ゐざり車

明治32年9月10日  正岡子規


ゐざり車
                       (子規)

東京の町はいつも同じ事なり。半年や一年にいちじるく変る者に非ず。埃立つ路、高く低き家、同じ町には大方同じ店、同じ店には大方同じ品物を並べて、何の珍らしげもなけれど、たまたま田舎より出でたる者はいと興ありげに彳【たたず】みて、時計屋の店に人形の搖くを不思議さうにながめ、細工場の前に機械運転を見てすばらしきものに思ふらん。吾も束京を見たき一人なり。

八月廿三日快晴、風少し。朝、歌話を書かんとて歌の本など取り散らし見る。始めて田安宗武の歌を見るに万葉調にして趣向斬新なり。実朝以後歌人無しと忍びしに俄に此人を得て驚喜雀躍に堪へず。吾は余りの嬉しさに虚子を猿楽町に訪はんと思ひ立ちぬ。

歌謡を草し了りて昼餉したためんとせしに、ここらを徘徊するのら猫は貧しき厨より一尾の魚を奪ひ去りたりとてののしり騒ぐ。

殊に熱き日なりければ三時過ぎて人車に載せられ出づ。三月彼岸に虚子を訪ひて風引きしこのかた、始めての外出なり。

新坂より坂本に通ずる路、前はヤツチャ場と称へし処、町真直に幅広くなりて全く昔の様にあらず。滄桑の変なり。

上野は変りたる処無し。只こゝらを歩行き居る西洋人のいと嬉しげに見ゆるは内地雑居のためにやと思ふも我心からなるべし。

パノラマの前の楽隊、幕取りのけてあらはなるに興さめて、我家で遠音聞く程に面白からず。

弁天へ下りる石段は此春普請中なりしが出来上りたるは今見たり。

裏町にて砂利小石などを箱に入れて売るを見たり。

洽集館は南明館と変り居たり。

虚子の家に着く。虚子在らず。今マー坊をつれて写真取りに行きしが最う帰る程なり、と妻なる人の、そこらに出し散らかしたる新聞のとぢ込みを片寄せ押しやりつつ言ふ。

寝ころびて見る。庭の木の枝に貧乏徳利を掛けて下に玩具の噴水器をしかけたり。但し今は水を噴かず。此吹き出しの口を漏斗にせば面白からんと笑へば、あの口へ球をあてがへ置けば水の力にて高く吹きあぐるなり、と妻なる人言ふ。どれだけの高さに、問へば、これ位と手まねして答ふ。

此珍客、吾のために此玩具の運転を始めて、細工場の器械が田舎者を慰むるが如く、もてなさるゝ事もやと待ちまうけしが、終に失望せり。

簾の高く捲きたるに、廻り燈籠の透いて見えたり。

「太陽」を開きて江馬天江といふ翁の白き長き鬚など見居る内、虚子は子を抱きて、重し重しといひつつ帰り来れり。

今日此頃吾の来ることを思ひまうけざりけむ驚き喜びて話す。吾も、宗武を得たる嬉しさを述ぶ。

妻なる人、氷はいかに、といふ。そはわろし、と虚子いふ。アイスクリームは、といふ。虚子、それも、といはんとするを打ち消して、食ひたし、と吾は無遠慮に言ひぬ。誠は日頃此物得たしと思ひしかど根岸にては能はざりしなり。二杯を喫す。此味五年ぶりとも六年ぶりとも知らず。

ベルモットを飲む。これも十年ぶり位なるべし。

マー坊は去年三月生れなり。僅かに一二の語を解す。其他はわけの分らぬ事を父に向ひて、意味ありげに喃々と説く。いと可愛し。喜んでベルモットを飲み、尽くれば又コップを父の顔につきつけてねだる。吾も子供一人ほしく思ふ。

虚子、飄亭を呼びにやる。

又宗武の歌をおろ覚えに覚えたる限りいひ聞かす。

虚子、日蓮の伝を取り出だして、頻に日昭、日朗の事をいふ。

飄亭来る。どうして来た、といふ。宗武にうかされて来たといふ。

西洋料理をもてなさる。

灯を点す。

雄美来る。

歌の話、小説の話、表具の話、床の間の沿革の話、きのふ黒鯛を釣ったといふ話、俳僧が弟子をつれて行脚に行くといふ話、許六の辞世が面白いといふ話、此頃は俳句が出来ぬといふ話、松山には盆踊が無くて獅子舞があるといふ話、話の種は尽くる事無し。

廻り燈籠には灯をともさゞりき。

吾を送る車の門に来りし頃恰も驟雨は月夜ながらに襲ひ来りぬ。

雨は悪からず、雨曇りがいやなりといへば、飄亭は風がいやなりといふ。盆の月の善かりし事など話す内に雨の音やみければ這ひ出づ。

車は駿河台に上る。

巻煙草に火のつきたるを持ちて大手ふりつゝ急ぎ足に行く人闇に見ゆ。

月薄く雲間にありて、稲妻は北の方に頻りなり。

稲妻十句をものせんと思ひつゝ、そろそろと引かれ行く。

  稲妻や足場掛けたる蔵の間

御茶の水橋を渡り、女子師範学校横手を真直に行く。

調子外れて大きなる石門の家あり

枳穀寺につきあたる。

池の端に出づ。

  町を出でゝ稲妻広し森の上

  稲妻のする時雲の形かな

  稲妻のひらめく水の映りかな

  稲妻の遠くに光る月夜かな

待合の楼上に三味の音聞えて、下には石炭箱を叩く仮声つかひあり。此光景吾覚えてより同じ事なり。此後何年たゝば変るべきか。

三橋に出づ。

上野に上る。入口の左の木陰暗き処に人二人ちひさく屈まりて黙ってつゐ居り。吉か凶か。

  稲妻の木がくれなりぬ森に入る

  稲妻の世を観すらん大仏

句作に苦痛を紛らしてやうやく草庵に帰り着きぬ。十句に足さんとて

  稲妻や一本杉の右左

  稲妻や飛魚飛んで海暗

  稲妻や燈台番の妻一人

車に揺られしためか、食ひ過ぎしためか、夜の空気に触れしためか、此夜、寝つきあしかりき。




■このファイルについて
標題:ゐざり車
著者:正岡子規
本文:「ほととぎす」 第二巻第十二号 明治32年9月10日

○漢字は現行の字体にかえた。
○本文の仮名づかいは、原文通りとした。ただしファイル作成時に補ったふりがなは、【  】の中に入れ現代仮名づかいで示した。
○「子規全集(講談社)」では、段落の頭は一字分空けているが、「ほととぎす」掲載時は、一字分空けていない。その当時はこのような表記の仕方であったのであろう。里実文庫の表記法と一致していることでもあるので、「ほととぎす」の表記法をそのまま採用する。
○明らかに誤植と考えられる箇所は、「子規全集(講談社)」を参照して修正した。修正したものについては、〔 〕に入れて示した。
○改段は、1行空けることで示した。
○繰り返し記号は、ひらがな一字の場合は「ゝ」、漢字一字の場合は「々」をそのまま用いた。ただし二字以上の場合は、反復記号は用いず同語反復で表記した。

入力:里実福太朗
ファイル作成:里実工房
公開:2002年10月11日