みだれ髪

與謝野晶子




 
     みだれ髪

          ー明治三十四年八月十五日
 
               鳳晶子の名にて発行
 
 
     臙脂紫

 
1
夜のちゃうにささめき尽きし星の今を下界げかいの人の鬢のほつれよ




2
歌にきけな誰れ野の花に紅きいなむおもむきあるかな春罪はるつみもつ子




3
かみ五尺ときなば水にやはらかき少女をとめごころは秘めて放たじ




4
血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな




5
椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃いろももに見る




6
その子二十はたち櫛にながるる黒髮のおごりの春のうつくしきかな




7
堂の鐘のひくきゆふべを前髮の桃のつぼみにきやうたまへ君




8
紫にもみうらにほふみだればこをかくしわづらふ宵の春の神




9
臙脂色ゑんじいろは誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりのいのち




10
紫の濃き虹説きしさかづきにうつる春の子眉毛まゆげかぼそき




11
紺青こんじやうを絹にわが泣く春の暮やまぶきがさねとも歌ねびぬ




12
まゐる酒にあかき宵を歌たまへをんなはらから牡丹に名なき




13
海棠にえうなくときしべにすてて夕雨ゆふさめみやるひとみよたゆき




14
水にねし嵯峨の大堰おほゐのひと夜神よがみ絽蚊帳ろがやの裾の歌ひめたまへ




15
春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髮か梅花ばいくわのあぶら




16
今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾みすそさはりてわが髮ぬれぬ




17
細きわがうなじにあまる御手みてのべてささへたまへな帰る夜の神




18
清水きよみづ祇園ぎをんをよぎる桜月夜さくらづきよこよひ逢ふ人みなうつくしき




19
秋の神の御衣みけしより曳く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ




20
きやうはにがし春のゆふべを奧の院の二十五菩薩歌うけたまへ




21
山ごもりかくてあれなのみをしへよべにつくるころ桃の花さかむ




22
とき髮にむろむつまじの百合のかをり消えをあやぶむ夜の淡紅色ときいろ




23
雲ぞ青き来し夏姫なつひめが朝の髮うつくしいかな水に流るる




24
夜の神の朝のり帰る羊とらへちさき枕のしたにかくさむ




25
みぎはくる牛かひ男歌あれな秋のみづうみあまりさびしき




26
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君




27
許したまへあらずばこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき




28
わすれがたきとのみに趣味しゆみをみとめませ説かじ紫その秋の花




29
人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴をごとにもたす乱れ乱れ髮




30
たまくらにびんのひとすぢきれし小琴をごとと聞きし春の夜の夢




31
春雨にぬれて君こし草のかどよおもはれ顏の海棠の夕




32
ぐさいひぬ『酔へる涙の色にさかむそれまで斯くて覚めざれな少女をとめ




33
牧場いでて南にはしる水ながしさても緑の野にふさふ君




34
春よ老いな藤によりたる舞殿まひどのゐならぶ子らよつか老いな




35
雨みゆるうき葉しらはす絵師の君に傘まゐらする三尺の船




36
御相みさういとどしたしみやすきなつかしき若葉わかば木立だちなか蘆遮那仏るしやなぶつ




37
さて責むな高きにのぼり君みずやあけの涙の永劫えいがうのあと




38
春雨にゆふべのみやをまよひ出でし小羊君こひつじきみをのろはしの我




39
ゆあみする泉の底の小百合花さゆりばな二十はたちの夏をうつくしと見ぬ




40
みだれごこちまどひごごちぞ頻なる百合ふむ神に乳おほひあへず




41
くれなゐの薔薇ばらのかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな




42
旅のやど水に端居はしゐの僧の君をいみじと泣きぬ夏の夜の月




43
春の夜のやみなかくるあまき風しばしかの子が髮に吹かざれ




44
水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君




45
誰ぞゆふべひがし生駒いこまの山の上のまよひの雲にこの子うらなへ




46
悔いますなおさへし袖に折れしつるぎつひの理想おもひの花にとげあらじ




47
ぬかごしにあけの月みる加茂川の浅水色あさみづいろのみだれ藻染もぞめ




48
御袖みそでくくりかへりますかの薄闇うすやみ欄干おばしま夏の加茂川の神




49
なほ許せ御国遠くば御神みかみ紅盃船べにざらふねに送りまゐらせむ




50
狂ひの子われにほのほはねかろき百三十里あわただしの旅




51
今ここにかへりみすればわがなさけやみをおそれぬめしひに似たり




52
うつくしき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果してし今




53
わかき小指をゆび胡紛ごふんをとくにまどひあり夕ぐれ寒き木蓮の花




54
ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鴬




55
ふしませとそのさがりし春の宵衣桁いかうにかけし御袖かつぎぬ




56
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす




57
しのび足に君を追ひゆく薄月夜うすづきよ右のたもとの文がらおもき




58
紫に小草をぐさが上へ影おちぬ野の春かぜに髪けづる朝




59
絵日傘をかなたの岸の草になげわたる小川よ春の水ぬるき




60
しら壁へ歌ひとつ染めむねがひにて笠はあらざりき二百里の旅




61
嵯峨の君を歌に仮せなの朝のすさびすねし鏡のわが夏姿




62
ふさひ知らぬ新婦にひびとかざすしら萩に今宵の神のそと片笑かたゑみし




63
ひと枝の野の梅をらば足りぬべしこれかりそめのかりそめの別れ




64
鴬は君が声よともどきながら緑のとばりそとかかげ見る




65
紫の紅のしたたり花におちて成りしかひなの夢うたがふな




66
ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清瀧きよたき夜の明けやすき




67
紫の理想りさうの雲はちぎれちぎれ仰ぐわが空それはた消えぬ




68
乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き




69
神のせなにひろきながめをねがはずや今かたかたの袖ぞむらさき




70
とや心朝の小ごとの四つの緒のひとつを永久とはに神きりすてし




71
ひく袖に片笑かたゑみもらす春ぞわかき朝のうしほの恋のたはぶれ




72
くれの春隣すむ画師ゑしうつくしき今朝けさ山吹に声わかかりし




73
郷人さとびとにとなりやしきのしら藤の花はとのみに問ひもかねたる




74
人にそひてしきみささぐるこもりづま母なる君を御墓みはかに泣きぬ




75
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな




76
おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る




77
ゆあみして泉を出でしやははだにふるるはつらき人の世のきぬ




78
売りし琴にむつびの曲をのせしひびき逢魔あふまがどきの黒百合折れぬ




79
うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風よかぜの青き




80
恋ならぬめざめたたずむ野のひろさ名なし小川のうつくしき夏




81
このおもひ何とならむのまどひもちしその昨日きのふすらさびしかりし我れ




82
おりたちてうつつなき身の牡丹見ぬそぞろやよるを蝶のねにこし




83
その涙のごふゑにしは持たざりきさびしの水に見し二十日月はつかづき




84
旅の身の大河おほかはひとつまどはむやしづかに日記の里の名けしぬ(旅にて)




85
小傘をがさとりて朝の水くむ我とこそ穂麦ほむぎあをあを小雨ふる里




86
おとに立ちて小川をのぞく乳母うば小窓こまど小雨こさめのなかに山吹のちる




87
恋か血か牡丹に尽きし春のおもひとのゐの宵のひとり歌なき




88
長き歌を牡丹にあれの宵の殿おとど妻となる身の我れぬけ出でし




89
三月みつきおかぬ琴に音たてぬふれしそぞろの宵の乱れ髪




90
いづこまで君は帰るとゆふべ野にわが袖ひきぬはねあるわらは




91
ゆふぐれの戸に寄り君がうたふ歌『うき里去りて徃きて帰らじ』




92
さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ




93
君が歌に袖かみし子を誰と知る浪速なにはの宿は秋寒かりき




94
その日より魂にわかれし我れむくろ美しと見ば人にとぶらへ




95
今の我に歌のありやを問ひますななき纖絃ほそいとこれ二十五げん




96
神のさだめ命のひびきつひの我世ことをのうつ音ききたまへ




97
人ふたり無才ぶさいの二字を歌に笑みぬこひ二万ねんながき短き




 
     蓮の花船
 
98
漕ぎかへるゆふ船おそき僧の君紅蓮ぐれんや多きしらはすや多き




99
あづまやに水のおときく藤の夕はづしますなのひくき枕よ




100
御袖ならず御髪のたけときこえたり七尺いづれしら藤の花




101
夏花のすがたは細きくれなゐに真昼まひるいきむの恋よこの子よ




102
肩おちてきやうにゆらぎのそぞろ髪をとめ有心者うしんじゃ春の雲こき




103
とき髪を若枝わかえにからむ風の西よ二尺足らぬうつくしき虹




104
うながされてみぎはやみに車おりぬほの紫の反橋そりはしふぢ




105
われとなくをさの手とめしかどうた姉がゑまひの底はづかしき




106
ゆあがりのみじまひなりて姿見に笑みし昨日きのふの無きにしもあらず




107
人まへを袂すべりしきぬでまり知らずと云ひてかかへてにげぬ




108
ひとつはこにひひなをさめてふたとぢて何となきいき桃にはばかる




109
ほの見しは奈良のはづれの若葉宿わかばやどうすまゆずみのなつかしかりし




110
あけに名の知らぬ花さく野の小道こみちいそぎたまふな小傘をがさ一人ひとり




111
くだり船昨夜よべ月かげに歌そめし御堂みどうの壁も見えず見えずなりぬ




112
師の君の目を病みませるいほの庭へうつしまゐらす白菊の花




113
文字ほそく君が歌ひとつ染めつけぬ玉虫たまむしひめし小筥こばこふた




114
ゆふぐれを籠へ鳥よぶいもうとの爪先つまさきぬらす海棠の雨




115
ゆく春をえらびよしある絹袷衣きぬあはせねびのよそめを一人ひとりに問ひぬ




116
ぬしいはずとれなの筆の水の夕そよ墨足らぬ撫子なでしこがさね




117
母よびてあかつき問ひし君といはれそむくる片頬柳にふれぬ




118
のろひ歌かきかさねたる反古ほごとりて黒き胡蝶をおさへぬるかな




119
ぬかしろき聖よ見ずや夕ぐれを海棠に立つ春夢見姿はるゆめみすがた




120
笛の音に法華経うつす手をとどめひそめし眉よまだうらわかき




121
白檀のけむりこなたへ絶えずあふるにくき扇をうばひぬるかな




122
母なるが枕経まくらぎゃうよむかたはらのちひさき足をうつくしと見き




123
わが歌にひとみのいろをうるませしその君去りて十日たちにけり




124
かたみぞと風なつかしむ小扇のかなめあやふくなりにけるかな




125
春の川のりあひ舟のわかき子が昨夜よべとまりの唄ねたましき




126
泣かで急げやは手にはばき解くえにしえにし持つ子の夕を待たむ




127
燕なく朝をはばきの紐ぞゆるき柳かすむやそののめぐり




128
小川われ村のはづれの柳かげに消えぬ姿を泣く子あさ




129
鴬に朝寒からぬ京の山おち椿ふむ人むつまじき




130
道たまたま蓮月が庵のあとに出でぬ梅に相行く西の京の山




131
君が前に李春蓮説くこの子ならずよき墨なきを梅にかこつな




132
あるときはねたしと見たる友の髪に香の煙のはひかかるかな




133
わが春の二十姿はたちすがたと打ぞ見ぬ底くれなゐのうす色牡丹




134
春はただ盃にこそぐべけれ智慧あり顏の木蓮や花




135
さはいへど君が昨日きのふの恋がたりひだり枕の切なき夜半よ




136
人そぞろ宵の羽織の肩うらへかきしは歌か芙蓉といふ文字




137
琴の上に梅の実おつる宿の昼よちかき清水に歌ずする君




138
うたたねの君がかたへの旅づつみ恋の詩集の古きあたらしき




139
戸に寄りて菖蒲あやめる子がひたひ髪にかかる薄靄うすもやにほひある朝




140
五月雨さみだれもむかしに遠き山の庵通夜つやする人に卯の花いけぬ




141
四十八そのひとてらの鐘なりぬ今し江の北雨雲あまぐもひくき




142
人の子にかせしは罪かわがかひな白きは神になどゆづるべき




143
ふりかへり許したまへの袖だたみやみくる風に春ときめきぬ




144
夕ふるはなさけの雨よ旅の君ちか道とはで宿とりたまへ




145
いはをはなれ谿たにをくだりて躑躅つつじをりて都の絵師と水に別れぬ




146
春の日を恋に誰れ寄るしら壁ぞ憂きは旅の子藤たそがるる




147
あぶらのあと島田のかたと今日けふ知りし壁にすもゝの花ちりかかる




148
うなじ手にひくきささやき藤の朝をよしなやこの子行くは旅の君




149
まどひなくて経ずする我と見たまふか下品げぼんほとけ上品じやうぼんほとけ




150
ながしつる四つの笹舟ささぶね紅梅を載せしがことにおくれて徃きぬ




151
奧ののうらめづらしき初声うぶごゑに血の気のぼりしおもまだ若き




152
人の歌をくちずさみつつ夕よる柱つめたき秋の雨かな




153
小百合さく小草がなかに君まてば野末にほひて虹あらはれぬ




154
かしこしといとなみいひて我とこそその山坂を御手に寄らざりし




155
鳥辺野は御親の御墓あるところ清水坂きよみづざかに歌はなかりき




156
御親まつる墓のしら梅なかに白く熊笹くまざさ小笹をざさたそがれそめぬ




157
をとこきよし載するに僧のうらわかき月にくらしのはす花船はなぶね




158
経にわかき僧のみこゑの片明かたあかり月の蓮船はすぶね兄こぎかへる




159
浮葉きるとぬれし袂のあけのしづくはすにそそぎてなさけ教へむ




160
こころみにわかき唇ふれて見れば冷かなるよししら蓮の露




161
明くる夜の河はばひろき嵯峨のらんきぬ水色の二人ふたりの夏よ




162
藻の花のしろきを摘むと山みづに文がらぢぬうすものの袖




163
牛の子を木かげに立たせ絵にうつす君がゆかたに柿の花ちる




164
誰が筆に染めし扇ぞ去年までは白きをめでし君にやはあらぬ




165
おもざしの似たるにまたもまどひけりたはぶれますよ恋の神々かみがみ




166
五月雨に築土ついぢくづれし鳥羽殿とばどののいぬゐの池におもだかさきぬ




167
つばくらのはねにしたたる春雨をうけてなでむかわが朝寝髪




168
しら菊を折りてゑまひし朝すがた垣間みしつと人の書きこし




169
八つ口をむらさき緒もて我れとめじひかばあたへむ三尺の袖




170
春かぜに桜花ちる層塔そうたふのゆふべを鳩の羽に歌そめむ




171
憎からぬねたみもつ子とききし子の垣の山吹歌うて過ぎぬ




172
おばしまのその片袖ぞおもかりし鞍馬を西へ流れし霞




173
ひとたびは神より更ににほひ高き朝をつつみしねり下襲したがさね




 
     白百合
 
174
月の夜のはすのおばしま君うつくしうら葉の御歌みうたわすれはせずよ




175
たけの髪をとめ二人ふたりに月うすき今宵しらはす色まどはずや




176
荷葉はすなかば誰にゆるすのかみ御句みく御袖みそで片取かたとるわかき師の君




177
おもひおもふ今のこころに分ち分かず君やしら萩われやしろ百合




178
いづれ君ふるさと遠き人の世ぞと御手はなちしは昨日きのふの夕




179
三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先づ云ひぬ西の京の宿




180
今宵こよひまくら神にゆづらぬやは手なりたがはせまさじ白百合の夢




181
夢にせめてせめてと思ひその神に小百合の露の歌ささやきぬ




182
次のまのあま戸そとくるわれをよびて秋の夜いかに長きみじかき




183
友のあしのつめたかりきと旅の朝わかきわが師に心なくいいひぬ




184
ひとまおきてをりをりもれし君がいきその夜しら梅だくと夢みし




185
いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人ふたり一人ひとり




186
もろ羽かはし掩ひしそれも甲斐なかりきうつくしの友西の京の秋




187
星となりて逢はむそれまで思ひ出でな一つふすまに聞きし秋の声




188
人の世に才秀でたるわが友の名の末かなし今日けふ秋くれぬ




189
星の子のあまりによわし袂あげて魔にも鬼にも勝たむと云へな




190
百合の花わざと魔の手に折らせおきて拾ひてだかむ神のこころか




191
しら百合はそれその人の高きおもひおもわはにほ紅芙蓉べにふようとこそ




192
さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花




193
友は二十はたちふたつこしたる我身なりふさはずあらじ恋と伝へむ




194
その血潮ふたりは吐かぬちぎりなりき春を山蓼やまたでたづねますな君




195
秋を三人みたり椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき




196
かの空よ若狭は北よわれ載せて行く雲なきか西の京の山




197
ひと花はみづから渓にもとめきませ若狭の雪に堪へぬくれなゐ




198
『筆のあとに山居やまゐのさまを知りたまへ』人への人の文さりげなき




199
京はもののつらきところと書きさして見おろしませる加茂の河しろき




200
恨みまつる湯におりしまの一人居ひとりゐを歌なかりきの君へだてあり




201
秋のふすまあしたわびし身うらめしきつめたきためし春の京に得ぬ




202
わすれては谷へおりますうしろ影ほそき御肩みかたに春の日よわき




203
京の鐘この日このとき我れあらずこの日このとき人と人を泣きぬ




204
琵琶の海山ごえ行かむいざと云ひし秋よ三人みたりよ人そぞろなりし




205
京の水の深み見おろし秋を人の裂きし小指をゆびの血のあと寒き




206
山蓼のそれよりふかきくれなゐは梅よはばかれ神にとがおはむ




207
魔のまへに理想おもひくだきしよわき子と友のゆふべをゆびさしますな




208
魔のわざを神のさだめと眼を閉ぢし友の片手の花あやぶみぬ




209
歌をかぞへその子この子にならふなのまだすんならぬ白百合の芽よ




 
     はたち妻
 
210
露にさめてひとみもたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹




211
やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな




212
何となきただーひらの雲に見ぬみちびきさとし聖歌せいかのにほひ




213
淵の水になげし聖書を又もひろひそら仰ぎ泣くわれまどひの子




214
聖書だく子人の御親みおやの墓に伏して弥勒みろくの名をば夕に喚びぬ




215
神ここに力をわびぬときべにのにほひきょうがるめしひの少女をとめ




216
痩せにたれかひももる血ぞ猶わかき罪を泣く子と神よ見ますな




217
おもはずや夢ねがはずや若人よもゆるくちびる君に映らずや




218
君さらば巫山ふざんの春のひとづままたの世までは忘れゐたまへ




219
あまきにがき味うたがひぬ我を見てわかきひじりの流しにし涙




220
歌〔補〕に名は相問あひとはざりきさいへ一夜ひとよえにしのほかの一夜とおぼすな




221
水の香をきぬにおほひぬわかき神草には見えぬ風のゆるぎよ




222
ゆく水をざれ言きかす神の笑まひ御歯みはあざやかに花の夜あけぬ




223
百合にやるあめの小蝶のみづいろのはねにしつけの糸をとる神




224
ひとつ血の胸くれなゐの春のいのちひれふすかをり神もとめよる




225
わがいだくおもかげ君はそこに見む春のゆふべの黄雲きぐものちぎれ




226
むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子




227
うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ




228
今日けふを知らず知恵の小石は問はでありき星のおきてと別れにし朝




229
春にがき貝多羅葉ばいたらえふの名をききて堂の夕日に友の世泣きぬ




230
ふた月を歌にただある三本樹ぼんぎ加茂川千鳥恋はなき子ぞ




231
わかき子が乳の香まじる春雨に上羽うはばを染めむ白き鳩われ




232
夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘




233
見しはそれ緑の夢のほそき夢ゆるせ旅人かたり草なき




234
胸と胸とおもひことなる松のかぜ友の頬を吹きぬ我頬を吹きぬ




235
野茨をりて髪にもかざし手にもとり永き日野邊に君まちわびぬ




236
春を説くなその朝かぜにほころびし袂だく子に君こころなき




237
春をおなじ急瀬はやせさばしる若鮎の釣緒つりをの細うくれなゐならぬ




238
みなぞこにけぶる黒髪ぬしや誰れ緋鯉のせなに梅の花ちる




239
秋を人のよりし柱にとがぬあり梅にことかるきぬぎぬの歌




240
京の山のこぞめしら梅人ふたりおなじ夢みし春と知りたまへ




241
なつかしの湯の香梅が香山の宿の板戸によりて人まちし闇




242
詞にも歌にもなさじわがおもひその日そのとき胸より胸に




243
歌にねて昨夜よべ梶の葉の作者見ぬうつくしかりき黒髪の色




244
下京しもぎやう紅屋べにやかどをくぐりたる男かわゆし春の夜の月




245
枝折戸あり紅梅さけり水ゆけり立つ子われより笑みうつくしき




246
しら梅は袖に湯の香は下のきぬにかりそめながら君さらばさらば




247
二十はたとせの我世のさちはうすかりきせめて今見る夢やすかれな




248
二十はたとせのうすきいのちのひびきありと浪華の夏の歌に泣きし君




249
かつぐきぬにそのとこの梅ぞにくき昔がたりを夢に寄する君




250
それ終に夢にはあらぬそら語りなかのともしびいつ君きえし




251
君ゆくとその夕ぐれに二人して柱にそめし白萩の歌




252
なさけあせし文みて病みておとろへてかくても人を猶恋ひわたる




253
夜の神のあともとめよるしら綾の鬢の香朝の春雨の宿




254
その子ここに夕片笑ゆふかたゑみの二十はたちびと虹のはしらを説くに隠れぬ




255
このあした君があげたるみどり子のやがて得む恋うつくしかれな




256
恋の神にむくいまつりし今日の歌えにしの神はいつ受けまさむ




257
かくてなほあくがれますか真善美わが手の花はくれなゐよ君




258
くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる




259
そよ理想りさうおもひにうすき身なればか朝の露草つゆくさ人ねたかりし




260
とどめあへぬそぞろ心は人しらむくづれし牡丹さぎぬに紅き




261
『あらざりき』そはのちの人のつぶやきし我には永久とはのうつくしの夢




262
行く春の一絃ひとを一柱ひとぢにおもひありさいへかげのわが髪ながき




263
のらす神あふぎ見するにまぶたおもきわが世の闇の夢の小夜中さよなか




264
そのわかき羊は誰に似たるぞのひとみ御色みいろ野は夕なりし




265
あえかなる白きうすものまなじりに火かげのはえのろはしき君




266
紅梅にそぞろゆきたる京の山叔母の尼すむ寺は訪はざりし




267
くさぐさの色ある花によそはれしひつぎのなかの友うつくしき




268
五つとせは夢にあらずよみそなはせ春に色なき草ながき里




269
すげ笠にあるべき歌と強ひゆきぬ若葉よかを生駒いこま葛城かつらぎ




270
裾たるる紫ひくき根なし雲牡丹が夢の真昼まひるしづけさ




271
紫のわが世の恋のあさぼらけ諸手もろてのかをり追風おつかぜながき




272
このおもひ真昼の夢と誰か云ふ酒のかをりのなつかしき春




273
みどりなるは学びの宮とさす神にいらへまつらで摘む夕すみれ




274
そら鳴りの夜ごとのくせぞくるほしきなれ小琴をごとよ片袖かさむ(琴に)




275
ぬしえらばず胸にふれむの行く春の小琴とおぼせ眉やはき君(琴のいらへて)




276
去年こぞゆきし姉の名よびて夕ぐれの戸に立つ人をあはれと思ひぬ




277
十九つづのわれすでに菫を白く見し水はやつれぬはかなかるべき




278
ひと年をこの子のすがた絹に成らず画の筆すてて詩にかへし君




279
白きちりぬ紅きくづれぬゆかの牡丹五ざんの僧の口おそろしき




280
今日の身に我をさそひしなかの姉小町こまちのはてを祈れとにぬ




281
秋もろし春みじかしをまどひなく説く子ありなば我れ道きかむ




282
さそひ入れてさらばと我手はらひます御衣みけしのにほひやみやはらかき




283
病みてこもる山の御堂に春くれぬ今日けふ文ながき絵筆とる君




284
河ぞひのかど小雨ふる柳はら二人ふたり一人ひとりめす馬しろき




285
歌は斯くよ血ぞゆらぎしと語る友に笑まひを見せしさびしき思




286
とおもへばぞ垣をこえたる山ひつじとおもへばぞの花よわりなの




287
庭下駄に水をあやぶむ花あやめはさみにたらぬ力をわびぬ




288
柳ぬれし今朝けさかどすぐる文づかひ青貝あをがひずりのその箱ほそき




289
『いまさらにそは春せまき御胸なり』われ眼をとぢて御手にすがりぬ




290
その友はもだえのはてに歌を見ぬわれを召す神きぬ薄黒き




291
そのなさけかけますな君罪の子が狂ひのはてを見むと云ひたまへ




292
いさめますか道ときますかさとしますか宿世のよそに血を召しませな




293
もろかりしはかなかりしと春のうた焚くにこの子の血ぞあまり若き




294
夏やせの我やねたみの二十妻はたちづま里居さとゐの夏に京を説く君




295
こもり居にしうの歌ぬくねたみ妻五月さつきのやどの二人ふたりうつくしき




 
     舞姫
 
296
人に侍る大堰おほゐの水のおばしまにわかきうれひの袂の長き




297
くれなゐの扇に惜しき涙なりき嵯峨のみぢか夜あけ寒かりし




298
朝を細き雨に小鼓こつづみおほひゆくだんだら染の袖ながき君




299
人にそひて今日けふ京の子の歌をきく祇園ぎをん清水きよみづ春の山まろき




300
くれなゐの襟にはさめる舞扇まひあふぎ酔のすさびのあととめられな




301
桃われの前髪ゆへるくみ紐やときいろなるがことたらぬかな




302
浅黄地に扇ながしの都染みやこぞめ九尺のしごき袖よりも長き




303
四條ばしおしろいあつき舞姫のぬかささやかに撲つ夕あられ




304
さしかざす小傘をがさに紅き揚羽蝶あげはてふ小褄とる手に雪ちりかかる




305
舞姫のかりね姿ようつくしき朝きゃうくだる春の川舟




306
紅梅に金糸のぬひの菊づくし五枚かさねし襟なつかしき




307
舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻廊わたどの




308
まこと人を打たれむものかふりあげし袂このまま夜をなに舞はむ




309
三たび四たびおなじしらべの京の四季おとどの君をつらしと思ひぬ




310
あでびとの御膝みひざへおぞやおとしけり行幸源氏みゆきげんじ巻絵まきゑ小櫛をぐし




311
しろがねの舞の花櫛おもくしてかへす袂のままならぬかな




312
四とせまへ鼓うつ手にそそがせし涙のぬしに逢はれむ我か




313
おほづつみかかへかねたるその頃よきぬきるをうれしと思ひし




314
われなれぬ千鳥なく夜の川かぜに鼓拍子つづみびやうしをとりて行くまで




315
いもうとの琴には惜しきおぼろ夜よ京の子こひし鼓のひと手




316
よそほひし京の子すゑてきぬのべて絵の具とく夜を春の雨ふる




317
そのなさけ今日舞姫まひひめひますか西の秀才すさいが眉よやつれし




 
     春思
 
318
いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春




319
春みじかし何に不滅ふめつの命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ




320
むろに絵の具かぎよる懸想けさうの子太古の神に春似たらずや




321
そのはてにのこるは何と問ふな説くな友よ歌あれつひの十字架




322
わかき子が胸の小琴のを知るや旅ねの君よたまくらかさむ




323
松かげにまたも相見る君とわれえにしの神をにくしとおぼすな




324
きのふをば千とせの前の世とも思ひ御手なほ肩に有りとも思ふ




325
歌は君酔ひのすさびと墨ひかばさても消ゆべしさても消ぬべし




326
神よとはにわかきまどひのあやまちとこの子の悔ゆる歌ききますな




327
湯あがりを御風みかぜめすなのわが上衣うはぎえんじむらさき人うつくしき




328
さればとておもにうすぎぬかつぎなれず春ゆるしませなかの小屏風




329
しら綾に鬢の香しみし夜着よぎの襟そむるに歌のなきにしもあらず




330
夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき消えしともしび神うつくしき




331
もゆる口になにを含まむぬれといひし人のをゆびの血は涸れはてぬ




332
人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ




333
ここに三とせ人の名を見ずその詩よまず過すはよわきよわき心なり




334
梅の溪のもやくれなゐの朝すがた山うつくしき我れうつくしき




335
ぬしや誰れねぶの木かげの釣床つりどこあみのめもるる水色のきぬ




336
歌に声のうつくしかりし旅人の行手の村の桃しろかれな




337
朝の雨につばさしめりし鴬を打たむの袖のさだすぎし君




338
御手づからの水にうがひしそれよ朝かりし紅筆べにふで歌かきてやまむ




339
春寒はるさむのふた日を京の山ごもり梅にふさはぬわが髪の乱れ




340
歌筆をべににかりたるさき
てぬ西のみやこの春さむき朝




341
春の宵をちひさく撞きて鐘を下りぬ二十七だん堂のきざはし




342
手をひたし水は昔にかはらずとさけぶ子の恋われあやぶみぬ




343
病むわれにその子五つのをとこなりつたなの笛をあはれと聞く夜




344
とおもひてぬひし春着の袖うらにうらみの歌は書かさせますな




345
かくて果つる我世さびしと泣くは誰ぞしろ桔梗さく伽藍がらんのうらに




346
人とわれおなじ十九のおもかげをうつせし水よ石津川の流れ




347
卯の衣を小傘をがさにそへて褄とりて五月雨わぶる村はづれかな




348
大御油おほみあぶらひひなの殿とのにまゐらするわが前髪に桃の花ちる




349
夏花に多くの恋をゆるせしを神悔い泣くか枯野ふく風




350
道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る




351
魔に向ふつるぎのつかをにぎるには細き五つの御指みゆびと吸ひぬ




352
消えむものか歌よむ人の夢とそはそは夢ならむさて消えむものか




353
恋と云はじそのまぼろしのあまき夢詩人しじんもありき画だくみもありき




354
君さけぶ道のひかりのをちを見ずやおなじあけなるもやたちのぼる




355
かたちの子春の子血の子ほのほの子いまを自在のはねなからずや




356
ふとそれより花に色なき春となりぬ疑ひの神まどはしの神




357
うしや我れさむるさだめの夢を永久とはにさめなと祈る人の子におちぬ




358
わかき子が髪のしづくの草に凝りて蝶とうまれしここ春の国




359
結願けちぐわんのゆふべの雨に花ぞ黒き五尺こちたき髪かるうなりぬ




360
罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ




361
そとぬけてそのもやおちて人を見ず夕の鐘のかたへさびしき




362
春の小川うれしの夢に人遠き朝を絵の具の紅き流さむ




363
もろき虹の七いろ恋ふるちさき者よめでたからずや魔神まがみつばさ




364
酔に泣くをとめに見ませ春の神男の舌のなにかするどき




365
その酒の濃きあぢはひを歌ふべき身なり君なり春のおもひ子




366
花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ




367
みかへりのそれはた更につらかりき闇におぼめく山吹垣根




368
ゆく水に柳に春ぞなつかしき思はれ人に外ならぬ我れ




369
その夜かの夜よわきためいきせまりし夜琴にかぞふる三とせは長き




370
きけな神恋はすみれの紫にゆふべの春の讃嘆さんたんのこゑ




371
病みませるうなじにほそきかひな捲きて熱にかわける御口みくちを吸はむ




372
天の川そひねの床のとばりごしに星のわかれをすかし見るかな




373
染めてよと君がみもとへおくりやりし扇かへらず風あきとなりぬ




374
たまはりしうす紫の名なし草うすきゆかりを歎きつつ死なむ




375
うき身朝をはなれがたなの細柱ほそばしらたまはる梅の歌ことたらぬ




376
さおぼさずや宵の火かげの長き歌かたみに詞あまり多かりき




377
その歌をします声にさめし朝なでよの櫛の人はづかしき




378
明日を思ひ明日の今おもひ宿の戸に寄る子やよわき梅暮れそめぬ




379
金色こんじきはねあるわらは躑躅つつじくはへ小舟をぶねこぎくるうつくしき川




380
月こよみいたみの眉はてらさざるに琵琶だく人の年とひますな




381
恋をわれもろしと知りぬ別れかねおさへし袂風の吹きし時




382
星の世のむくのしらぎぬかばかりに染めしは誰のとがとおぼすぞ




383
わかき子のこがれよりしは斧のにほひ美妙みめう御相みさうけふ身にしみぬ




384
清し高しさはいへさびし白銀しろがねのしろきほのほと人のしう見し(醉茗の君の詩集に)




385
かりよそよわがさびしきは南なりのこりの恋のよしなき朝夕あさゆふ




386
来し秋の何に似たるのわが命せましちひさき萩よ紫苑よ




387
柳あをき堤にいつか立つや我れ水はさばかり流とからず




388
さちおはせ羽やはらかき鳩とらへ罪ただしたる高き君たち




389
打ちますにしろがねの鞭うつくしき愚かよ泣くか名にうときひつじ




390
誰に似むのおもひ問はれし春ひねもすやは肌もゆる血のけに泣きぬ




391
庫裏くりの藤に春ゆく宵のものぐるひ御経みきやうのいのちうつつをかしさ




392
春の虹ねりのくけ紐たぐりますはぢろがみあけのかをりよ




393
むろの神に御肩みかたかけつつひれふしぬゑんじなればの宵の一襲ひとかさね




394
あめさいここににほひの美しき春をゆふべに集ゆるさずや




395
消えてりて石と成らむの白桔梗しらぎきやう秋の野生のおひ趣味しゆみさて問ふな




396
歌の手に葡萄をぬすむ子の髪のやはらかいかな虹のあさあけ




397
そと秘めし春のゆふべのちさき夢はぐれさせつる十三絃よ









■このファイルについて
標題:みだれ髪
著者:與謝野晶子
本文:日本文学選「初版本 みだれ髪」 昭和22年2月25日 初版発行
表記:原文の表記を尊重しますが、読みやすさに配慮して以下のように扱いました。

○原文で用いられている旧字体は、現行の新字体に変更しました。
○本文の仮名づかいは、原文通りとしました。
○歴史的仮名遣いの誤りを正しました。
○歌番号を追加しました。
○明治三十四年発行の初版本(復刻版)に基づき訂正した箇所があります。

その他

○明治三十四年発行の初版本の歌数は三百九十九首ですが、この「初版本 みだれ髪」は、二首少なく、三百九十七首です。以下の二首が欠けています。
  水十里ゆふべの船をあだにやりて柳による子ぬかうつくしき(をとめ)
  袖にそむきふたたびここに君と見ぬ別れの別れさいへ乱れじ

入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2004年10月20日 里実文庫