飯待つ問

明治32年10月10日  正岡子規


   飯待つ問
                子 規

余は昔から朝飯を食はぬ事にきめて居る故病人ながらも腹がへつて昼飯を待ちかねるのは毎日の事である。今日ははや午砲が鳴つたのにまだ飯が出来ぬ。枕もとには本も硯も何も出て居らぬ。新聞の一枚も残つて居らぬ。仕方が無いから蒲団に頬杖ついたまゝぼんやりとして庭をながめて居る。

をとゝひの野分のなごりか空は曇つて居る。十本ばかり並んだ鶏頭は風の害を受けたけれど今は起き直つて真赤な頭を揃へて居る。一本の雁来紅【はげいとう】は美しき葉を出して白い干し衣に映つて居る。大毛蓼【おおけたで】といふものか馬鹿に丈が高くなつて薄赤い花は雁来紅の上にかぶさつて居る。

さつき此庭へ三人の子供が来て一匹の子猫を迫ひまはしてつかまへて往つたが、彼等はまだ其猫を持て遊んで居ると見えて垣の外に騒ぐ声が聞える。竹か何かで猫を打つのであるか猫はニヤーニヤーと細い悲しい声で鳴く。すると高ちヤんといふ子の声で「年ちヤんそんなに打つと化けるよ化けるよ」と稍気遣はしげにいふ。今年五つになる年ちヤんといふ子は三人の中の一番年下であるが「なに化けるものか」と平気にいつて又強く打てば猫はニヤーニヤーといよく窮した声である。三人で暫く何か言つて居たが、やがて年ちヤんといふ子の声で 「高ちヤんくそんなに打つと化けるよ」と心配さうに言つた。今度は六つになる高ちヤんといふ子が打つて居るのと見える。やゝあつて皆々笑つた。年ちヤんといふ子が猫を抱きあげた様子で「猫は、猫は、猫は宜しうござい」と大きな声で呼びながらあちらへ往つてしまつた。

飯はまだ出来ぬ。

小い黄な蝶はひらひらと飛んで来て干し衣の裾を廻つたが直ぐまた飛んで往て遠くにあるおしろいの花を一寸吸ふて終に萩のうしろに隠れた。

籠の鶉【うずら】もまだ昼飯を貰はないのでひもじいと見えて頻りにがさがさと籠を掻いて居る。

台所では皿徳利などの物に触れる音が盛んにして居る。

見る物がなくなつて、空を見ると、黒雲と白雲と一面に丑寅の方へずんずんと動いて行く。次第に黒雲が少くなつて白雲がふゑて往く。少しは青い空の見えて来るのも嬉しかつた。

例の三人の子供は復【また】我垣の外迄帰つて来た。今度はごみため箱の中へ猫を入れて苦しめて喜んで居る様子だ。やがて向ひの家の妻君、即ち高ちヤんといふ子のおツかさんが出て来て「高ちヤん、猫をいぢめるものぢヤありません、いぢめると夜化けて出ますよ、早く逃がしておやりなさい」と叱つた。すると高ちヤんといふ子は少し泣き声になつて「猫をつかまへて来たのはあたいぢヤ無い年ちヤんだよ」といひわけして居る。年ちヤんといふ子も間が悪うて黙〔點〕つて居るか暫く静かになつた。

くワツと畳の上に日がさした。飯が来た。


子規子より「飯待つ間」の原稿送り来されたる同封中に猫の写生画二つあり。一は顔にして、一は尻高く頭低く丸くなりて臥しゐるところなり。其の画の周囲に次の如き文章あり。もとより一時の戯れ書きに過ぎざれど、「飯待つ問」と相照応して面白く覚えたれば爰に載録す。写生画も亦た子規子の画として面白けれど載すること能はざるは遺憾なり。(虚子記)


明治三十二年十月九日「飯待つ間」といふ原稿書き了へし処に、彼子猫はやうやくいたづら子の手を逃れたりとおぼしくゆうゆうと我家に上り我横に寝居る蒲団の上、丁度我腹のあたりに蹲【うずくま】りてよごれ乱れたる毛を嘗【な】め始めたり。妹は如何思ひけん絲に小き球をつけて之を猫の目の前にあちこちと振りつゞけしかば、猫は舌を収めて首傾け一心に球を見つめ居る、そこを写生したるなり。然るに僅に首だけ写し了りし時、絲切れて球動かざりしかば疲れに疲れたる猫は其まゝ身を蒲団の谷あひに横たへ顔を尻の処へ押しつけて寝入りぬ。其様尻高く頭低く寝苦しかるべき様なり。我はそを見下しながらに右の方の図を作る。写して正に了る時妹再び来りて猫をつまみ出しぬ。猶追へども去らず、再び何やらにて大地に突き落しぬ。猫は庭の松の木に上りて枝の上に蹲りたるまゝいと平らなる顔にてこなたを見おこせたり。斯くする間此猫一たびも鳴かざりき。




■このファイルについて
標題:飯待つ問
著者:正岡子規
本文:「ほととぎす」 第三巻第一号 明治32年10月10日

○漢字は現行の字体にかえた。
○本文の仮名づかいは、原文通りとした。ただしファイル作成時に補ったふりがなは、【  】の中に入れ現代仮名づかいで示した。
○「子規全集(講談社)」では、段落の頭は一字分空けているが、「ほととぎす」掲載時は、一字分空けていない。その当時はこのような表記の仕方であったのであろう。里実文庫の表記法と一致していることでもあるので、「ほととぎす」の表記法をそのまま採用する。
○明らかに誤植と考えられる箇所は、「子規全集(講談社)」を参照して修正した。修正したものについては、〔 〕に入れて示した。 ○改段は、1行空けることで示した。
○繰り返し記号は、ひらがな一字の場合は「ゝ」、漢字一字の場合は「々」をそのまま用いた。ただし二字以上の場合は、反復記号は用いず同語反復で表記した。

入力:里実福太朗
ファイル作成:里実工房
公開:2002年8月31日