近ほどちか館山たてやま城主じようしゆに、蟇田権頭素藤ひきたごんのかみもとふぢといふものがあつた。

307

このひと素性すじようあらつてると、そのちゝ近江あふみ胆吹山いぶきやま盗賊とうぞくかしらをし、数多かずおほくの悪事あくじをはたらいてゐたをとこである。京都きようと祇園ぎおんまつりのとき父親ちゝおやとらへられたが、それをくと素藤もとふぢやまけられないあひだに、やまがねすべてをひとりでげして、東国とうごくほうくだつてた。どこへいつてもこれといつて面白おもしろいことはなかつたが、まはまはつて館山たてやまちかくの普善村ふせむらといふところをとほり、てた諏訪すはやしろ一夜いちやかしたときに、かれはその社前しやぜん大樟樹おほくすのき厄病神やくびようがみとがはなしをしてゐるのをいた。厄病神やくびようがみはなすところでは、このごろ近傍きんぼうむら病気びようきをはやらせてゐるが、これをなほすには大樟樹おほくすのきうへにある大空洞だいうつろみづなか黄金こがねを一昼夜いつちゆうやけていてそのみづませるとよいのだが、このあたりのむら貧乏びんぼうたれ一人ひとり黄金こがねつてゐないから、はやくやまひをなほすわけにいくまいといふのだ。

308

それをいた素藤もとふぢは、けるのをつて大樟樹おほくすのきうへへのぼり、空洞うつろつけて厄病神やくびようがみのいつていたようにした。病気びようきをなほしてもらふためにやしろへおいのりにひとたちをつかまへてそのみづけてやると、病気びようきひとたちはちどころになほつた。素藤もとふぢは、むら貧乏びんぼうなのをつてゐるから、黄金こがねもそのまゝやつて人々ひと/゛\よろこばせた。かようにして素藤もとふぢは、一時いちじ近傍きんぼうむらから尊敬そんけいせられ、人々ひと/゛\たのみでその諏訪神社すはじんじや神主かんぬしになつた。百姓ひやくしようたちは素藤もとふぢからもらつた金子かねかへすし、神主かんぬしとしていろ/\のおれいをもするので、素藤もとふぢはあたりのひとたちから尊敬そんけいもせられゝば、かねもたくさんたくはへるようになつた。

309

館山たてやま領主りようしゆ小鞠谷主馬助こまりやしゆめのすけ如満ゆきみつといふひとであるが、素藤もとふぢがこんなふうにしてその土地とち人達ひとたち人望じんぼうることをおそれた。そこで幸弥太遠親こうやたとほちかといふ家来けらいめいじ、へいひきゐて素藤もとふぢからめとることにしたが、遠親とほちかはかねて素藤もとふぢから五十両ごじゆうりようかねりたことがあるので、素藤もとふぢどくおもひ、村長そんちよう手紙てがみおくつて、自分じぶんめてときには、いづこへかげのびてをるように」といつてやつた。しかし遠親とほちかつたときには、素藤もとふぢげてをらず、村民そんみん百名ひやくめいばかりといつしよに丁寧ていねいむかへて座敷ざしき案内あんないをした。素藤もとふぢ遠親とほちかにすゝめて、主君しゆくん領主りようしゆころせば自分じぶんらは遠親とほちか領主りようしゆさう」といふのである。遠親とほちかはそれに賛成さんせいした。

310

さて遠親とほちかは、素藤もとふぢしばつて館山たてやまへかへつた。領主りようしゆまへいてて、領主りようしゆ如満ゆきみつ事柄ことがら報告ほうこくするような様子ようすをしてちかづいてき、ふいに腰刀こしがたないて如満ゆきみつくびおとした。素藤もとふぢしばられたなはばやくはづして、いつしよに百姓ひやくしようからかたなり、そのへんにゐる家来けらいたちをて、百姓ひやくしようたちもかま短刀たんとうしてそのあとにつゞいた。遠親とほちか素藤もとふぢそばちかづいてると、素藤もとふぢはすばやく遠親とほちかくびをもおとした。百姓ひやくしようたちは、もとより素藤もとふぢてゝゐる。城中じようちゆう人々ひと/゛\のこらず素藤もとふぢ降参こうさんして、これから素藤もとふぢ館山たてやま領主りようしゆになつた。

311

いつたん領主りようしゆになつた素藤もとふぢは、自分じぶんのたくらんでゐた目的もくてきたつしたものだから、その乱暴らんぼう政治せいじをした。むかし胆吹山いぶきやまにゐた盗賊とうぞくなどをせて、贅沢ぜいたくらしをし、酒盛さかもりばかりひらいてゐた。それでも近傍きんぼう城主じようしゆたちとは上手じようずまじはつて、里見家さとみけへも丁寧ていねい使つかひをおくり、里見家さとみけ家来けらいとなるかは館山たてやま城主じようしゆであることをゆるしてもらふようにねがつたのである。里見家さとみけでは老臣ろうしんたちがあつまつて相談そうだんをしたが、素藤もとふぢといふ人間にんげん感心かんしん出来できないけれど、すでに館山たてやましろつてゐるのにそれと戦争せんそうをするまでのこともあるまいとおもひ、素藤もとふぢねがひをゆるして、素藤もとふぢ館山たてやま城主じようしゆであることをそのまゝに見遁みのがすことゝした。素藤もとふぢはますますよいになつて、気儘きまゝなことをするようになつた。

312

ある素藤もとふぢしろ高殿たかどのへのぼつて、城下じようか様子ようすをあちこちと見渡みわたしてゐると、たくさんの人達ひとたちはしつてつてたれかをむかへるような様子ようすである。素藤もとふぢ不審ふしんおも近習きんじゆふと、
「あれは近頃ちかごろ名高なだか八百比丘尼はつぴやくびくにむかへるのでせう」
といふ。素藤もとふぢはなほも不審ふしんおもつて、その八百比丘尼はつぴやくびくにといふものゝことをくと、八百比丘尼はつぴやくびくには、としころ四十しじゆうぐらゐにしかえないが、まことは八百余歳はつぴやくよさいになつてゐるから、ひと八百比丘尼はつぴやくびくにぶのだといふ。このあまものいのねがへばすぐにそのねがひがかれるし、またんだひとはうとねがへば、あまはそのひと姿すがたけむりのなかあらはしてくれるさうである。そのために、近来きんらい八百比丘尼はつぴやくびくにむかへる人々ひと/゛\がやかましくさわいでゐるのだ。素藤もとふぢはそのはなしいて、自分じぶんもその比丘尼びくに一度いちどんでようとおもつた。素藤もとふぢ自分じぶんつかへてゐたわかをんなちかごろ病気びようきんだので、そのをんな姿すがたあらはしてもらはうとおもつたのだ。

313

八百比丘尼はつぴやくびくに家来けらい案内あんないせられ、素藤もとふぢまへた。まことに近習きんじゆのいつたごとく、老婆ろうばあまとはえず、まだうつくしい若尼わかあまである。妙椿みようちんといつた。妙椿みようちんよるまでつといつて昼寝ひるねをしたが、夕方ゆふがたになつてもなか/\まさない。やつとおこされて素藤もとふぢ部屋へやへはひりなにやらおこうのようなものをたくと、そのけむりのなか見知みしらぬうつくしいをんなえてた。
「このをんなたれであるか」
へば、妙椿みようちんは、
「このをんな里見公さとみこう第五だいご姫君ひめぎみ浜路姫はまぢひめでござりますが、きみにはなにゆゑ里見公さとみこうまわげて、この姫君ひめぎみをおもらあそばしませぬか」
こたへた。

314

素藤もとふぢは、城主じようしゆにはなつたし里見家さとみけ縁組えんぐみ出来できればこれにしたことはないとおもつた。妙椿みようちんは、そのためには秘法ひほうをもつていくらでも助力じよりよくをするといふことである。そこで素藤もとふぢもそのになつて、おもな家来けらいたちと相談そうだんをし、ある里見さとみ使つかひをおくつてそのことをねがつてた。里見義成さとみよしなりは、使つかひのひと用事ようじくとちどころにそのねがひをことわつた。里見家さとみけ清和源氏せいわげんじ大新田だいにつたながれで立派りつぱ家柄いへがらであるが、蟇田ひきたいへはどういふ家柄いへがらかさつぱりわからない。それに浜路はまぢよりうへ四人よにんむすめもまだえんづいてゐないから、浜路はまぢだけをはやえんづけることは出来できない」といふのである。

315

使つかひがかへつてそのことを素藤もとふぢげると、素藤もとふぢはまた妙椿みようちん相談そうだんをした。妙椿みようちんはうまい策略さくりやくかんがへて、素藤もとふぢをしへる。その素藤もとふぢのところからまた里見家さとみけ使つかひがてられた。殿台とのゝだい近傍きんぼう八幡はちまん宇佐八幡うさはちまん諏訪すは三社さんしやながれてゐたのを、素藤もとふぢ百姓達ひやくしようたちにやかましく命令めいれいして、近頃ちかごろそれを立派りつぱ修繕しゆうぜんした。三社さんしや素藤もとふぢ領地内りようちないにあり、もとは源氏げんじ氏神うぢがみである。ついては今回こんかい修繕しゆうぜん出来でき三社さんしや国主こくしゆ御自身ごじしん参詣さんけいあふぎたいと、使つかひのひと口上こうじようをのべた。

316

義成よしなりは、もちろん素藤もとふぢのしたことをほめてくれた。そして、ぎのとし正月しようがつには嫡男ちやくなん太郎義通たろうよしみちよろひ初着はつぎいはひをするから、そのすぐあとで素藤もとふぢ修繕しゆうぜんした三社さんしやへ、国主こくしゆ代理だいり参詣さんけいかうといふことである。素藤もとふぢは、ことがうまくはこんだのをおほいによろこんだ。八百比丘尼はつぴやくびくに秘術ひじゆつして素藤もとふぢたすけるといふことである。素藤もとふぢが、義通よしみち人質ひとじちつてしまはうとする策略さくりやくは、うまくやりはたせるに相違そういない。

317

素藤もとふぢ諏訪すは社頭しやとうにある大樟樹おほくすのき空洞うろなかへ、兵卒へいそつかくしてかうといふのである。ところが妙椿みようちん秘術ひじゆつによつて、一夜いちやのうちに、その空洞うつろよりしろなかつうじるとんねるが出来できてゐた。このとんねるから兵卒へいそつおく義通よしみち捕虜とりこにしようとおもへば、それはわけのないことだ。文明ぶんめい十五年じゆうごねん一月いちがつ十三日じゆうさんにちのことである。まだやつと鎧着よろひぎいはひのんだばかりのわか義通よしみちは、おほくの家来けらいをつれて、しろつた。堀内蔵人貞行ほりうちくらんどさだゆき杉倉武者助直元すぎくらむしやのすけなほもとおもなる家来けらいとして、三百人さんびやくにんばかりの兵卒へいそつひきゐてゐる。

318

一行いつこうがよほど先方せんぽうまですゝんだときに、うしろからきみ使つかひが早馬はやうまんでた。堀内貞行ほりうちさだゆきつまきゆうくなつたから、参詣さんけいひとくははることが出来できない。また杉倉直元すぎくらなほもとつま難産なんざんであつてんだんだから、これまた参詣さんけいくははつてならない。それらのひと親戚家来しんせきけらい同様どうようである。いまよりれつはなれ、しろかへられよ」といふ命令めいれいである。人々ひと/゛\不審ふしんおもひをしたが、さうあればやはり参詣さんけいのおとも出来できない。貞行さだゆき直元なほもとは、あとがにかゝるけれどもやむをず、のこつた人々ひと/゛\なかのしつかりした武士ぶしたちに、くれ/゛\もたのんでかへつてつた。もつとつよ兵卒へいそつ五六十人ごろくじゆうにんつてしまつた。

319

一月いちがつ十五日じゆうごにち義通よしみちはいよ/\三社さんしや参詣さんけいすることになつた。義通よしみちについて人々ひと/゛\かしら小森篤宗こもりあつむね浦安乗勝うらやすのりかつは、「この館山たてやま城主じようしゆはまだやつと身方みかたについたばかりであり、どういふ策略さくりやくがあるかもれないから」とあやぶんで、前日ぜんじつ三社さんしや様子ようす調しらべさせ、大樟樹おほくすのきのあることをつて、そのした兵卒へいそつなどをてゝいたが、兵卒へいそついくさなどがあるとはかんがへないから、自然しぜんこゝろ油断ゆだんさせてゐた。義通よしみちとほると、その途中とちゆうには何百人なんびやくにんかの百姓ひやくしようが、このれた簑笠みのかさなどを行列ぎようれつおがみにてゐたが、これは素藤もとふぢ兵卒へいそつどもであつた。

320

やしろちかづくにしたがつて義通よしみちについて兵卒へいそつどもは途中とちゆうつて警戒けいかいし、いよ/\やしろちかづいたときには、その近習きんじゆのものだけとなる。義通よしみち神主かんぬし案内あんないせられて、まづ八幡はちまん、宇佐八幡うさはちまん参詣さんけいし、お神楽かぐらなどをあげて、おしまひに諏訪社すはしや参詣さんけいしようと、やしろまへものり、近習きんじゆまもられながらしづかにいしいたみちあるいてくと、樟樹くすのきかげから一時いちじ数百挺すうひやくちよう鉄砲てつぽうされた。
「それつ、曲者くせもの
といふうちに、小森こもり浦安うらやすとは、弾丸たまにあたつてたふれてしまつた。近習きんじゆ兵卒へいそつどもがいづれもかたないて、若君わかぎみ義通よしみちまはりをけば、樟樹くすのき空洞うろからは、「わーつ」とときこゑがあがつて、弾丸たまんでる。そのあとから数百人すうひやくにん軍勢ぐんぜいしてた。この空洞うろなかから、どうしてこんなかず軍勢ぐんぜいるのかわからない。里見さとみ軍勢ぐんぜい一人ひとり十人じゆうにん二十人にじゆうにんがあたつて、里見勢さとみぜいせられる。義通よしみちはたゞ一人ひとりになつてかたなふるてき一人ひとり二人ふたりりかけたが、ふいによこからおそつた敵将てきしようは、義通よしみち利腕きゝうでおさへてしまつた。今年ことし十一歳じゆういちさい義通よしみちが、どうしてそれに手向てむかへよう。敵将てきしようは、義通よしみち小脇こわきにかゝへて樟樹くすのき空洞うろなかへはひつてしまつた。それは城主じようしゆ素藤もとふぢである。

321

里見勢さとみぜいはほとんどのこりなく戦死せんしをした。日頃ひごろはよくたゝか里見勢さとみぜいも、この小勢こぜいをもつてこの大軍たいぐん道具どうぐかこまれては、たゝかひの工夫くふうがなかつたのだ。素藤もとふぢぐんしろへかへつて凱歌がいかをあげた。すると不思議ふしぎなことには、樟樹くすのきつうじてゐた墜道とんねるが、いつのにかなくなつてゐた。すべては八百比丘尼はつぴやくびくに助力じよりよくであつたのだ。しかるになほまた不思議ふしぎなことにはこのたゝかひがをはり、諏訪すは社頭しやとう一面いちめん里見勢さとみぜい戦死者せんししやめられてゐるときに、そらから黒雲くろくもひとつおりてたとおもふと、いままでれてゐたそら一面いちめんくもり、かぜあめおそうて、社頭しやとうをたふし、いしばした。しばらくはあたりもえないはげしいかたである。いつかまた、さつとその暴風雨あらしつたあとには、里見勢さとみぜい戦死者せんししや死骸しがいひとつものこつてゐなかつた。

322

途中とちゆうかへした貞行さだゆき直元なほもとが、おほいそぎでしろかへつてると、しろにゐたものは二人ふたりがなぜかへつてたかをあやしんだ。きみ使つかひといふものもつてゐるものがない。
「さては計略けいりやくつたか」とづいたときには、おそかつた。これはきつと若君わかぎみうへかはつたことがあつたに相違そういないと、義成よしなりをはじめしろ人々ひと/゛\心配しんぱいをした。そのときそらきゆうひとつの黒雲くろくもりて、あたり一面いちめんはげしい暴風あらしとなり、しばらくはなにもかもがえなくなつたとおもふと、このしろ東門ひがしもんのうちに、義通よしみちについてつた士卒しそつ二百人にひやくにんばかりがいづれも重傷おもでをおうてかさなつてゐた。それ/゛\に手当てあてをくは療治りようぢをすると、このなか百人ひやくにんあまりはかへつた。いづれもゆめたような気持きもちである。この人達ひとたちのいふところにより、義通よしみち館山たてやましろ捕虜とりこにせられたことは最早もはやうたがへなくなつた。けれどもいままで諏訪すは社頭しやとうにたふれてゐたものが、どうしてかく城中じようちゆうおくかへされたのであらうか。それはゆめのようにおもへて、わけがわからない。城中じようちゆう人々ひと/゛\は、これこそは伏姫ふせひめれい身方みかたたすけてくれたものでないかとかんがへたのである。

323

    伏姫ふせひめやしなはれた神童しんどう

324

里見家さとみけではこのごろ老公ろうこう義実よしざね滝田たきたしろにゐるし、義成よしなり稲村いなむらしろにゐた。稲村いなむらしろでは、たゞちに素藤もとふぢめる相談そうだんをして、そのつき二十一日にじゆういつにちには、三千余騎さんぜんよき軍勢ぐんぜい館山たてやまされた。堀内貞行ほりうちさだゆき杉倉直元すぎくらなほもととは、このあひだ失敗しつぱいりかへすために、一人ひとり先陣せんじんとなり、もう一人ひとり後陣ごじんにひかへた。義成よしなり自分じぶん中軍ちゆうぐんひきゐてゐる。いよ/\館山たてやましろ到着とうちやくして、まはり一面いちめんかこみ、たゞ一押ひとおしとせた。

325

城中じようちゆうでもかねて覚悟かくごをしてゐたことであるから、城門じようもんかたまもつて応戦おうせんした。しろあふぐとたか城楼じようろううへには、捕虜とりこにせられた義通よしみち厳重げんじゆうはしらしばられてゐて、そのそばにはかたないたものがつてゐる。なほ城楼じようろううへ五六人ごろくにん士卒しそつあらはれたとおもふと、そのうち一人ひとり大声おほごゑをあげて、今回こんかい義通よしみち捕虜とりこにしたのは、けつして謀反むほんくはだてたのではない。素藤もとふぢはさきに義成公よしなりこう第五だいごきみむかへようとねがつたが、そのねがひはかれなかつた。いまそのきみくだたまはるものならば、若君わかぎみをも鄭重ていちようにおかへまをす。もしもこのねがひがかれず、あくまでもしろめるといふならば、若君わかぎみがいたてまつるよりほかはない」といつてがる。これをては、義成よしなり軍勢ぐんぜいおもひのまゝにてることも出来できない。

326

義成よしなりはひとまづぐんまとめて退却たいきやくするような様子ようすしめした。素藤もとふぢ得意とくいになつて城門じようもんひら里見勢さとみぜい追撃ついげきしてると、きゆう前後ぜんごからはさちにして、城兵じようへいはさん/゛\にやぶられ素藤もとふぢあやふたれさうになつてげた。身方みかたはかくして勝利しようりめたが、さてきゆうせれば、義通よしみちのいのちをうばはれることであるから、しばらくはたゝかひをやめ、しろ遠巻とほまきにしてじんいた。

327

滝田たきた義実老公よしざねろうこうは、この報告ほうこくいてあたまなやました。かように人質ひとじちられたたゝかひは、あたりまへ為方しかたではつことが出来できない。このたび諏訪すは社頭しやとう戦死せんしした士卒しそつどもが、風雨ふううかれて城中じようちゆうおくりかへされたことは、伏姫ふせひめれいたすけによることであらうから、やはりなほも伏姫ふせひめれいいのねがふよりほかはあるまい。さうかんがへて老公ろうこうは、あるひそかに富山とみやま大山寺おほやまでら参詣さんけいせられた。伏姫ふせひめくなつてから、もう二十年にじゆうねん年月としつきつてゐる。今日けふ谷川たにがはみづすくなく、伏姫ふせひめはかへもかよへるといふことなので、老公ろうこうはそのはかへも参拝さんぱいしてかへらうとおもつた。

328

ともについて蜑崎照文あまざきてるぶみも、大山寺おほやまでらのこかれた。したがふものは、わづか二人ふたり近習きんじゆである。義実よしざねには、二十年前にじゆうねんまへかなしいおもが、たゞ昨日きのふ今日けふ出来事できごとのようにうかんでる。はかのあたりの木々きゞだけがびた。義実よしざねはしばらくをつむつてはかまへつてゐると、そばにゐた近習きんじゆ一人ひとりが「あつ」とさけんでたふれた。つゞいてもう一人ひとり近習きんじゆもばたりとたふれる。どこよりかつよんでたのだ。

329

左右さゆうあひだから四五人しごにん曲者くせものして、やりそろへ、義実よしざねいた。義実よしざねかたないててきむかつたが、次第しだいにうしろへひつめられて、すでにあやふえてゐると、かげにまたこゑがした。
曲者くせもの無礼ぶれいをするな。八犬士はつけんし随一ずいいち犬江親兵衛仁いぬえしんべえまさしこゝにあるぞ」

330

天地てんちひゞ大音声だいおんじやうである。たけ三尺さんじやく四五寸しごすんかほいろ薄紅うすくれなゐもゝはなごとく、はだしろにくえ、きこりのような着物きものて、六尺ろくしやくばかりのぼうち、こし一口ひとふり短刀たんとうをさしてゐる。おそひかゝるやりものともせず、たちまてきをたゝきせて、右左みぎひだりばした。さて用意ようい藤蔓ふぢづるして、まつしばげる。はじめからおそれてよくもちかゝりない一人ひとり曲者くせものだけがげていつた。まさし息一いきひとつねかはらず、ぼうををさめて義実よしざねまへ平伏へいふくした。
なんぢはさきに神隠かみかくしにあつたといたが、いづこにあつてそだつてゐたか。よくもすくつてくれたぞ」

331

義実よしざねがその手柄てがらめると、まさしはその出来事できごとかたつた。そのはなしによれば、まさしうへりて黒雲くろくもまさしからだ大空おほぞらげたとおもふと、もなくまさしは、この伏姫ふせひめはかちかくにかれてゐたのだ。そしてまさしをわがのごとくに養育よういくし、学問がくもん剣術けんじゆつみちをもをしへてくれた。まさしはまだ九歳くさいにしかならないが、としころ十五歳位じゆうごさいくらゐえ、いかにも神女しんじよやしなはれた神童しんどうとうなづかれる。

332

そこへまた一人ひとり老人夫婦ろうじんふうふと、なほほか二人ふたりをんなあらはれた。老人ろうじんは、さきにげた一人ひとり曲者くせものとらへてゐた。これは姨雪与四郎おばゆきよしろう音音おとね夫婦ふうふ曳手ひくて単節ひとよ二人ふたりよめである。この人達ひとたち伏姫ふせひめすくはれ、荒芽山あらめやまから黒雲くろくもかれて、この富山とみやまおくおくられてゐたのだ。神童しんどう養育よういくたすけてたものは、この姨雪一家おばゆきいつかであつた。富山とみやまおくにさうして六年ろくねん年月としつきがたつてゐた。

333

義実よしざね親兵衛仁しんべえまさしをはじめ、与四郎よしろう一家いつかれて、しろへかへつた。素藤もとふぢ征伐せいばつくには、この神童しんどうにまさつたものはあるまい。まさしは、軍勢ぐんぜいなどはいらない。たゞ与四郎よしろう一人ひとりをつれて素藤もとふぢしろまう」といふのである。まさしうまつて、館山たてやましろむかつた。与四郎よしろうがそのうまくちつてゐる。

334

城門じようもんまへつたまさし里見さとみ使節しせつであるといふので、素藤もとふぢまさし対面たいめんすることになつた。まさしなにものをもおそれず悠々いう/\廊下ろうかとほつてくに、城内じようない兵卒へいそつども、その威風いふうおそない。まさし素藤もとふぢすわつてゐる大広間おほひろまへはひり、素藤もとふぢ尻目しりめにかけ、真直まつすぐとこすゝんで鎧櫃よろひびつうへこしをおろし、一座いちざをにらみつけたので、素藤もとふぢは、
「これは気狂きちがひであらう。ものどもこの気狂きちがひをひきずりせ」
下知げちをすると、兵卒へいそつどもは一斎いつせいまさしおそひかゝつた。そのときまさしむねからは、ひかりのようなものがかゞやて、人々ひと/゛\はそのひかりにちすくめられ、おもはずまへ平伏へいふくする。つゞいておどりかゝつた素藤もとふぢ首筋くびすぢをつかみ、あししたいてうごかさない。

335

素藤もとふぢがかようにまさしとらへられゝば、城兵じようへい一人ひとりとしてまさし手向てむかふことが出来できない。まさし城兵じようへいにいひつけて若君わかぎみ義通よしみちともなはせる。館山城たてやまじようは、またゝくまさしうばはれてしまつた。

336

捕虜とりことなつて稲村いなむらしろおくられた素藤もとふぢは、まさしのなさけふかあつかひによりころされるところをたすかつて国外こくがい追放ついほうせられた。まさしはその手柄てがらにより、館山たてやま城主じようしゆにせられた。さすがの謀反むほんも、これでひとまづたひらげられたのだ。

337

素藤もとふぢやまさはのようなところをあてどもなくあるいてくと、そこには妙椿みようちん庵室あんしつがあつた。妙椿みようちんが、じゆつ使つかつて素藤もとふぢせたのである。二人ふたりはまたそこでわるい策略さくりやくをはじめた。素藤もとふぢについてゐたわるい家来けらいたちも、妙椿みようちんじゆつでこゝへびあつめられた。館山たてやましろ武器蔵ぶきぐらにあつた弓矢鉄砲ゆみやてつぽうも、妙椿みようちんじゆつ使つかうと、こゝへつてた。浜路姫はまぢひめ病気びようきになり、親兵衛仁しんべえまさしがその部屋へや夜番よばんせられてゐたが、義成よしなりはいろ/\のことでまさしうたがつて、まさしに「しばらく諸国しよこくまはつてるように」といひつけた。まさしたびてしまふと、妙椿みようちんはすべて自分じぶんじゆつがうまくいつたので、素藤もとふぢ軍勢ぐんぜいとも館山たてやましろめよせなんなくしろりかへした。

338

里見勢さとみぜい館山たてやま攻撃こうげきまへのようにはじめられたが、このたびは妙椿みようちんじゆつ使つかつて暴風ぼうふうおこすので、里見勢さとみぜいはまたも館山たてやましろめあぐんでゐた。義成よしなりいま後悔こうかいして、まさしびよせる使つかひをさなければならなかつた。まさしたびにゐてはやくも館山城たてやまじよううばはれたことをり、わづか軍勢ぐんぜいひきゐて館山城たてやまじようんだ。妙椿みようちんじゆつまさし霊玉れいぎよくにはかなはない。

339

素藤もとふぢが、まさしつかげられ二階にかいよりしたおとされたところへ、人々ひと/゛\つててそのくびをはねた。妙椿みようちんは、まさしむかふとたちまちその霊玉れいぎよくひかりすくめられ、二階にかいからしたびおりたが、おほきないし手水鉢ちようづばちなかちてんでゐる姿すがたを、あとで里見勢さとみぜいつけてげると、それはとしのたつた牝狸めたぬきであつた。

340

    白川山しらかはやま虎退治とらたいじ

341

八犬士はつけんしはめでたく里見家さとみけへあつまつてた。いづれも無双むそう勇士ゆうしである。

342

八犬士はつけんしがかように一人にんもれなくあつまつてたには、丶大法師ちゆだいほうし手柄てがらすくなくない。また丶大法師ちゆだいほうし手柄てがらおもふにつけては、安房あはくに里見さとみいへおこすまつぱじめにおほきな手柄てがらてた金椀八郎孝吉かなまりはちろうたかよしおもさなければならない。そこで八犬士はつけんしのすべてに金椀かなまりといふせいをあたへ、孝吉たかよし手柄てがらのちまでもつたへようとかんがへたが、かようにあたらしくせいをつくつてあたへるには、まづ朝廷ちようていのおゆるしをけなければならない。そこで八犬士はつけんしなか一人ひとり蜑崎照文あまざきてるぶみとを使つかひにしてみやこへのぼらせ、そのとき執権しつけん細川政元ほそかはまさもとにおねがひして、このゆるしをはうとした。この大事だいじ使つかひには、まだ少年しようねん犬江親兵衛仁いぬえしんべえまさしえらばれた。まさし正使せいし照文てるぶみ副使ふくしである。

343

まさし照文てるぶみとは、百人ひやくにんらずの家来けらいしたがへ、ふねつてみやこへのぼる。朝廷ちようてい足利将軍あしかゞしようぐん、そのほかあちこちへ献上けんじようするおかね品物しなものいつぱいにふねんだ。ふね東海道とうかいどうにそうて西にしむかひ、伊豆いずから遠州灘えんしゆうなだをわたつて三河みかは苛子崎いらこざきまでた。老人ろうじん姨雪与四郎おばゆきよしろうは、元来がんらいはこの家来けらいなかくはへられなかつたのだが、まさし心配しんぱいになるのでひそかにふねなかしのんで、一行いつこうくははつててゐた。

344

とき七月しちがつすゑであつた。うみれがながつゞき、ふねすゝめるわけにいかないので、苛子崎いらこざきのがげにいかりをおろし、うみのなぎをつてゐる。朝夕あさゆふすゞしくなつても、ひるあつさはまださすがにきびしく、ふね人々ひと/゛\もこの長逗留ながとうりゆう退屈たいくつになつてゐた。こゝは伊勢いせ志摩しま商船しようせんひがしほうときかなら碇泊ていはくするみなとであるから、りくへあがればをまぎらすみせなどもたくさんに出来できてゐるのだが、まさし大事だいじ役目やくめとして、家来けらいたちに上陸じようりくすることをゆるさない。みなとにはまさしふねほかに、なほ一艘いつそうふねならんで碇泊ていはくしてゐた。

345

そのみなと船着ふなつへ、四五人しごにん家来けらいしたがへた役人風やくにんをとこあらはれた。これは近頃ちかごろこのあたりに海賊かいぞくふね往復おうふく人々ひと/゛\をなやましてゐるといふので、碇泊ていはくふねをしらべに役人やくにんである。役人やくにん小舟こぶねつて、まづとなりに碇泊ていはくするふねへこぎつけ、船内せんない調しらべたが、別段べつだん不審ふしんのこともなかつたとえ、ぎにはまさしふね小舟こぶねをつけ、船内せんない調しらべにあがつてた。役人やくにんのようすは横柄おうへいで、まさし少年しようねんであることを軽蔑けいべつしてゐるようにえる。いろいろと調しらべをして、なか/\るようすがない。

346

まさしはこの役人やくにんのようすがしやくさはつた。むつとしたかほ役人やくにんむかひ、
貴君きくん拙者せつしや少年しようねんであるとおもひ、無理難題むりなんだいまをされるとえる。里見さとみいへきこえた八犬士はつけんし一人ひとり犬江新兵衛仁いぬえしんべえまさし手並てなみほどをごらんにれよう。このうへとも難題なんだいまをされるならば、そのまゝではておきまをさぬぞ」
といつて、まへにあつた大錨おほいかりをたやすくせ、両手りようてでやつとげると、さすがの役人やくにんもこの剣幕けんまくにはおどろいた。
「いや拙者せつしやはたゞふね調しらべの役人やくにんでござるゆゑ、これほど厳重げんじゆう調しらべをしなければ、きみまをわけのない次第しだいしからば何人なんびとかお使つかひの一人ひとり拙者せつしやいつしよにわがきみしろまでまゐられ、くはしくきみまをひらきをしていたゞくわけにはまゐるまいか」
と、役人やくにん態度たいどもおとなしくなつてた。

347

まさし正使せいしであつて一時ひとときふねはなれることが出来できない。副使ふくし照文てるぶみ数名すうめい家来けらいしたがへ、この役人やくにんいつしよにしろむかつた。

348

みなと夕方ゆふがたになつた。初秋しよしゆう夕日ゆうひよこからすようにりつけて、ふねなか特別とくべつ暑苦あつくるしい。家来けらいたちはまさしがあまりにきびしいのを、すこうらむような気持きもちになつてゐる。そのときまたどこからか一艘いつそう小舟こぶねいでた。
御存ごぞんじの下戸酒屋上五郎げこざかやじようごろうでござる。眠気ねむけざましの辛酒からざけ甘酒あまざけはどうでござるかな。さかなには章魚たこあしはまぐりもある。さあ/\されい、されい」
こゑをかけた。まさし家来けらいたちは大喜おほよろこびで、すぐに酒売さけうぶねばうとすると、まさしおほきなひらいて、家来けらいたちをしかりとめた。こんならない土地とちで、めつたに酒売さけうりなどのさけんではならないといふのだ。

349

酒売さけうせんでは、さけつてくれそうにないから、となりのふねへいつてまたおなじようにこゑをかける。こゝでは船乗ふなのりどもが、競争きようそうて、おれにも一椀ひとわんまた一椀ひとわんと、辛酒からざけやら甘酒あまざけやらをおもひのまゝにひ、ふねうへ酒盛さかもりをはじめた。酒売さけうりは、まさしふねさけれなかつたはらいせに、悪口あつこうをいつてそのふねひといつしよにさわいでゐるし、なほさらこちらへせびらかすように船乗ふなのりたちは面白おもしろあそんでゐる。

350

まさしふねでは、たまらなくなつた。家来けらいたちはまさしねがひ、やつとのことですこしだけさけふことをゆるされた。酒売さけうりがはこんで甘酒あまざけ家来けらい茶椀ちやわんまさしのところへつてたから、まさし茶碗ちやわんらうとすると、不思議ふしぎにもふところにあつた『じん』のたままもぶくろからて、まさしち、茶碗ちやわんしたちてくだけた。
「さてはこのさけあやしい。油断ゆだんはならぬぞ」
まさしいたときには、さけんだ家来けらいたちはなかにはひつてゐたどくにあてられ、をみはり、よだれながして、うん/\うなつてゐた。

351

まさしいま為方しかたがなく、ともかくも海賊かいぞくすまでは自分じぶんどくにあてられたふうをしてゐようと、そのまゝたふれた様子ようすをしてゐると、となりのふねではふえり、にはかいかりがあげられて、こちらのふねせるつもりらしい。里見さとみふねみやこ大金たいきんつてくことをき、途中とちゆうせをしてゐた海賊かいぞくふねであつたのだ。海賊かいぞくどもは手早てばやくこちらのふねにあがり、あちこちからぼしいものをさがしてゐる。まさしは、「いまはよからう」と、がばとおこし、大音声だいおんじようをあげ、
里見さとみきこえたこのまさしらぬか。いまこそ天罰てんばつおもらせてくれよう」
と、小盗賊ことうぞくどもをかたつぱしからげとばした。

352

そのひまにこの海賊かいぞく大将たいしようえるものが、船底ふなぞこから金箱かねばこし、小盗賊ことうぞくどもがまさしたゝかつてゐるに、すばしこく小舟こぶねつて、はやふねから三間さんげんばかりした。それにづいたまさしは、小盗賊ことうぞく蹴飛けとばしてふね舳先へさきへかけてき、「やつ」とこゑをかけると、義経よしつねのような早業はやわざ盗賊とうぞく小舟こぶねびうつつてゐる。小舟こぶねうへでは海賊かいぞく大将たいしようまさしとのちがはじまつた。

353

この海賊かいぞく海龍王修羅五郎かいりようおうしゆらごろうといひ、西にしくにではならぶものゝないといふつよぞくである。今純友査勘太いますみともさかんたといふぞくいつしよになり、四国しこく州辺きゆうしゆうへんをなやましてゐたが、近頃ちかごろはその城主じようしゆなどがいつしよになり海賊かいぞくふせぐことを厳重げんじゆうにしたから、しばらくこの東海とうかいみなとふねをかくしてゐたのである。修羅五郎しゆらごろうおもつたにまさつた大力だいりきぞくである。さすがのまさしもこれをひとつかみにりおさへることが出来できない。たがひに「えい、えい」声こゑして、ちをしてゐるに、小舟こぶねのことであるから、よこへぐつとかたむいて、二人ふたりからだんだまゝうみなかんだ。修羅五郎しゆらごろう海賊かいぞくだけに、うみりく区別くべつはない。まさし山育やまそだちであつて、うみにはなれない。たゞ『じん』のたまがあるから、うみそこしづまないだけのことだ。まさしのいのちはあぶなくなつた。

354

はなしかはつてこちらはしろむかつた照文てるぶみであるが、役人やくにんいつしよに三十町さんじつちようばかりもくと、役人やくにんみちまよつたといつて、だん/\山道やまみちのわからぬところへんでく。そのとき先方せんぽう木立こだちから五六十人ごろくじゆうにんばかりの盗賊とうぞくが、立派りつぱ武装ぶそうをしてあらはた。このぞく大将たいしようは、いふまでもなく今純友査勘太いますみともさかんたである。照文てるぶみは、いまぞくにあざむかれたことをり、このぞくむかんで、おもひのまゝにぎたふした。そのときまた木立こだちなかから二三百人にさんびやくにん軍兵ぐんぺいあらはれて、このぞくどもをかこんだが、これはまことの城兵じようへいが、海賊かいぞくとらへるためにてゐたのだ。

355

照文てるぶみいつしよにてゐた姨雪与四郎おばゆきよしろうは、ふねのこつたまさし心配しんぱいになつたので、あとのことを照文てるぶみにまかせ、自分じぶんだけはおほいそぎでみなとかへしてた。ふねほうると、なみにもまれながらんでゐる二人ふたりなか一人ひとりは、まぎれもない主人しゆじんまさしである。与四郎よしろうは、さすがに水練すいれんにはたつしてゐる。すぐにをどらせてうみみ、まさしらのそばへちかづくと、短刀たんとういて修羅五郎しゆらごろうはらてた。海賊かいぞくくびなんなくはねられ、まさし小舟こぶねなかすくげられた。このあらそひのあひだ金箱かねばこうみそこち、まさし里見さとみ老侯ろうこうからたまはつた腰刀こしがたなも、どこへしづんだかえなくなつてゐる。それをいた与四郎よしろうは、またもうみなかんだが、しばらくあつてうかびあがり、小舟こぶねへがらつと金箱かなばこげた。腰刀こしがたな安全あんぜんひろげた。そこへ照文てるぶみ一行いつこうかへつてたので、たがひ無事ぶじしゆくひ、ふねもどつて『じん』のたまし、どくにあてられてゐる家来達けらいたちからだをなでると、みなさけいてもとのにかへつた。この災難さいなん与四郎よしろうのゐあはせたのは、まさしうんつよいところであつた。

356

まさし一行いつこうは、みやこへついた。里見家さとみけよりのねがひのすぢとゞけられた。しかし執権しつけん細川政元ほそかはまさもとは、智勇ちゆういでたまさして、東国とうごくへかへすことをしくおもつたから、おゆるしの書面しよめん副使ふくし照文てるぶみたせてくにかへし、まさしだけを自分じぶんやしきなかにとめておいて、いつまでたつてもくにかへることをゆるさない。まさし心配しんぱいになる老人ろうじん与四郎よしろう照文てるぶみ特別とくべつのこしておいた若者わかもの直塚紀二六ひたづかきじろく、そのほか幾人いくにんかの家来けらいだけは、まさしわか旅籠屋はたごやなどにとまつてゐて、まさし政元まさもとゆるされるのをつてゐる。

357

かうしてゐるも、政元まさもとわる家来けらいたちは、相談そうだんをしてまさし武芸競ぶげいくらべをしようとする。ある政元まさもとそのほか役人やくにんらのゐならぶ面前めんぜんで、まさし幾人いくにんかの勇者ゆうしや試合しあひめいぜられた。第一番だいゝちには、たけ五尺ごしやく八九寸はつくすんはある鞍馬海伝真賢くらまかいでんさねかたとの試合しあひ真賢さねかたは、赤樫あかかし木太刀きだちつてむかつてたが、まさし鉄扇てつせんであしらひ真賢さねかたつからせておいて、よい加減かげんとき木太刀きだちおとあし蹴倒けたふした。第二番だいにばん無敵斎経緯むてきさいたてぬき六尺ろくしやくばかりの白樫しろかしぼうをりゆう/\とまはまさしまへ身構みがまへたとおもふと、
犬江氏いぬえうぢしばらくたまへ。拙者せつしやにはか持病じびようきて手足てあしがしびれる。のこをしくはおもふが、勝負しようぶはこのぎのときにいたさう」といひ、がらりとぼうて、びつこをひいてがる。第三番だいさんばん澄月香車介直道すづききようしやのすけなほみちやりつかひの名人めいじんであるが、礫投つぶてなげの名人めいじん紀内鬼平五景紀きのうちきへいごかげとしたすけをりて試合しあひる。澄月すづきまさしとは、馬上ばじようやりあはせた。澄月すづきまさしにさん/゛\にきなやまされ、馬上ばじようにもあやふくなつてゐるとき紀内きのうち小石こいしり、ぱつとまさしげると、まさし澄月すづきやりをからませながらさつとける。小石こいし澄月すづきひたひにあたり、澄月すづきはたまらずうまからちた。紀内きのうち第二ぢいに小石こいしげようとするところへ、すばやくふところ小石こいしつたまさしがぱつとげると、これもひたひたれてうまからちた。第四番だいよばんには、秋篠将曹広当あきしのしようそうひろまさゆみ種子島中大正告たねこじまちゆうたまさのり鉄砲てつぽうまさしゆみそらかりおと競争きようそうだ。地上ちじようちた三羽さんばかりるに、まさしかりだけは羽根はねはれ、一滴いつてきもついてゐない。これもまさしちときまつた。

358

第五番目だいごばんめ悪僧あくそう徳用とくよう堅削けんさく二人ふたりとの試合しあひだ。まづ徳用とくようむかつてる。徳用とくよう八十二斤はちじゆうにきんつゑり、まさし鉄棒てつぼうつて馬上ばじようあらそつたが、まさしははや徳用とくようつゑおとし、徳用とくようをひつつかんで頭上ずじようたかくさしげた。そばにてゐた堅削けんさくは、友達ともだち難儀なんぎをすくふためぼうつてちかゝらうとすると、徳用とくようつてゐた荒馬あらうまけて堅削けんさくをふみたふした。まさしかみ命令めいれいで、徳用とくようげもせず、地上ちじようへおろす。勝負しようぶ立派りつぱについたのである。これを人々ひと/゛\は、まさしのあつぱれな武勇ぶゆうしたいておどろいた。

359

そのころみやこに、竹林巽風たけばやしそんぷうといふ画家がかがあつた。この画家がかはさきに丹波たんば田舎ゐなかにある薬師如来やくしによらいまへんで、てらへあげるとらがくをかきらしをてゝゐたが、人殺ひとごろしをしたゝめむらにゐられなくなり、みやこへにげて画家がかになつてゐたのだ。ある将軍家しようぐんけ金岡かなおかのかいたとつたへられてとらもの御覧ごらんれたいといふので、そのことを政元まさもとねがた。ればそのとらには、ひとみをかきれてない。政元まさもと巽風そんぷうし、巽風そんぷうにこのひとみをかきれることをいひつけた。

360

金岡かなをかのかいた本物ほんものとらは、ひとみれゝばとらるといはれてゐる。巽風そんぷうは、政元まさもとのいひつけに当惑とうわくした。ひとみをかきれて、とらさなければ、ものにせだ。けれどもとらても、たいへんのことである。しかしいひつけはどうにもならないので、巽風そんぷう政元まさもとまへ大胆だいたんにもとらひとみをかきれた。

361

すると不思議ふしぎにもどこからかさつと疾風しつぷういてて、けてあるとらうへげられたとおもふと、そこには額白ひたひしろ斑毛まだらけ大虎おほとら一匹いつぴきつつとつてゐて、まへにゐる巽風そんぷう咽喉のどへかみついた。これは歴史れきしにもかゝれてゐない出来事できごとだ。巽風そんぷうくびをかみきつたとらは、どこともなくそとあるしたが、それを人々ひと/゛\おどろいて、
とらだ、とらだ」
さけびながら、げまどうた。みやこなか大騒おほさわぎになつた。政元まさもとのいひつけでつよ家来けらいたちが大勢おほぜい兵士へいしをつれてとらとらへにかけたけれど、日頃ひごろわる家来けらいたちは、とらころされたり、同志打どうしうちをしたり、さん/゛\のめにあつた。政元まさもとも、いまは虎退治とらたいじこまりはてゝゐる。

362

まさしはよいをりであるとおもつて、虎退治とらたいじ政元まさもとねがた。もしも自分じぶんひとりで虎退治とらたいじ出来できたなら、自分じぶん東国とうごくへかへしてもらひたいといふのである。政元まさもともいまはいたかたなくまさしねがひをゆるしたから、まさしよろこいさみ、うままたがつてやしきた。さきとらのすむといふうはさ白川山しらかはやまである。にはゆみ二本にほんつてゐる。与四郎よしろう紀二六きじろくは、これもあとからつかけてた。

363

つきえたふゆであつた。まさし白川しらかはやまをあちこちさがしてまはると、まがふところのない大虎おほとらが、きばをならしつめをみがいてまさしまへあらはれた。まさしすこしもおどろかない。一本いつぽんりふつとると、見事みごととらひだり、あまつたやじりはうしろの赤松あかまつみきつた。それをかうととらのもがくところへまさし第二だいにんでて、今度こんどみぎとら二本にほん赤松あかまつみきとめられてしまつた。うまからおりてまさしが、こぶしをかためとら眉間みけんつと、とらはそのまゝいきたえたようすである。まさしとらとめたしるしに、その片耳かたみゝをきりり、それをつてすぐにみやこひがし関所せきしよかつた。

364

関所せきしよひと証拠しようことしてせるため、まさしがこの片耳かたみゝさうとすると、どこで紛失ふんしつしたか見当みあたらない。しばらく関所せきしよ人達ひとたちあらそつてゐるところへ、いそいでかけつけてたのはまさし家来けらい政元まさもと一行いつこうである。政元まさもとがこのとら退治たいじした場所ばしよ調しらべてゐると、のないとらはいつのにか、政元まさもと家来けらいつてものなかかへつてゐたのだ。まさしつた片耳かたみゝも、られたきずがついたゞけで、そのまゝなかかへつてゐた。

365

    里見家さとみけ八犬士はつけんし

366

犬江親兵衛いぬえしんべえかへつてたので、里見家さとみけにはまためでたく八犬士はつけんしそろつた。この勇士ゆうしがゐるあひだは、里見家さとみけはどこの軍勢ぐんぜいたゝかつてもおそれることがない。関東かんとう諸領主しよりようしゆたちは、里見さとみのこの威勢いせいをにくんで、同盟軍どうめいぐんをつくり、りくからうみからめてたが、いづれも八犬士はつけんしひきゐるぐんやぶられ、ほうほうのていげねばならなかつた。

367

そのとき京都きようとからは使つかひがくだつて、義成親子よしなりおやこくらゐすゝめられることがたつせられた。この使つかひの骨折ほねをりで、里見さとみ関東かんとう同盟軍どうめいぐん仲直なかなほりをした。里見さとみ諸国しよこくんで領地りようちをひろげようとはかんがへてゐない。その里見さとみ領地りようちさかえて、国内こくない誰一人たれひとりよろこばぬものがない。八犬士はちけんしには、義成公よしなりこう八人はちにん姫君ひめぎみがそれ/゛\つまとしてめあはされ、なほそれ/゛\にしろひとつづつおくられた。

368

八犬士はちけんし子供こどもみ、その子供こどもおほきく生長せいちようして自分じぶんたちは老人ろうじんとなつたときに、その子供達こどもたちにあとをゆづつて富山とみやまり、いほりむすんでんでゐた。ほんとうの仙人せんにんのようならしであつた。その庵室あんしつうたときには、仙人せんにんのような八犬士はちけんしはいづこへつたものか、その姿すがたやまえなかつた。 をはり

(奥付)
日本児童文庫
昭和五年九月十三日印刷
昭和五年九月十六日発行
八犬伝物語

〔非売品〕
版権所有
訳著者    土田杏村
編集兼発行者 東京市神田区今川小路二ノ一        北原鉄雄
印刷者    東京市小石川区久堅町一〇八        君島 潔
印刷所    東京市小石川区久堅町一〇八        共同印刷株式会社
発行所    東京市神田今川小路二ノ一        アルス        電話 九段二一七五・二一七六番
製本・杉村




使用したテキストファイル
 J−TEXT 子ども向け読み物
    八犬伝物語   HTMLファイル(読み仮名付き版)
底本データ
 書名:日本児童文庫『八犬伝物語』
 底本発行年:昭和57年
 発行所:名著普及会   
 底本の親本:昭和5年9月16日発行   アルス発行
校正者:菊池真一


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