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『「変体がな」のコード化』へのご意見に対して

平成17年11月27日
今井安貴夫

「karpa's―非行非善」では、『「変体がな」のコード化について』を引用して、「少し」と言いながらも、かなり詳しくお考えを述べていらっしゃいます。それを読ませていただいてまず感じたことは、私の拙文のせいでもあるのかもしれませんが、肝心な点を十分理解していただいてないのではないか、ということでした。そこで、お節介だとは思いますが、「変体がなのコード化」で述べたかったことの要点を示しておきたいと思います。

[非行非善]2005年11月14日の記事で、『假名はあくまで漢字の書法の一流派、すなはち楷書だの行書だのの仲間にすぎなくて、區別は困難どころか不可能である』と述べています。

「かな」は元をただせば漢字であるのですから、これは改めて言うまでもなく至極当然なことです。ただ、現実に眼をやれば私たちが文章を書くときは、いわゆる「漢字かな交じり文」で記し、その時、明らかに「漢字」と「かな」とを、異なった文字と認識して使っています。コンピュータで文字を処理するときも、「漢字」と「かな」を区別して処理します。「漢字」と「かな」には別々の文字コードをわりあてて処理しています。本来「漢字」と「かな」とは同じ仲間なのに、現実的には「漢字」と「かな」とは別の文字として扱われているのです。この現実を改めて認識しておくことが、考えの出発点になります。

いわゆる「かな」と呼ばれている文字への変化の過程は、連続したものであります。ある日突然「かな」というまったく別の文字が誕生したというわけではありません。しかし、現実的には「漢字」と「かな」が別の文字として扱われているため、私たちは文字変化の連続性ということを忘れてしまっています。このような現状は、文化の継承という面からみれば憂うべき状態だと言うべきでしょう。

時の流れが連続しているように、文化の変化も連続して生じます。大風呂敷を広げるようですが、そのような文化の連続性を意識の片隅に持つためには、たとえば文字変化の連続性をイメージとして持っていることが役に立ちます。イメージとして持つことが、さらに人類の知的遺産を継承し、新しい世代がそれを土台にして次の文化を生み出すくことにつながっていくのだと思います。私たちは、文字変化の連続性ということを頭の片隅に置きながら、文字を使っていく必要があります。

現代の私たちは、「漢字」と「かな」とを非連続の文字として扱ってしまっています。そこで、文字変化の連続性を意識の中に取り戻すため、「変体がな」に復活してもらう必要があるのです。「漢字」と「かな」の間に横たわる深い溝を埋める役割を「変体がな」に担ってもらう必要があるのです。つまり、「漢字」と 「かな」との中間に位置するものとして「変体がな」を取り上げ、それを「漢字」と「かな」とは別の文字として扱い、さらに別のコード番号を付与するのです。

「変体がな」を以上のように扱うことによって、IMEの辞書にも現行の「かな」の他に「変体がな」が含まれるようになります。例えば、明治中頃までよく使われていた「尓」の「変体がな」が、キーボードから読みとして「に」を入力して変換キーを押せば、候補文字として表示されるようになります。このようにコード体系の中に「変体がな」が含まれているだけで、知らず知らずのうちに私たちの目に触れるようになっていきます。私たちの身近に存在する文字となっていきます。「かな文字」の多様性、文字変化の連続性ということにも、心が向くことにもなるでしょう。

「変体がな」のコード化ということは、『不可能』と決めつけてしまうことなどできない重要な問題であり、一時的な『情報交換の阻害』となるものと一蹴してしまい、根本的な解決を避けてしまってよい問題などではありません。